國體護持總論
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千島全島と南樺太

このやうに、領土問題といふのは、總論的に、これまで述べた基準に基づいて檢討しなければならないのであつて、そのことは、各論的な個別の領土問題に共通して當てはまることである。いはゆる北方領土問題についても例外ではなく、これまで述べてきた時系列に從つて、問題の所在を確認してみることにする。

初めに、領有については、國家の成立がどのやうなものであつても國家承繼されることについては先に述べた。それゆゑ、帝政ロシア(露)、ソ連(ソ)、共和制ロシア(ロ)へと變化しても、我が國の領有問題は、歴史的、法律的に連續した一連の問題として認識することになる。

その上で、領域の取得について考察すると、まづ、「先占」の點であるが、これについてはアイヌ民族などによる先住性が認められるために、いづれの國においても先占は成り立たない。それは、西サハラ事件やパルマス島事件の裁判所の意見や判決の基準に照らしても當然である。ところが、この原住民の先住性と、さらに原住民への歴史的な差別問題を以て、我が國の領有を否定することの根據とする言説があるが、これは國内問題と對外主權の問題とを混同するものであつて、明らかに誤つてゐる。先住性と差別性が問題とされるのは、あくまでも「國内問題」なのであつて、それ自體は國内において解決しなければならないことは勿論のことであるが、領域の歸屬の問題は、純粹の「國際問題」、つまり國外主權の問題である。我が國が領有を主張する領域内でのアイヌ問題について、ロシアが領有主張の反論や抗辯とすることは、内政不干渉の原則に違反するし、その逆も同樣である。それゆゑ、領土問題の出發點は、やはり安政の『日露和親條約』であり、それ以前にも以後にもない。この條約は、我が國にとつて不利益な不平等條約であつたが、それでも、千島列島における日露國境を擇捉島と得撫島との間と確定した。その後、明治八年の『樺太・千島交換條約』を締結し、境界不確定であつた樺太における我が國の領有權と得撫島以北の千島列島における帝政ロシアの領有權とを交換した。いはば相互が「割讓」して交換したことにより領土と國境を確定したのである。そして、明治三十八年の『日露講和條約』(ポーツマス條約)により、我が國は、帝政ロシアから南樺太(北緯五十度以南)の領土を永久に割讓を受けることになり、大正十四年の『日ソ基本條約』で、再度『日露講和條約』(ポーツマス條約)の效力を再確認したのである。

ところが、ソ連は、日ソ中立條約に違反し、それをアメリカと共謀してヤルタ密約などの數限りない謀略により北方領土を侵略したが、我が國が受諾したポツダム宣言に引用されたカイロ宣言は成立してをらず無效であり、得撫島以北の千島列島と南樺太の領有を明確に放棄したものでもない。假に、これによつて放棄したと解釋されるとしても、それはあくまでも最終講和までの暫定的なものであり、それは桑港條約によつて最終的に確定するものである。確かに、桑港條約第二條には、「日本國は、千島列島竝びに日本國が千九百五年九月五日のポーツマス條約の結果として主權を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。」とあり、千島列島及び南樺太を放棄するとしたが、その相手國であるソ連は桑港條約に調印しなかつたので、桑港條約第二十五條により、我が國が千島列島(得撫島以北)と南樺太の領有權放棄の效力は發生しない。つまり、同條には、「この條約の適用上、連合國とは、日本國と戰爭していた國又は以前に第二十三條に列記する國の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に當該國がこの條約に署名し且つ之を批准したことを條件とする。・・・」とあるからである。放棄といふのは、單獨行爲、すなはち、相手の承諾を得ずしてできると解されてゐるが、これまで、「放棄」といふ單獨行爲によつて領域の取得原因とする國際法はなかつた。この場合の「放棄」といふのは、實質的には「割讓」といふ領域の取得原因を意味するのであつて、相手國が、桑港條約の當事國とならなかつたことは、假に、我が國が放棄(割讓の申入)をしたとしても、それを豫め拒絶することであるから、我が國の放棄(割讓の申入)は合意に至らずして失效し、撤回されたことになる。といふよりも、ソ連が相手國として調印することを「條件」として放棄するといふ「條件付放棄」であるといふべきであつて、相手國不存在のため、條件不成就により失效してゐるとも解される。それゆゑ、未だに、得撫島以北の千島列島と南樺太は、我が國が領有してゐることになる。

