國體護持總論
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著書紹介

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講和條約と評價しうる具體的理由

1 まづ、昭和二十一年二月十三日、GHQ側が「マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)」に基づいて作成された『日本國憲法草案(GHQ草案)』を我が國政府側に手交して、これによる憲法改正を指令し、このGHQ草案を翻譯した「三月二日案」をGHQがさらに訂正した確定案を政府に強制して閣議決定された「GHQ修正草案」が政府の確定草案(三月五日案)となり、これに若干の字句の訂正を經て、『帝國憲法改正草案要綱』を作成してマッカーサーの承認を得たものであり、その後も、條項の細部に亘つて詳細な指示と交渉が繰り返され、これにより政府原案が作成され、さらに引き続き指示と交渉が爲され、帝國議會の審議等の國内の形式手續を經て占領憲法となつた經緯がある。つまり、GHQ草案の手交は、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の「申込文書」であり、「占領憲法」の制定は「承諾文書」であると評價できる。前に述べたとほり、「契約」は、申込と承諾によつて成立するので、文書化することはその證明方法であつて、一つの「合意文書」を作成しなければならないことはない。申込文書と承諾文書の二つの文書によつて合意を證明することもできるからである。『條約法條約』第二條(用語)第一項にも、「『条約』とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。」とあり、合意文書が作成されることは要件とされない。文書の個數にも制約がなく、その名稱も問はないのであるから、ポツダム宣言とその受諾、降伏文書の調印が一連の條約であると判斷されるのと同樣に、GHQ草案の手交とそれによる占領憲法の制定手續と、後に述べるやうに、GHQの命令によつて占領憲法を「英文官報」といふ文書により公示した經過からすれば、その實質はまさに「講和條約」なのである。

2 また、占領政策の最高決定機關である極東委員會(FEC)は、昭和二十一年三月二十日に、「極東委員會は(占領憲法の)草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」との決定をなしてをり、同年十月十七日において、占領憲法の「最終審査」が未了のまま、事後において占領憲法が「日本國民の自由に表明された意思」に基づくものであるか否かを「再檢討」するといふことになつたものの、桑港條約の發效とともに廢止されたといふ一連の經緯からして、占領憲法は單純に國内系に屬する規範ではなく、連合國と我が國との講和條約であることの實質的な性質を有してゐたことが明らかである。

3 次に、「終戰連絡事務局」の存在が擧げられる。GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戰連絡事務局」であり、これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和二十年八月十九日、マニラに派遣された河邊虎四郎全權がGHQとの「マニラ會談」においてGHQから手交された要求事項に基づいて設置されたものである。この「終戰連絡事務局」は、外務大臣の所管とされ、「大東亞戰爭終結ニ關シ帝國ト戰爭状態ニ在リタル諸外國ノ官憲トノ連絡ニ關スル事項ヲ掌ル」といふものであり、その後の機構と名稱が變更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港條約發效までの非獨立時代を一貫して存續してきた組織である。それは、占領憲法の施行の前後においても全く變はることはなかつたのである。つまり、占領憲法の制定、施行とは全く無關係に獨立に至るまで一貫した講和交渉の窓口が置かれてゐたことになる。

4 そして、この占領憲法制定過程において、當初から外務大臣、そして内閣總理大臣として深く關與してきた吉田茂は、「・・・改正草案が出來るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二卷)と回想してゐるとほり、まさに占領憲法は、交渉當事者の認識としても「外國との條約締結の交渉」としての實態があつたといふことである。つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によつてなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝國議會や臣民の方を向いてゐなかつたことから、占領憲法は、國内法としての憲法ではなく、國際法としての講和條約であつたといふことである。

5 このことは、何も交渉當事者であつた吉田茂だけの感覺や評價に限られたものではなかつた。たとへば、上山春平(京都大學名譽教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べてをり、後述するとほり有倉遼吉(元早稻田大學法學部教授)も占領憲法が講和大權の特殊性によつて合法的に制定されたとする見解を示してゐたこともあつたのである。また、前に述べたとほり、黒田了一(元大阪市立大學大學法學部教授、共産黨系の元大阪附知事)も占領憲法を「條約」であるとする見解を示してゐたのである。

6 同樣に、昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員會公聽會において、外交官大橋忠一議員の發言にも注目すべきものがある。大橋忠一議員は、第二次近衞内閣當時の外務次官を務め、また、昭和十五年十一月に松岡外務大臣のもとで外務次官となつて日米交渉に携はつた外交官であるが、この衆議院外務委員會公聽會において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持つたもの」といふ發言をしてゐる。長く外交官を務めた者の判斷として、占領憲法は、ポツダム宣言に根據を持つ下位の法令であるとしてゐるのである。

7 また、吉田茂の第一次内閣發足直後の樞密院審議において、吉田は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だといふ人もゐる。GHQに早く歸つてもらふためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と發言して、これが講和の條件として制定する趣旨であることを樞密院に説明し、樞密院は講和獨立のためといふ動機と目的のために帝國憲法改正案を諮詢したことになり、講和條約の承認としての實體があつたことになる。

