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典範奉還の要諦

ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち
(自父母及先祖以至皇祖皇宗及八百萬之神而國體之道也)

【慶応三年】

平成二十九年の今年は、慶応三年(1867+660)の大政奉還から百五十年目にあたる。太陰太陽暦の慶応三年十月十四日に徳川慶喜が明治天皇へ大政奉還を上奏し、翌十五日に勅許され大政奉還が成立する。そして、同月二十一日に徳川慶喜が大政奉還を布告し、同月二十四日に、徳川慶喜が征夷大将軍を辞するといふ経緯を辿つた。

その大政奉還が上奏された慶応三年十月十四日の百五十年目が、太陽暦では今年の十二月一日である。


この年は、孝明天皇崩御、明治天皇即位、坂本龍馬の暗殺、夏目漱石の誕生といふ年であり、ドイツでは、カール・マルクスの『資本論』第一巻が上梓され、英国では、ウォルター・バジョットが、後世において世界に影響を及ぼした『英国の国家構造』(The English Constitution)を上梓した年でもある。


【英国の国家構造】

バジョットは、英国の国家構造が、王室の尊厳的部分(dignified parts)と議会や内閣の実践的部分(efficient parts)の二重構造になつてゐると主張した。

確かに、バジョットの認識は、ジョン・ロックが提唱した権力分立といふ、これまでの平面的な国家構造の認識とは異なり、実態に着目した点で評価される。

しかし、この二重構造の認識は、英国の国家構造の説明としては成り立つても、その由来と関係性について分析したものではない。尊厳的部分(dignified parts)と実践的部分(efficient parts)とが、どのやうにして形成されてきたのか、そして、相互にどのやうな関係性があるのか、といふ点については明らかにされてゐない。


英国の二重構造が形成された歴史的経緯は、王と議会との権力分掌闘争によつて議会が王から権限を奪ひ取つてきた歴史がある。マグナ・カルタ(1215)、権利請願(1628)、清教徒革命(1640~60)、名誉革命(1688~89)、権利章典(1689)の歴史は、議会が立法権、予算編成権を国王から奪つて、議会主権を確立し、国王との「契約」で国王大権を制限してきた歴史である。

特に、権利請願における國體派と主權派との攻防において、國體派の勝利で決着がついてから14年後(1642)に、国王チャールズ一世がその専制に抵抗した議会に対して武力干渉をしたことから清教徒革命につながる内乱が起こり、結果的にはクロムウェル率ゐる議会軍が勝つて国王は逮捕されて処刑され、共和制が宣言された(1649)。その後、クロムウェルはなんと議会を解散して軍事独裁を樹立したが、クロムウェルの死により王政が復古(1660)したものの、英国では、この十一年間は共和制であり君主制ではなかつたのである。


このやうな歴史からすると、国王大権は、議会との対等な「契約」によつて制限され決定される性質なのである。後述するとほり、ジョージ一世の時代(1714~21)に確立した「君臨すれども統治せず」といふ英国の憲法規範が確立し、国王の統治権は消滅したのである。


【王覇の辨へ】

これに対し、我が国には、このやうな歴史は全く存在しない。

我が国では、王覇の辨へといふ皇室の伝統的な統治理念があり、これは、『古事記』、『日本書紀』にある「寶鏡奉齋の御神勅」(ホウキヤウホウサイノゴシンチョク)に基づくものである。『古事記』上巻によれば、「詔者、此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。次思金神者、取持前事爲政。(みことのりたまひしく、「これのかがみは、もはらわがみたまとして、わがみまへをいつくがごといつきまつれ。つぎにおもひかねのかみは、まえのことをとりもちて、まつりごとせよ」とのりたまひき。)」とあり、天照大神の御霊代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「為政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との辨別がある。つまり、天皇(総命・スメラミコト、大君・オホキミ)の「王者」としての「権威」(大御稜威)に基づく「覇者」への「授権」により、覇者がその「権力」によつて統治する。これは、天皇の親裁による政治(親政)ではない「天皇不親政の原則」であり、国家の変局時には例外的に「天皇親政(天皇親裁)」に復帰する点において、「統治すれども親裁せず」といふ國體規範の大原則であつて、英国における「君臨すれども統治せず」といふものとは本質的に異なるものである。


我が国の立憲君主制の理解についても、「君臨すれども統治せず」の原則であるとする英国の猿真似の見解ばかりであり、これは歴史を知らない者の謬説である。我が国では、バジョットの認識と「君臨すれども統治せず」を無批判に受け入れて、戦前も戦後と同じ象徴天皇制であつたので國體の変更はなかつたとお目出度いことを言ふ者が蔓延してゐるのである。象徴天皇制といふのは、天皇に象徴としての機能(君臨)があるものの、国政に関する権能(統治権)を有しないといふことであり、まさに「君臨すれども統治せず」であるから、「統治すれども親裁せず」といふ規範國體に違反してゐるのである。


【君臨すれども統治せず】

そもそも、「君臨すれども統治せず」といふのは、十六世紀に確立したポーランド・リトアニア共和国の大宰相ヤン・ザモイスキの言葉であつて、パクタ・コンヴェンタ といふ国王に義務を課した「契約」に由来する。それが、英国にも受け継がれて、英国の王室と議会との確執から生まれた制度が、この「君臨すれども統治せず」の規範なのである。