ところが、政府は、これまで、國後、擇捉を除外するなどの紆餘曲折はあつたものの、現在のところは、擇捉島、國後島、色丹島、齒舞諸島の、いはゆる「北方四島」の固有の領土の領有權問題であるとしてゐる。しかし、これは、「固有」といふ「時效」の法理だけに限定して領土問題を矮小化するのは利敵行爲の見解であると云はざるを得ない。「固有」といふのは、安政の『日露和親條約』を基點とする主張であるかのやうであるが、實はさうではない。安政の條約において、擇捉と得撫との間を國境として確定したのであつて、それ以前においても、それが「固有」の領土として確定してゐたか否かは必ずしも明らかではない。それゆゑに國境の確定を條約によつて定めたのである。

そもそも、「固有の領土論」を持ち出すことは、領土問題における敗北を意味する。「固有」といふのは、どこまで遡るのか、有利に援用できる面もあるが、結局のところ、遡れば遡るほど帰属未定地となつて固有の領土を失ふ論理に陥る。領土問題については、時效の論理だけでは不十分であり、國際條約を根據に領土論を展開すべきなのである。

なぜならば、もし、我が國が、領土取得の基點を「固有」といふ歴史、沿革に依據する根據を持ち出すのであれば、ロシアもまた、その歴史的沿革を持ち出してくる。歴史的には、確かにアイヌ民族の先住性は認められても、約三百年前からロシア人がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始し、安永元年(1772+660)には、千島アイヌとロシア人が衝突してロシア人が島から退去するも、再びロシア人の南下による活動は續いてゐたことからして、得撫島を含め千島列島全域には先住民としてアイヌ人と後住民のロシア人とが混住してゐた事實がある。そして、ロシアとしては、アイヌ人を「自國」の先住民とみなしてこれを國内問題であると主張し、ロシア側もまた「固有」性も持ち出して來ることも可能となるのである。つまり、ロシア人とアイヌ人との混住事實論とアイヌ人自國民論の兩者で、「固有性」を主張することもできる。そうすると、我が政府のいふ「時效の論理」(固有の領土論)の主張も盤石ではなく、早晩崩れてくることになる。そもそも、遠い過去において、どの民族がどの地域において原始的な先住民族であつたかといふことは、科學的に證明されてはゐない。たとへば、北海道アイヌについても、その祖先は、日高海岸に漂流した女神と同所に住んでゐた狼(ホロケウ)との間にできた子供の末裔とするアイヌ傳説があることからしても(更科源蔵)、これは渡來系の混血型民族であり原始的先住性があるとは云へないからである。

また、パルマス島事件の判決要旨にもある「領域主權の繼續的かつ平和的な行使は、權原としては十分に有效である」とする論理からすれば、遲くとも安政の條約以後は、擇捉以南の千島について、「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」をしてきたのであつて、その經過事實を以て領域主權の權原とすべきであつて、これは、「時效」に類似した權原の主張として有力なものである。そして、この論理は、千島全島及び南樺太がソ連によつて侵略されて占領されてゐることから、ソ連とその承繼國のロシアの占領は、「平和的な行使」ではないことから、たとへこれからも如何に長期に亘つてロシアが千島全島と南樺太について領域主權を主張し実效支配を繼續してきたとしても、それは、領域の取得の權原とはならないのである。

ところが、政府にはこの論理が理解できず、依然として、「固有の領土」といふ「時效」の主張しかしてゐないのである。そして、我が國は放棄したがソ連が桑港條約に調印してゐないので、ソ連が領有したことにならないから、千島列島(得撫島以北)と南樺太は「歸屬未定地」であるとするのである。敗北したことからくる卑屈さもさることながら、武裝解除を容認し續け、武力による奪還ができない状況で、歸屬が未定となるやうな領土の放棄は、その住民(臣民)の遺棄(棄民)を伴ふものであり、これほど無責任な行爲はないのである。

從つて、我が國は、ロシアとの講和條約を締結する以前に、直ちに、桑港條約第二條の撤回と失效をロシアに對し主張し、千島全島と南樺太の領有權を堂々と主張すべきである。

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