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参政権の閉塞的情況

一 政治の空洞化

食事をする店が限定されており、いつも決まった種類の定食のメニューしかなく、どのメニューにも食べ飽きてしまったという限定された条件下の情況を仮定してみよう。それでも、これらの定食を食べ続けるのは、定時に食事をきちんととる習慣がしっかりと身についた人々であろうが、通常の場合、お腹がすいても時々は欠食する者が出てくるのは当然である。しかし、食事の場合、長い間欠食し続けることは健康を害するであろうから、嫌いでも食事をとり続けた方がよいだろう。
  しかし、このような限定条件の要素を変更して、「食事」を「選挙」と、「定食」を「既成政党」と、「欠食」を「投票の棄権」と置き換えて、政治の場合と比較してみるとどうであろうか。
  飽き飽きした定食にも等しい既成政党しか存在しない現在の政治情況の場合、選挙民は、選挙の際、投票を棄権し続けても、欠食の場合と異なって、健康や日常生活に直接何らの影響もない。投票習慣がしっかりと身についた人々と、棄権をし続ける人々とを比較しても、政治的にも日常生活の上においても全く何らの違いはない。そのため、選挙民は安易さに流され、着実に棄権者が増大し、投票率が低下し続けるのである。しかし、この現象の拡大は、確実に政治自体を蝕んでいく。投票率の低下は、参政権の行使による政治意志決定そのものを形骸化し、議会制民主主義が潰死して政治が空洞化する。そして、その空洞化の間隙を縫って、宗教的独裁、政治的独裁を志向する全体主義勢力が着実に伸長してくることだけは確かである。
  昨年の平成七年は、七月二十三日に施行された参議院通常選挙が史上最低の四十四パーセント台の投票率を記録し、無党派層や無関心層の増大など、政治の空洞化と呼ばれる現象が一層深刻化した年であった。いわゆる五十五年体制の崩壊に伴って、安保、自衛隊、エネルギーなど国家基本政策上の争点がなくなったこと、政界再編成が流動的であり特定の政党を選択するのが困難であること、政治家や政党政治それ自体に対する不信があり政治に絶望していること、などが原因であるとする指摘はあったが、選挙制度を含む政治制度自体の欠陥に原因があるとする指摘は少なかった。
  しかし、紛れもなくこのような政治空洞化の原因は、選挙制度を含む政治制度自体にある。この根本原因を一言でいえば、それは、政治的選択肢の欠如、あるいは、政党の新規参入を阻害する政治機構が平成七年までに法制度として完成し、参政権の閉塞的情況が実現したことにある。選挙権の側(投票する人)から見れば、政治的選択肢が不足している(投票したい人がいない)ということであり、被選挙権の側(立候補しようとする人)から言えば、政治的選択肢を提供しえない(立候補できない)ことに原因がある。まさしく政治的需給バランスが崩壊し、国民の自由な政治参加が阻害されているのである。
  「経済」の場合でも、自由競争が保障され、経済活動の自由が確保されなければ、経済の閉塞的情況が生まれる。しかし、自由競争とは、本来、弱者切り捨てを当然視する冷徹な弱肉強食の世界を実現することにあるから、自由競争が完全に保障されていれば、多くの弱者事業者が自然淘汰される結果、強者による寡占や独占の状態になることは必至である。しかし、現実は、法律的な規制などの外在的要因の外に、事業者世界の内在的要因によって、そのような状態まで至ることは少ない。それは、その過渡的段階において、強者となった少数の事業者同志が共倒れを回避するために、事業者団体を形成させ、その事業者団体の総体による市場の独占と、市場における総供給量を内部的に再配分することによって共存しようとするカルテル(企業連合形態)が生まれるからである。ある程度の経済規模を維持し発展させるためには、事業者団体の果たす役割も無視できないが、事業者団体は、その団体に所属する事業者の経営保護のため、その業界に新規参入しようとする他の業者を排斥し、競争の実質的制限がなされるための温床となりうる。そこで、事業者団体のこのような行為を禁止して経済の民主化を実現しようとしたのが、いわゆる独禁法(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律)である。異業種から、又は同業種からの自由な新規参入を保障して自由競争を確保し、その結果、経済の活性化がはかられるというのである。
  しかし、「経済」の領域において、自由競争原理に歴史的普遍性があるのかについては異論があり、自由競争は幻想に過ぎないのではないか、自由競争が社会全体に真の福利をもたらすか、などについては必ずしも結論が出ていない。
  ところが、「政治」の領域においては、政治的意志決定を行うについて、討論を活発に行い審議を深めて、説得と納得による結論に至るという意味での「民主主義」が正しいことは今更言うまでもない。
  現代政治において、政党政治を前提とすれば、経済の領域における事業者団体と対置しうるのは、既成政党によって組成されている国会そのものである。そして、現在の国会は、建て前では、参政権の保障を高らかに唱えながら、その内実は、他の政治勢力が新党を結成して国会という事業者団体に新規参入しようとしても、政党資格要件、小選挙区制の導入、選挙運動の制限、選挙供託金の増額など選挙関連法を既成政党に有利に改正して、様々な参入障壁を築いて阻止しようとする。その結果、やがて、既成政党間の離合集散を経たうえで、寡占化や独占化が進み、遂には統制経済にも似た政治の硬直化に至る。しかし、経済の世界には独禁法があっても、政治の世界には独禁法がなく、公正取引委員会に対比しうる機関もない。それゆえ、このような参政権の閉塞的情況が選挙民に周知されないまま、参政権保障の危険水域に不可逆的に突入してしまう虞がある。
  そこで、この参政権の閉塞的情況を打破するため、その元凶である次の二つの制度の持つ問題点の指摘から始めたい。


