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トップページ > 各種論文目次 > H13.08.25 国防義務と英霊

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国防義務と英霊

「現行憲法を守れば靖國は滅ぶ。」この、極めて単純明快な論理を理解しない、否、理解できない御仁や青年が余りにも多い。小泉首相の靖國神社参拝に関して、今までなされた国内・国外の様々な論評を見聞する限り、この問題が現行憲法を取るか、靖國を取るか、といふ二律背反・二者択一の相克と矛盾を集約した現象であつたことを論理的に知る人は皆無と云つて過言ではなかつた。

ある人は云ふ。「英霊に感謝の誠を捧げることは国民としての当然の務めではないか」と。

ならば聞く。第一に、英霊とはなんぞや。特に、その法律学的な定義がありうるのか。第二に、国民としての務めとは、憲法上の義務なのか、憲法以外の法律上の義務なのか、それとも法令以外の領域であるところの多くの国民の私的で個人的な単なる心情にすぎないのか。

ところが、この単純かつ必要不可欠の問ひに対して、誰か、真つ向から受け止めて答へたことがあつたであらうか。これに答へずして靖國問題を語るなかれと云ひたい。

では、誰も正面から答へなかつたこの問ひについて、私だけでも今から答へようと思ふ。

まづ、英霊とは、殉国者の「みたま」である。皇御軍(すめらみいくさ)に限らず、広く殉国者の神霊を指す。なにゆゑに人霊(ひとのみたま)ではなく神霊(かみのみたま)なのか。それは、国家の如何なる偉人や英傑であつても、己の生命を国に殉ずることがなければ、その死後において崇高なる人霊として祀られることはあつても、神霊とはならない。これは惟神の道(かんながらのみち)の霊魂観に基づく。

現に、靖國神社の祭祀は、人霊ではなく神霊を祀る儀式が行はれてゐる。そして、靖國神社に合祀されるといふことは、故人の意志や故人の遺族の意志を超越して、国家に帰属するがゆゑに国家護持の英霊となるのである。人霊ならは、故人の意志と故人の遺族の意志に影響されるが、神霊であるがゆゑに、その祭神は遺族に属さず、たとへ遺族の反対があつても国家に帰属する。しかし、遺族や縁故者が故人を人霊として祀ることはできるのであり、故人や遺族らの信教の自由とは別の次元のことである。ここに靖國の根本的な意義がある。

これを国法学的に考察すれば、かうである。

帝國憲法第20条には、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」とある。これは、広く国防の義務を規定したものである。それゆゑ、この義務の履行を滅私奉公の極致である殉国を以て果たした者には、国家最高の栄誉が与へられ、国家としてはその殉国者を鎮魂、慰霊、顕彰して感謝の誠を捧げることが、同条で規定する臣民の国防義務に対向した国家の義務として憲法上位置づけられるからである。

さうであるがゆゑに、靖國神社に国家元首たる天皇陛下の御親拝と臣民を代表した内閣総理大臣その他の要職者の公的参拝がなされるのであつて、公的かつ正式な参拝は、国家の憲法的義務の履行として、内閣総理大臣らの私的な信教の自由からも超越してなされなければならないのである。内閣総理大臣らが仏教徒であつても、クリスチャンであつても、その他の信仰者であつても、靖國神社への参拝は義務づけられ、靖國神社の正式な参拝形式による公的参拝がなされてきたのである。

これは、英霊が人霊でなく神霊であり、かつ、国家の公的な存在であるがゆゑに、故人や遺族の信仰とは無関係であることと鏡の如く対応するものであつて、国家機関による正式かつ公的な参拝は殉国に報ゆる国家の返礼的な参拝義務の履行として認識されるからである。

