國體護持總論
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羊羹方式

このうち、まづ、「羊羹方式」で構築される效用均衡理論を具體的に説明すれば次のとほりである。

國家その他の團體において、その團體構成員は、その團體の議決又は選擧の投票などの團體の運營又は意志形成への參加(政治參加)に關し、自己の意志と、團體の統一意志として形成された一般意志とが一致すればするほど、自己の意志が實現する程度(意志實現性)が大きくなつて、その意志實現による「效用」(欲望の滿足度)も大きくなる。これに對し、自己の意志と一般意志が相反すればするほど、意志實現による效用は小さくなる。そして、その小さくなつた分だけ、その一般意志による執行を監視・監督・監査する必要性の程度(監察必要性)が大きくなる。この「意志實現性」と「監察必要性」とは相反(trade-off)關係にあり、從來から、この「監察必要性」は、意志實現を滿たした多數者による樞軸權力から派生する下位權力機關である監察機關(例へば、監事、監査役、總務廳行政監察局、會計檢査院など)の手に委ねられた。この階層構造こそが少數支配による權力の獨占構造なのである。執行權者と監察權者とが上下一體となる「二足の草鞋」の構造こそ政治腐敗の源泉であり、淨化を困難ならしめている根源なのである。

そこで、少數者にも、何らかの政治參加に關する效用を付與して、效用の分配をすることが必要となつてくる。しかし、「多數者」に政治參加における意志實現の效用(實現效用)を與へることが多數決原理の眞髄であるから、これを少數者に分與することはできない相談である。つまり、多數者に代はつて、或いはこれと併存して少數者に同等の意志實現の效用を與へることは、多數決原理はおろか、民主制の根幹を否定する自己矛盾に陷るからである。

では、どうするのか。それは、多數者の實現效用として付與される「執行權」又は「執行參加權」に對して、少數者に、政治參加の意志實現が否定されたことの「代替效用」として、監察必要性を實現する「監察權」又は「監察參加權」を付與するのである。

この代替效用とは、經濟學において、消費者が本來的に購買を目的としてゐる財に代はりうべき代替財による效用を意味する。ここでは、政治參加における意志實現の效用(實現效用)の代替價値(代替財としての監察權取得)による政治參加の滿足のことの意味で用ゐるものである。

商法理論では、法人の不正腐敗淨化のための機關である監査人(監査役、會計監査人など)の權限が及ぶ監査對象について、法人の資本等の規模による分類における小會社(企業)では「會計監査」のみとし、大會社(企業)では「會計監査」及び「業務監査」の雙方としてゐる。これと同樣に、政治學の理論においても、國家の不正腐敗淨化のための監察對象は、「會計」のみであつて、それは歴史的には「會計檢査院」などの名稱の監察機關に委ねられてゐた。しかし、このやうな會計監察機構は、小國家(部族國家、地域國家及び少數人民國家など)において效率的に機能する淨化機關であつて、連邦國家、多民族國家及び大衆國家などの現代國家には效率的に機能しえないものである。會社などの企業體も國家と同樣に「社團法人」の範疇に含まれるのであるから、商法の監査理論が示唆するやうに、社團法人の規模が擴大すれば、その不正腐敗の淨化のためには「會計監査(會計檢査)」だけでは不充分であつて、これに加へて、業務執行(行政執行)の内容及びその方法が適法であるか否かを審査する「業務監査(國政監察)」や少數社員(株主)の「檢査權」が必要となるのである。

また、その業務監査(國政監察)の態樣においても、事後的かつ臨時的な監察權行使は言ふに及ばず、事前的かつ恆常的な監察權の行使が重要である。

ところで、この監察權及び監察參加權の權限態樣については、本來的な國政全般に對する監察のための調査權限の外に、國民、國會、内閣及び裁判所に對して不正事項を公表及び指摘する權限は言ふに及ばず、さらに、限定的には罷免請求權限をも含むものでなければならない。