二 立候補供託金制度の問題点

先ず、参政権を閉塞的情況に追いこんだ政治制度として第一に挙げられるのは、立候補に際して一定額の供託を義務づけられ、選挙の結果、一定の得票数に達しなかった場合にはその供託金を没収するとする立候補供託金制度である。そして、その供託金を一律に五割増額した公職選挙法改正法(平成六年)を平成七年から施行したことがさらにその情況を深刻なものとしている。たとえば、前回の参議院通常選挙において比例代表区に十人の候補者を立てて確認団体になろうとするならば、六千万円の資金が必要となったのである。
  ところで、公職選挙の立候補に際して、一定額の供託金を提供しなければ立候補者となりえないという立候補供託金制度は、大正十四年の衆議院議員選挙法で初めて導入され、今日に至っている。大正十四年までの選挙制度は、直接国税三円以上納入する納税者のみに選挙権を認めていたのであるが、明治・大正期の普通選挙運動の高まりに抗しきれずに、同年の衆議院議員選挙法により、二十五歳以上の生活困窮者を除くすべての男子に選挙権を与えたのである。しかし、あくまでもこれは、婦人と生活困窮者の選挙権を一律に否定した意味において、制限選挙制度であることに変わりはない。いわば、「緩和された制限選挙」に過ぎなかったが、有権者が急増する結果となる選挙制度の大改正であったことに変わりはない。現に、大正十四年の衆議院議員選挙法による初めての選挙は、昭和三年に行われたが、有権者数は前回の選挙の三倍に増加したのである。
  そして、この選挙制度の大改正による急激な変化による影響の歯止めに不可欠な制度として導入されたのが、大正十四年の「治安維持法」と「立候補供託金制度」なのである。
  すなわち、当時の政府は、この衆議院議員選挙法施行による有権者数の急増により、国体の変革と私有財産制の否認を目的とする結社や運動が急増することを恐れ、これらの結社と運動を厳禁するために「治安維持法」を同時に成立させているのである。もっとも、治安維持法でいう国体の概念とは、日本肇国の伝統に根ざした「真理国体」でもなければ、「規範国体」でもない概念であって、これらとは全く異質の全体主義国家思想に基づく「権力国体」のことであった(この点については拙著『日本国家構造論ー自立再生への道ー』政界出版社を参照されたい)。その後、治安維持法は、昭和十六年の改正で、予防拘禁制を採用し、特高警察と直結して思想弾圧が強化されていったのは周知の事実である。
  従って、当時の立法事実としては、普通選挙運動に抗しきれずに、やむを得ず衆議院議員選挙法を制定することになったが、その導入による有権者の急増に伴う悪影響と弊害を除去するために、治安維持法による政治運動一般に対する弾圧と、立候補供託金制度による選挙運動の制限(立候補制限)を同時に導入すべき情況とその必要性があったのである。いわば、立候補供託金制度は、治安維持法を選挙面から支える補強制度として発足したのである。
  換言すれば、治安維持法で弾圧の対象としている運動へと発展する虞のある無産者救済運動の中心となるのは、やはり痛みを共有する無産者の中から生まれることを政府が想定し、無産者からは立候補しにくくなる制度として、立候補供託金制度を出現させたのである。いわば、治安維持法を兄とし、立候補供託金制度を弟とする、制限選挙強化の兄弟制度なのである。
  都道府県議会議員選挙においても、大正十五年の府県制改正による立候補供託制度が導入されたが、その導入の前提となる立法事実と立法目的等に関する実情は全く前記と同様である。
  このような立法事実と立法目的によって導入された立候補供託制度が現在においても何らの制度的改変なく承継されているのであって、現行憲法下では許容されないことは明らかである。すなわち、これは、法の下の平等を保障した憲法十四条一項及び普通選挙を保障した憲法十五条三項に違反する。成年者による普通選挙とは、憲法十四条一項の規定と相俟って、選挙権のみならず被選挙権を含めて、広く参政権の行使において、年令による制限以外の全ての制限を否定し、参政権行使における無制限、平等かつ公平の原則を意味するものである。ところが、被選挙権の行使に際して、一定の財貨を国家に寄託させることを定めた公職選挙法九十二条の規定は、公職選挙立候補者に一定以上の財産の保有を条件とする「制限選挙」に他ならない。