ところが、これらのことは、あくまでも帝國憲法下において矛盾なく成り立ちうる論理である。

もし、現行憲法が有効であるとすれば、現行憲法下では、以上の論理は全く成り立ち得ない。現行憲法には、国防の義務が規定されてゐないからである。それどころか、第9条は、戦力不保持(武装解除条項)と交戦権不所持(自衛権放棄、無条件降伏条項)すら規定してゐるのである。この規定の解釈について、自衛権は放棄してゐないとか、自衛のための戦力は保持してもよいとかいふ者が憲法学者と称する者の中に、あるいは政治家の中に多くゐるが、国語の基本的な読解力すら持つてゐない者らの「与太話し」を相手にしてゐる暇はないので、無視してさらに話を進めると、いづれにせよ、結論的には、現行憲法では英霊を祀ることの理由や靖國を護持することの根拠が全くないといふことになる。

否、むしろ、英霊といふ観念や靖國の存在自体を否定してゐるのが現行憲法である。現行憲法は、過去の歴史を全否定し、GHQと支那、朝鮮に捧げた「謝罪憲法」であるから、その反省と謝罪の対象となつた行為の先兵等を「英霊」とすることは全くの論理矛盾だからである。

しかも、交戦権を放棄してゐるのであるから、将来、違憲の存在の自衛隊が我が国を侵犯する武力勢力と戦つて、自衛隊員が戦死したとしても、それは人霊となりえても神霊には絶対なりえない。たとへ、「宗教法人靖國神社」が神霊として祀つても、それは一宗教法人の私的な宗教行為であるから、故人の意志と遺族の意志を無視することは絶対にできない。ましてや、国家がこれを英霊として祀ることはできるはずもない。自衛官や警察官その他の公務員が、公務員の服務義務といふ法律上の義務に殉じたとしても、憲法上の義務に殉じたのではない。むしろ、現行憲法では、「戦つてはならない」、「国防の義務はない」、「国防の義務は免除する」と云つてゐるのに、これに背いて戦死したとしても、現行憲法下では絶対に肯定的な評価はできない。

なぜならば、現行憲法の第99条には、「・・・公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とし、国を守らなくてよいし、国が亡んでも現行憲法だけを守ればよい、としてをり、さらに、第18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」としてゐるのであつて、殉国といふ奴隷的拘束や苦役を禁じてゐるからである。

現行憲法下では、自衛官らの殉国についてもこのやうな有様なのに、戦前の殉国の英霊が、戦後においても同じ意味の英霊の評価として留まることは絶対にできない。それは、国家護持の公的存在としての「英霊」ではなく、「宗教法人靖國神社」という私的存在(民間信仰)としての「英霊」であつて、もはや「国家」との関係を遮断された存在となつてしまふ。英霊が国家との関係を断絶して公的存在から私的存在(民間信仰的存在)へと転落することに呼応して、これに対する参拝も同様に国家との関係を断絶して公的なものから私的なものへと変質するからである。

それは、ひとえに、国防の義務を否定した現行憲法が存在するためであり、現行憲法が有効であるとする限り、英霊と国家とは永久に分断され、真の意味での英霊ではなくなる。それゆゑに、「現行憲法を守れば靖國は滅ぶ。」のである。

最後に、前述の「与太話し」に少しつき合ふとすれば、仮に、百歩譲つて「自衛権」、すなはち、国家に「国防の権利」があることが現行憲法上認められたとしても、それを以て、国民に「国防の義務」があることを導き出すことはできないのである。そのために、「与太話し」をする人たちでさへも、現行憲法には国民の義務としての「国防の義務」がないことだけはどうしても認めざるを得ないのである。

ちなみに、国防の義務を憲法上規定してゐないのは、諸外国でも数例しかなく、中共、韓国、北朝鮮などは憲法で国防の義務を規定してゐることは勿論であつて、殉国者には国家最高の栄誉が与へられるのである。

このやうに、我が国においては、現行憲法を打破しない限り、靖國の英霊を護持することは絶対に不可能であり、今もなほ、現行憲法下で靖國の庇護を望む者の姿は、「飛んで火に入る夏の虫」の愚かさに似てゐる。

平成13年8月25日記す 南出喜久治

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