英国では、これは、ジェームズ二世の末娘であつた英国女王アンの死亡に起因したものである。女王アンには直系の子がなく、弟はカトリックであることから、議会はプロテスタントの親戚を捜し、イギリス王ジェームズ一世の孫であるドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージ一世を英国王室の後継者としてイギリス国王に迎へた。しかし、ジョージ一世は、ドイツ生まれのドイツ育ちの五十五歳であつたことから英語が殆ど解らず、国民には沈黙によつて威厳を示して接したものの、英語を勉強する気もなく、議会に出席しても審議内容が全く理解できず、そのうち議会に出席することもなくなつたことから、君臨すれども統治せずといふ慣行が確立したのである。つまり、これによつて「傀儡王政」が確立したことを示す言葉として、この「君臨すれども統治せず」との憲法規範が生まれたのである。


つまり、言葉も理解できず暗愚で怠惰な王を担ぎ上げる口実がこの「君臨すれども統治せず」である。これを我が国に取り入れるといふことは、天皇に対する不敬不遜な思想であり歴史の歪曲冒瀆以外の何者でもない。


【統治すれども親裁せず】

従つて、我が国には、「君臨すれども統治せず」が適用されない。帝国憲法第四条には、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ」とあり、同第五十五条第一項に、「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」とあることから、「天皇は、統治權を總攬せらるるも、各般の政務を一々親裁せらるるものに非ず。」(清水澄博士)と解される。これは、通常は親裁されないものの、總攬の態様として拒否権(ベトー)の行使が憲法上も認められてゐるのである。天皇は元首として君臨されてゐることは勿論のこと、内閣のなす政務に対して統治権の総覧者として拒否権を行使され、あるいは不行使の御聖断を以て總攬され、一旦緩急有れば、親裁(親政)が復活するといふ性質のものである。いふならば、「王覇の辨へ」とは、君臨かつ統治するものの特段の事情がない限り一々個別に親裁されない、つまり「統治すれども親裁せず」の原則であると換言できるのである。


それゆゑ、二・二六事件やポツダム宣言受諾時などにおける昭和天皇の御聖断は、国家緊急時における親裁として肯定される。もし、「君臨すれども統治せず」が我が国の統治原理であるとすれば、天皇が憲法違反を犯したと理論的にも批判しなければならないが、誰もそれを主張しないのは、我が国には曲学阿世の輩しか居ないことを意味してゐるのである。


【授権と契約】

欧米では、すべてを「契約」といふ視点で理解する。宗教的には神と人との契約(covenant)と私人間の契約(contract)とは言葉を異にするが、ともに「委任契約」といふ「合意」であることに相違はない。


マグナ・カルタ(1215)、権利請願(1628)、権利章典(1689)、そして、「君臨すれども統治せず」といふものも、すべては国王と議会との「合意」(契約)によるものである。


しかも、英国では、双方の合意によつて成立する「契約」で権限を「譲渡」するものであるのに対し、我が国では、上位の「単独行為」によつて成立する「授権」(預託)するものである点において異なる。

王から議会への権限譲渡によつて権限が議会に移転し、王はその権限を失ふのに対し、我が国の御神勅による預託の場合は、預託しても神(God)に帰属する本来の権限が失はれることはない。

そこに、「君臨すれども統治せず」と「統治すれども親裁せず」の決定的な相違があるのである。


【宮務法と国務法の区別】

ところで、我が国には、古来より、「宮務法」と「国務法」といふ法体系の区別がある。

明治期以降のことに限つて説明すると、「宮務法」といふのは、正統な『皇室典範(明治典範)』の外に、『皇室祭祀令』、『登極令』、『皇族身位令』、『皇室親族令』、『皇室財産令』、『皇統譜令』、『皇室儀制令』、『皇室裁判令』やその他の慣習法からなる皇室に関する総合的な法体系のことである。


また、国務法といふのは、『大日本帝国憲法』(帝国憲法)の外に、『古事記』、『日本書紀』、その中にある『天津神の御神勅(修理固成)』、『天照大神の三大御神勅(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗の各御神勅)』、『神武天皇の御詔勅(八紘為宇)』、聖徳太子の『憲法十七條』、『推古天皇の御詔勅(祭祀神祇)』、さらに、『萬葉集』、『船中八策』、『五箇條ノ御誓文』、『神器及ヒ皇靈遷座ノ詔』、『勤儉ノ勅語』、『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)』、『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』、『義勇兵ヲ停メ給フ勅諭』、『戊申詔書』、『施療済生ノ勅語』、『青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語』などやその他の慣習法からなる国家統治に関する総合的な法体系のことである。


このやうな区別を踏まへて、宮務法体系を構成する正統な皇室典範と、国務法体系を構成する帝国憲法のことを、まとめて「典憲」と呼んでゐる。

そして、この「典」と「憲」の関係について、帝国憲法第七十四条は、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」と規定してゐる。