8 さらに、吉田茂は、占領憲法が「新日本建設の礎」となるとして、それを與へてくれたマッカーサーに感謝の書簡を出してゐる。それを與へくれたといふのは、まさに講和條約を受け入れたといふことであり、獨自の憲法であれば、それをマッカーサーが與へてくれたと感謝する必要もないのである。

9 そして、「英文官報」の存在も無視できない。GHQの指令により、昭和二十一年四月四日から獨立回復した昭和二十七年四月二十八日までの間、「英文官報」(英語版官報)が發行されてゐた。これは、外務省の終戰連絡事務局と法制局との協議によつて作成し、GHQの承認を得て掲載されるものであつて、我が國の法令は、すべてGHQとの條約交換公文方式によつて公布、公示されてきたのである。そして、占領憲法については、特に嚴密にGHQの承認を得て帝國憲法改正案(占領憲法)の英譯文を作成して掲載されたものである。ちなみに、この公文書たる「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されてゐるのは、單なる任意の英譯文ではなく、英文官報掲載された「英文占領憲法」として規範的效力を有する公文書なのである。

10 連合國軍最高司令官總司令部の最高司令官(GHQ/SCAP)であるマッカーサーが發令した、昭和二十年九月十日『言論及新聞の自由に關する覺書』(SCAPIN16)、同月十九日『日本に與ふる新聞遵則』(SCAPIN33)及び同月二十二日『日本に與ふる放送遵則』(SCAPIN43)などによる一連の言論、新聞、報道の規制と檢閲制度の全體を『日本プレスコード指令』と呼稱するが、削除又は發行禁止處分の對象となる項目としての具體的な内容(文獻170、183、184)の一つに、「SCAPが憲法を起草したことに對する批判(日本の新憲法起草に當つてSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に當つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」が含まれてゐた。このことは、占領憲法の實質は、GHQ/SCAPと日本國との合意(講和條約)であり、それを國内的には憲法と假装することの「密約」があつたと評價できるものである。つまり、占領憲法は、「憲法」ではないが、その「擬態」として作られたものであり、その本質は講和條約であるといふことである。

11 また、桑港條約第一條に注目せねばならない。ここには、「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。連合國は、日本國及びその領水に對する日本國民の完全な主權を承認する。」と規定し、同條約の效力發生(昭和二十七年四月二十八日)までは、我が國には「完全な主權」がなかつたことを宣言した點についてである。

このことは、占領憲法の前文に「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」ことが、占領憲法の制定時も施行時も不可能であつたことを意味し、その宣言内容が全てが虚僞であることを桑港條約によつて證明されたことになるのである。

確かに、前に述べた主權概念の二義性からすると、桑港條約第一條の「主權」は對外的主權の意味であり、占領憲法前文の「主權」は對内的主權を意味するので、同列には議論できないとしても、對外的主權が維持されてゐない状態では對内的主權がありえないことからすれば、このやうな批判は當を得たものではない。つまり、占領憲法が確定したとする時點では、戰爭状態も終了してをらず、未だ戰爭中であり、しかも完全軍事占領下の非獨立状態であつたから、いづれの主權概念であつても「完全な主權」がなかつたといふことである。しかも、そのことについて占領憲法は一言も觸れてゐない。「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」といふのは明らかな誤りであつて、「この憲法を連合國の軍事占領下の非獨立の時期に制定する。」とすべきであるのに、あたかも、獨立國の憲法であるかの如く假装した欺瞞に滿ちたものとなつてゐる。降伏文書は「停戰協定」にすぎず、依然としてその實效性が繼續して「戰爭状態」にあり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ・・・聯合國最高司令官」の隷屬下に置かれてゐたのであるから(subject to)、「主權者」は、「聯合國最高司令官」であつて、「日本國民」ではなかつたからである。そもそも、占領憲法のどこを探しても、占領憲法が「非獨立」の「戰爭状態」で制定されたものであるとの記載がない。占領憲法は、このやうな重大な事實を隱して、あたかも「一人前の憲法」であると僞つた「詐欺憲法」なのである。

それゆゑ、少なくともこの「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」との部分は、「主權の存する聯合國最高司令官は、・・・主權が將來において國民に移讓されることを宣言し、この憲法を非獨立の軍事占領下における戰爭状態で聯合國の強制により制定する。」といふのが實質的な意味となる。この「主權の移讓」といふ論理は、第二章でも述べたとほり、英米によるイラク戰爭後のイラク統治においても用ゐられ、平成十六年六月二十八日、米英によるイラク暫定占領當局(CPA)がイラク暫定政府に主權を移讓したとするものと同樣である。

これは、戰爭で勝利して實現した實力(暴力)こそが唯一正當な權力(主權)であり、戰勝國の意に反しない敗戰國の國民にその主權を移讓することができると信奉してゐる暴力至上主義の主權論に基づくものであり、占領憲法もイラク憲法もまさにこの主權移讓を受けたことに正當性の根據を見出す「暴力禮贊憲法」なのである。

12 さらに、桑港條約第十九條(d)である。これには、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」と規定してゐる。