なほ、「執行權」と「執行參加權」との區別は、前者が、多數者の政治參加における意志實現の效用(實現效用)を直接に享受される權利であるのに對し、後者は、その執行權を享受された者の委任や委託などによつて執行行爲に參画できる權利であつて、執行權それ自體を享受するのではなく、それから間接に享受される權利をいふ。前者の例としては、選擧に立候補した者が當選した場合の當選者(被選擧權の實現)の地位に基づく執行に關する權利や權限などである。また、後者の例としては、選擧で投票した候補者が當選した場合に、その候補者から、その地位による活動のため補助者や委託者として選任された者の地位に基づく權利や權限などである。これと同樣に、「監察權」と「監察參加權」との區別もこれに準ずる。前者は、少數者の政治參加の意志實現が否定されたことの「代替效用」としての監察必要性の實現が直接に享受される權利であり、後者は、これが間接に享受される權利である。

即ち、多數決原理による議決及び選擧の結果、實現效用を得た多數者に對し、少數者には、その實現效用を得られなかつたことの見返りとして、團體の執行權又は執行參加權を監察しうる少數者の權利(監察權)を取得させるのである。政治參加の效用を多數者のみに獨占させることなく、意志實現を果たせなかつた少數者にも、多數者の實現效用とは異質ではあるが、監察權の取得といふ代替效用を付與することによつて、多數者と少數者の各效用の均衡をはかることこそ公平の理念(正義)を實現することになる。ここにおいて、一般意志とは、執行意志、監察意志、及び執行と監察との機能分配を實現する意志によつて、總合的に構成されてゐると認識することができる。

これは、「羊羹方式」による異質な權限の配分を意味する。選擧の結果によつてどちらが多數者となり、その他方が少數者として判定される。多數者には、羊羹をどのやうに切るかを執行する權限が與へられ、少數者には、その代はりとして、羊羹が正しく切られてゐるかを監察する權限が與へられるのである。

これを取り入れたのが「效用均衡理論」であり、これによつて社會構造を再構築することが、眞の意味で一般意志(民意)の實相と公平の理念に限りなく接近することになる。從來の多數決原理及び少數支配の法則による統治においては、政治參加の效用を「持つ者」と「持たざる者」とを峻別し、多數者にすべての效用を獨占させることになる。效用の有無による二階層の社會が實在することになるが、多數者に屬するか少數者に屬するかは必ずしも固定されてをらず、流動性があり、その領界は不明確である。しかし、いつしか體系化・類型化した政治思想に影響され、多數者固有の政治思想や少數者固有の政治思想が形成されて、その流動化も喪失する。そして、多數者から抽出された少數支配者が、その他の多數者と少數者を被支配者として支配する硬質な支配構造へと變化させ、效用の獨占傾向が一段と強まる。さらに、ある者の政治參加による效用(政治效用)の保有量の增大は、政治、經濟、教育、情報、文化、宗教など凡そ社會に實在する樣々な活動によつて享受する實利及び名譽などの全效用(社會效用)の保有量の增大を必然的に伴ふことになるため、政治效用の保有量と、これを含む社會效用の保有量との間には、比例的な相關關係が生まれることになる。

そのため、少數者らは政治その他の社會關係から疎外され、不滿と不安は增幅されて、いづれは暴動、反亂、革命の原動力として蓄積される。しかし、このやうな反獨占のための革命が成功しても、革命を維持するための強大な權力を不可避的に必要とし、その權力によつて再び社會效用の獨占化が始まる。權力に對抗して反獨占を成功させるためには、權力が必要であり、それが再び獨占を生むといふパラドックスに至る。この反獨占革命は、結果的には單に獨占者が交代するに過ぎず、これに至る破壞と虐殺やその後の社會犧牲の凄まじさをも考慮すれば、フランス革命やロシア革命などの反獨占革命が、世界人民全體の福利にとつて有益であつたとは到底言へない。