地盤、看板、鞄の三バンが選挙に当選するための要素だとされ、世襲型議員が大部分を占めている現在の選挙情況自体が、実質的な制限選挙の実態を意味しているのである。選挙運動には、少なからず資金を必要とし、実質的に、無産者は立候補しえないのが実情である。そのため、このような実質上の制限選挙の現状を立法事実として認識した場合、無産者の被選挙権を保障するためには、国又は地方公共団体が、無産者の立候補者のために、せめて選挙資金の無償貸与などを含む選挙公営制度を充実させる必要があるにもかかわらず、これに逆行して、無産者から一定の財貨の調達を強要する同法九十二条の規定は、明らかに公平な参政権の実現を阻害する。
  立候補供託金制度の立法目的が、仮に、立候補者の選挙における真摯な意志を担保するためのものであったとしても、公平な参政権の実現を阻害することに相違はない。立候補者が、いわば、真面目に選挙運動を行うか否かの内心の意志は、通常は立候補時に判明しえず、真面目な選挙という概念も不明確である。仮に、これを特定の者に判定させる場合は、その者の極めて恣意的な判断に陥ることとなって、これを合理的に判定しうることは不可能である。また、たとえ、そうであったとしても、そのような立候補者を事前に排除することは絶対にできない。全ては、選挙による選挙人団の審判に委ねるべきものであるからである。
  立候補供託金制度を廃止すれば、立候補者の濫立による選挙の混乱を招来するとの杞憂があり、これが制度趣旨とされているが、これも見当違いである。濫立を「悪」とする価値判断こそが「反民主主義的思想」である。濫立か否かは主観に属するものであって、全ては選挙による選挙人団の審判に委ねられるのである。候補者濫立による選挙の混乱を防止する政策的配慮は、選挙運動の改善その他選挙制度の改革で可能であって、拙速な政策論により選挙の自由を妨げてはならない。立候補の自由を含む選挙の自由の保障を最優先させるべきである。
  ところで、選挙供託を求めること自体が、仮に合憲であったとしても、供託は、寄託契約であるから、選挙が終了すれば、供託者に返還されるべきである。ところが、同法九十三条一項は、一定の得票数に達しない立候補者の供託物を没収すると規定しているのであって、これもまた、以下の理由により、違憲である。
  選挙人団の意志は、複数の立候補者に対して、投票によって審判を行い、これにより立候補者に当選か落選かの二種いずれかの結果を生み出すことになる。立候補者の各得票数は、信任者数であって、投票総数から当該立候補者の得票数を控除した投票数は、決して当該立候補者の不信任者数ではないのである。従って、落選は、信任者数の不足による結果であり、不信任者の多数による結果ではない。落選は、いわば審判の結果にすぎず、決して「制裁」ではありえない。また、そうであってはならないのである。「不信任」を「制裁」と評価することはできず、仮に、そうであっても、選挙による制裁は「落選」という結果のみで充分であって、一定の得票数に達しない落選者という「社会的身分」によって、「没収」という経済的制裁を加えられ、経済的関係において差別されることは許されるものではない
  また、憲法十五条四項後段によれば、「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。」としているのであるから、このことは、憲法十四条一項により、被選挙人についても差別なく準用されるべきである。  「没収」の実質は、国民の意志に基づかず公権力によって強制的に無償で徴収する広義の「租税」である。ところが、これが立候補者全員から徴収されるのではなく、一定の得票数に達しない者だけに限って徴収するという立候補供託金制度は、租税法定主義(憲法第八十四条)によるものとはいえども、得票数の多寡で差別して適用することとなり、その合理性は全く存在せず、憲法十三条及び同法十四条一項に違反する。
  このことは、没収が落選者に対する無償徴収の制裁ではなく、選挙管理事務諸経費の受益者負担の性質を有する権力的課徴金と解しても同様である。選挙管理事務諸経費の出捐は、選挙の執行において、全立候補者のために必要なものであり、単に、選挙結果としての一定の得票数に達しなかった者だけのために必要なものではないからである。