そして、前に述べたとほり、この「指令に基いて若しくはその結果として行われ」たものの中に、占領憲法の制定があつたことは歴史的事實ではあるが、あくまでもこれは「憲法」であるとの認識から、形式上は占領憲法を除外してゐるのである。もし、同條(d)において、占領憲法が「指令に基いて若しくはその結果として行われ」たものの中に占領憲法が含まれると明記したのであれば、これに含まれたことになるが、そのやうに明記すれば國際法違反であることをわざわざ宣言することになるので、そのやうに明記できなかつたのである。つまり、この條項を政治的意圖を以て擴大解釋すれば、占領憲法は我が國と連合國との合意によつて成立したものであるとの認識がなされてゐたことになるのである。

この桑港條約第十九條(d)の原型は、「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戰爭中にこの憲章の署名國の敵であつた國に關する行動でその行動について責任を有する政府がこの戰爭の結果としてとり又は許可したものを無效にし、又は排除するものではない。」と規定する國連憲章第百七條に見出すことができる。これは連合國が我が國になした占領憲法の強要を含む一切の行爲を免責させその效力を維持させようとするものである。つまり、我が國がポツダム宣言受諾前に「敵國條項」を含む國連憲章を作成し、それを最終的には桑港條約第十九條(d)によつて、未だに「敵國」であることを改めて我が國に承認させたかつたのである。そして、その上で、我が國が國連に加入(國連憲章の承認)したのであるから、我が國は占領憲法の改廢をしないことの誓約をしたに等しい。このやうに、連合國は、國連憲章と桑港條約によつて我が國に占領憲法を改廢することを禁止する意向を示し、我が國がそれを受諾したかのやうな事實的状況からして、占領憲法は獨立國の憲法としての性質を有せず、實質的には連合國との講和條約であることが客觀的に明らかとなつてゐるのである。

13 そして、さらに、再び占領憲法の前文に注目してほしい。その最後には、「日本國民は、國家の名譽にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」として締めくくつてゐる。ところで、この「誓ふ」といふのは、一體誰に誓ふといふのか。「主權が國民に存する」のであり、その國民主權を制約したりする上位に位置するものはないはずである。なのに「誓ふ」ことは矛盾する。「誓ふ」といふのは、本來は「神」に誓ふといふやうな場合に使ふものである。その「神」とは、この場合、戰勝國である連合國のことである。連合國に誓ふのである。將來、獨立したときは主權移讓をしてもらふことになる神である主權移讓者の連合國に誓ふのである。これこそ、講和條約の實體であつたことを宣言したことになる。つまり、帝國憲法から「主權委讓」(國内的主權移轉)されたのではなく、連合國から「主權移讓」(國際的主權移轉)されたことを宣言したのである。

14 また、占領憲法第九條第二項後段(國の交戰權は、これを認めない。)の表現は極めて不可解である。一體、誰が誰に對して「認めない」といふのであらうか。これは、まぎれもなく「連合國は、我が國の交戰權を認めない。」といふ講和條件を意味してゐる。もし、主體性のある自國の憲法であれば、この表現は、「國の交戰權は、これを抛棄する。」となつたはずである。

15 最後は、占領憲法第九十八條である。  ここには、前文の「誓ふ」と同樣に、占領憲法は、その主權をGHQから移讓を受けたことを、いみじくも暴露してゐるのである。占領憲法制定時から既に國民に主權があつたと僞裝したはずであつたが、やはりその出生の祕密を完全には隱せなかつた。出生の祕密を暴露してしまつた規定を設けてしまつたのである。

この規定は、前にも述べたが、條約優位説の根據となるのではないかとの見解や、最高裁判所もそのやうな見解ではないかといふことの根據となりうるものである。つまり、この第一項には、「この憲法は、國の最高法規であつて、その條規に反する法律、命令、詔敕及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その效力を有しない。」として、これには「條約」が含まれないが、同第二項には「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」と規定し、ここでは明らかに「條約」を含めてゐるのである。

「條約」は、「法律」でも「命令」でも、ましてや「詔敕」でも「國務に關するその他の行爲」でもない。占領憲法では、「法律」と「條約」とを明確に區別し、兩者を含むときは、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔敕を排除する。」(前文)といふやうに、「法令」とする。ましてや、第二項では、「條約」についてのみ言及してゐることからして、第一項には、「條約」が含まれないことは明らかである。つまり、このことからして、第一項は、占領憲法に違反する法令のうち、條約のみは有效であることを意味する。

また、第二項は、「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」とするだけで、「この憲法に反しない限り」といふやうな限定もない。それどころか、いかなる「條約」であつても、また、條約ではないとしても「確立された國際法規」については、無條件で遵守することを義務付けてゐる。

この「確立された國際法規」とは、ヤルタ・ポツダム體制を集約的に表現した、我が國を敵國として規定した國連憲章を意味することは明白である。

それゆゑ、占領憲法は、條約及び國際法規とは效力的には同等(同位)であるか、あるいは條約等が占領憲法よりも優先する存在であることを認めてゐることになるのであつて、占領憲法が實質的に條約であることを自ら宣明してゐることとなつてゐる。

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