安定社會とは、政治效用のみならず、全ての社會效用が社會全般に遍く分散して均衡し、效用の寡占ないしは獨占に至らない社會を意味するのであつて、これは、效用均衡理論によつてのみ實現する。「王覇の辨」などは、この效用均衡の實踐理念の一つである。また、下層に至れば至るほど順次緩やかな規範を適用した封建制社會は、いはば「差別公平型」の社會であり、差別社會ではあるが不充分ながらも效用均衡を實現しようとする知惠と工夫が存在した比較的安定した社會であつたのに對して、現代の大衆國家や中央集權國家は、奴隷制國家と同樣、いはば「平等不公平型」の不安定社會である。建て前の上では平等としてゐるが、硬直化した歴然たる差別が存在し、自分の家を持つてゐる者にも持つてゐない者にも、「橋の下や地下道で寢泊まりしてはならない」といふ「平等」な法律をもつて規制する「不公平」社會である。理想とすべきは、「平等公平型」の效用均衡社會でなければならないが、現代の宗教對立や民族對立による國家の分裂や紛爭等の原因が、いづれも、異なる宗教集團や民族間での社會效用の分配が不公正であることに由來してゐることを深く自覺せねばならないのである。

なほ、從來から、現代政黨政治の腐敗を防止するためには政權交替が随時可能な二大政黨政治の出現が理想であるとする見解がある。しかし、この見解には、次の三つの理由により、大いなる誤謬と矛盾があることを強調しておきたい。即ち、第一に、人民の多種多樣な政治意志が必ず二種類に分類されるとする假説には全く論理性がないことである。また、第二に、既成の二大政黨が掲げるそれぞれの政治理念のうち、いづれか一つを選擇することが全ての人民の必然的な行動であり、かつ、それが全體の福利を生み出すこととして二者擇一を強制することが當然であるとする傲慢さがある。ある政黨や候補者の掲げる全部の理念と政策を、寸分の相違なく全て贊同し支持する人は稀である。一つや二つは、反対する政黨や對立する候補者の理念や政策を贊同し支持することはよくある。それでもどちらかの政黨や候補者を選らぶことしか選擧民には選擇肢がないといふ實情を全く無視することになる。さらに、第三に、國民による政治選擇の結果として偶然に二大政黨制になつたとしても、その二大政黨の思想及び基本政策が全く異なる場合には、いはば國論が二分して不安定な政治状況となるのであつて、安定政治といふ理想とは程遠いものとなるからである。にもかかはらず、政權交替が随時可能な二大政黨政治を理想であるとする幻想が生まれたのは、イギリスやアメリカなどの二大政黨政治の現状を殊更に過大評價してきたことに由來するのであらう。實際に、數年間單位の周期で政權が交替し、また、「影の内閣」(shadow cabinet)を設置するなど、常に來たるべき政權交替に備えることによつて、各政黨の相互監視状態が生まれ、いはば監察權が相互交換的に機能してゐるのと同樣の機能を果たしてきたからである。しかし、これは、あくまで效用均衡が周期的に實現しうる可能性があるに過ぎないのであつて、本來的な效用均衡が保障されてゐるものではないのである。

いづれにせよ、效用均衡理論による代替效用の設定によつて、實現效用と代替效用との相關關係が生まれるため、經濟學その他の社會科學一般で使用されてゐる選擇理論の基本公理である「無差別曲線(indifference curve)の公理」などを政治學に活用すれば、大衆の政治動向の科學的機能分析が可能となる。

そして、效用均衡理論の導入により、これまでの「參政權」の概念も再構築されることになる。これまでの參政權の概念は、選擧や住民投票などによる實現效用の面だけで語られてきた。しかし、「政治に參加する權利」とは、このやうな政治の意志決定の場面に限られるのではない。政治世界において、どのやうに執行されたのかを監察することも重大な政治參加に他ならないのである。

このやうにして、全ての國民は、多數者も少數者も、それぞれが參政權行使による效用均衡を實現することになるのであるから、このやうな「政治制度の改革」が再優先されるべきものであつて、「選擧制度の改革」は二次的なものに過ぎず、むしろ、それほど重要ではない。「制度疲労」に陷つてゐるのは政治制度そのものであつて選擧制度ではないからである。

この效用均衡理論の具體的實踐については、技術的な見地の考察もふまへて、一定の擬制的取扱ひも必要となるであらうが、實現效用が「代表制」になじむものであれば、代替效用もまた「代表制」になじむものと考へられるので、技術的には、國政選擧、地方選擧及び地方自治における住民直接投票などで「死票」を投じた國民及び「落選議員」により、その監察權を行使しうることになるであらう。いはば、「多數決による執行權」に對する「少數決による監察權」であり、執行權と監察權との「權限別代表制」とも言ふべき制度なのである。

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