三 政党助成法の問題点

次に、参政権を閉塞的情況に追いこんだ政治制度として第二に挙げられるのは、平成六年の政党助成法の制定である。
  この政党助成法とは、ご承知のとおり、その年の一月一日現在の各政党の所属国会議員数と直近の衆参両院の選挙の結果による得票数に基づいて、国民一人当たり二五〇円、総額三〇九億円の交付金を各政党に分配交付する制度である。そして、平成七年七月に実施された参議院通常選挙に照準を合わせて、同年分の交付金の半額である総額一四九億五千万円を各政党への公費助成の支給が開始したことから、右参議院通常選挙は、参政権の閉塞的情況下における初めての国政選挙としての性格が鮮明になったといえるのである。
  一般に、国政及び地方自治の参政権に関する公費助成は、一般的に立法政策の問題であって憲法問題ではないが、それは、参政権の「行使(選挙)」の助成である「被選挙人の助成」に限られるべきであって、参政権の「行使(選挙)の結果」による助成である「当選人の助成」であってはならない。ところが、政党助成法は、当選人の所属する特定政党に対する公費助成を意味しており、一般的な「被選挙人の助成」ではない。また、政党の目的及び活動の範囲が、国政のみか、地方自治のみか、その双方を含むかによって公費助成の態様を異にするにもかかわらず、このような観点がまったく欠落しているのである。それは、国政選挙及び地方選挙を問わず、当選しなかった被選挙人、政党に属しない当選人、一定の当選人数に達しない政党等に対しては、その選挙の活動費すら助成されないのに対し、国政選挙において、一定の当選人及び特定政党には、事後的に、その選挙の活動費の他にその後の活動費も含めて公費による助成を行おうとするものである。実質的には、この公費助成は、選挙の当選人及び特定政党に交付される「当選報奨金」であって、特定政党とその当選人を他の政党や被選挙人よりも特別に優遇しようとするものである。国政政党と地方政党とを差別し、特定政党とその他の政党・政治団体とを差別する。そして、当選報奨金であることから、当選者と落選者とを差別する。明らかに法の下の平等に違反している。
  また、政党交付金は、当選者に対してその所属政党を経由した当選報奨金であるから、少なくとも特別の歳費である。そうであれば、政党助成金の交付を受けない無所属議員等の歳費を受ける権利を差別して侵害していることになる(憲法四十九条、十四条)。その反面、当選報奨金が受給されうる議員には直接受給されず、その所属政党が受領することになるから、政党による議員の歳費受給権の侵害でもある。
  政党助成法案が登場する背景にあった公費助成論は、企業・団体献金を否定し、これに代わるべき政党活動の財源を確保する方法論であったが、何故に企業・団体献金が根本的に否定されなければならないかについての理由を明らかにしないうえ、これに代わるべきものとして、どうして公費助成なのか、しかも、どうして政党への助成なのか、という根拠を全く呈示しなかった。昭和二十八年より現在まで、議員には、立法事務費(会派手当)という一種の政党助成金が交付されていたが、さらに、別途多額のお手盛りを狙ったのが政党助成法である。さらにまた、各政党は、なれ合い野合の結果、政党助成法九条の「三分の二」条項のために、満額の受給を受けられない政党のために、この条項を削除するというお手盛りまでやってのけたのである。
  アメリカですら、連邦選挙運動法(Federal Election Campaign Act)という選挙資金の助成法はあっても、日本のような政党助成法なるものはない。過去にあった日本における公費助成論は、あくまでも「選挙」の公費助成、すなわち、選挙公営制度についてであったのに、いつの間にか「政党」の公費助成に擦り替わってしまったのである。


四 結語

最近までの政治の混乱は、振り返ってみれば、空虚な「政治改革」というスローガンが席捲しただけであり、真の政治改革は全く行われず、既成政党のカルテルを確立させるだけの陰謀が実現した結果に終わった。衆議院選挙の確認団体制度が廃止(平成六年三月、公選法改正)され、選挙運動期間もさらに短縮されたうえ、小選挙区制度への改正、選挙供託金の増額及び政党助成法の制定をもって終息したのである
  その一連の改正の実質的意義は、政党の新規参入を制限し、既成政党のみが抽出される小選挙区選挙制度と、既成政党に活動資金を交付するという政党助成制度という車の両輪の上に、立候補供託金制度や選挙運動の制限などで組み立てた車体を乗せて、全体主義方向へまっしぐらに走り出した、「政治カルテル」という名の新車を完成させたことにある。かくして、既成政党の談合による参政権の閉塞的情況を法制度として確立したのである。
  新党を結成し、国政選挙に登場しようとすれば、多額の供託金の用意が必要となり、しかも、選挙制度上数々の重大な制約がなされる。衆議院選挙の確認団体制度を廃止したことは、既成政党に絶対的に有利に機能することは明らかである。ホームレスの人々に対しても、大金持ちの人々に対しても、等しく平等に、駅の構内で寄宿し生活してはならないという法律が公平であるはずがないのと同様である。
  選挙や参政権の領域は、新規参入を最も保障すべき領域である。供給できる多種多様の政策や理念が豊富であればあるほど、民意を正確に反映した政治意志が形成される。政治意志決定の「自由市場」が保障され、その選択の需給バランスを確保できなければ、効用均衡の前提を欠くことになり、新たな制限選挙制度へと逆行することになる。
  ところが、現実は、いわゆる泡沫候補の供託金を没収し、それだけでは足りないから、国民の税金まで使って、既成政党に政党助成金を与えている。弱者から金を巻き上げて、それを強者が山分けする不条理な制度が確立した。平成六年の公職選挙法の改正は、選挙公営を拡大強化を図ったものであるが、その選挙公営による選挙費用の公的負担の増加分を、供託金の増額に伴う没収額の増額に求めるため、供託金額の五割増額を同時に実現したのである。これは、選挙公営の公的費用を、いわゆる泡沫候補のみから徴収する制度として確立させたことになるのである。その結果、既成政党は、益々財政的基盤を確立し、その他の政党や政治団体は、供託金が没収されたことによって財政的基盤を失って没落していく。そして、さらに、既成政党によるカルテルが強固なものとなり、政党の新規参入が困難となっていくのである。現在は、そういった参政権の黄昏の時代であることをはっきりと自覚しなければならない。
  しかし、現在の政治家は、このような観点が全く欠落している。自己の地位が保全されるカルテルが守られれば、それで満足なのである。政治改革という呪文を唱え、「新」や「進」の文字は踊るが、それには「真」と「信」がない。彼らには、五十五年体制を批判できる資格はなく、それ以下の存在である。
  今まで数々の新党構想が浮かんでは消えた。それは、いずれの新党構想も、参政権の閉塞的情況についての認識と対応がなかったために、自慰的な敗北主義から逃れることができず、サロン趣味的な政党ごっこの無益な遊びに陥らざるを得なかったからである。今では、我々の理解の範疇にある多くの政治団体が、鼠を捕らない猫のように、政権とは無縁に存続し続けているという悲しい現実がある。しかし、今、我々がなすべきことは、真正日本の再生のために、小選挙区制度や立候補供託金制度、さらに政党助成制度という、日本の参政権の情況にとって、最大の敵を打ち破ることから始めなければならないのである。そのためには、請願権の活用による政治参加など、広汎かつ継続した政治行動の重層構造の延長線上に収束して大同団結していく責任政党の結成を、諦めることなく不断に求め続けていきたい。
  それは、大和魂が奪われることなくして命運が尽きるを「散華」と心得るからである。



                                                        動向 平成8年4月号掲載
                                                     人民戦線 平成8年5月25日号掲載
                                                                    平成8年6月25日号掲載
                                                                    平成8年7月25日号掲載

                  平成8年3月20日記す 弁護士、憲法学会会員 南出喜久治

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