つまり、「典」を基本とする宮務法体系と「憲」を基本とする国務体系とは、それぞれ独立して相互に不干渉な関係であり、ともに国家の最高規範なのである。


【祭祀大権と統治大権の区別】

また、もう一つ重要な分類がある。それは、祭祀大権と統治大権の区別である。

帝国憲法には、第一章の天皇条項に多くの天皇大権が規定されてゐるが、これらはいづれも統治に関する大権である。

ところが、天皇が天皇であるための天皇祭祀(神宮祭祀、宮中祭祀)を主宰する大権については、帝国憲法には明文の規定はないが、帝國憲法の憲法発布勅語にある「祖宗ニ承クルノ大権」に含まれるもので、これまでの歴史伝統から紡がれた規範としての國體の内容として当然のことなのである。


「やまとことのは」で言へば、統治大権は「うしはく」であり、祭祀大権は「しらす」として区別されるのである。

天皇がなされる天皇祭祀による祈りは、まさに祭祀大権による「知らし召す」ものであり、これは、憲法改正の発議大権と同様に、天皇の一身専属権(帝国憲法第七十五条)であつて、この祈りこそが天皇の天皇であることの所以である。


【聖俗の辨へ】

祭祀は、宮中祭祀と神宮祭祀によつて成り立つ天皇祭祀を頂点として、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀などの民俗祭祀までの裾の広い重畳構造、雛形構造になつてゐる。

そして、その全ての祭祀を包摂するのが天皇の祭祀大権なのである。

国務体系の中心にある統治大権には、「うしはく」といふ権力的要素があるが、宮務法体系の中心にある祭祀大権には、祈りと諭しによる「しらす」といふ理念的要素しかなく、権力的要素は全くない。敬愛と尊崇の的として、祭祀の主宰者の地位を示すのである。


では、国務法体系については、権力行使の謙抑性のために細部に亘つて規定を設けてゐるのに対し、どうして、宮務法体系については、特に、祭祀大権については細部に亘つて規定を設けることがないのであらうか。


その理由はかうである。忠実無二の者と評された井上毅は、このやうな祭祀の重要性を自覚するがゆゑに、もし、宮務法体系や国務法体系の中で、大嘗祭や新嘗祭などの「聖」なる祭祀部門に属する記述を極力避けた。それは、成文化されたものは、統治の運用の中で必ず俗化し、その神聖さを損なふと畏れたからである。聖なるものは不文の姿であり、その影絵を描写して詳細に成文化することは、その表現の稚拙さが解釈論争を生ぜしめて必然的に俗化する。それゆゑ、あへて聖なるものを成文化する場合には、必要最小限度に留め、極力その概要のみを示す抽象用語を使用することによつて論争的俗化を防がうとする智恵を持つてゐたのである。それゆゑ、帝国憲法などの聖なる箇所には、「皇祖皇宗」、「萬世一系」、「神聖」など抽象的表現が用ゐられた。天皇祭祀など真に聖なるものは決して成文化されない。正統典範もまた、成文化することによる俗化の畏れがあつたが、立憲国家の皇統護持のために、必要最小限度において明治典範などが制定されたものの、天皇祭祀などの聖なるものは決して成文化されなかつたのである。


民間においても、一子相伝といふやうに、深奥な技芸や教えへは秘法として文字化せず口頭で伝授するやうに、天皇祭祀の深遠なるものは、宮務法体系で文字化されないのである。

これは、「聖俗の辨へ」といふものであり、王覇の辨へと同様に、『古事記』や『日本書紀』にある寶鏡奉齋の御神勅に由来するのである。


【英国の王位継承法】

さうであれば、祭祀大権に関する宮務法体系の一部をなす皇室典範と、統治大権に関する国務法体系の一部をなす帝国憲法とは、ともに天皇大権に関する最高規範であるから同等なのであり、帝国憲法第七十四条に「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」の規定がなかつたとしても、典憲が対等に並立してゐることは、祖法の体系である最高規範としての國體(規範國體)からして当然のことなのである。


このことからして、占領憲法の下に法律として占領典範があるといふ戦後の構造は、そもそも占領憲法は偽憲法であり、占領典範は偽典範であるといふことになる。

そして、現在では、この偽憲法と偽典範に基づいて、政府が退位の時期を天皇抜きの皇室会議で勝手に取り決めて天皇に「強制退位」を受け入れさせる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」まで制定し、さらには、女性天皇、女性宮家、そして女系天皇の容認するか否かといふことまで議論されてゐるのはどうしてなのか。


それは、これも英国の猿真似によるものである。すなはち、平成二十五年(2013)に、英国では、王位継承順位に関して従来の法規範を改正する二〇一三年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)が、英国議会で法律として制定した。これは、その二年前の平成二十三年に、オーストラリアのパースで開かれたイギリス連邦各国政府の隔年首脳会議にて英連邦十六王国の首相らによって締結されたパース協定に従つたものである。そして、この法律により、平成二十三年十月二十八日以降に生まれる王位継承資格を持つ人物について、男子優先の長子相続制を廃止して絶対的長子相続制をとることとなり、性別に関係なく、最年長の子どもが継承順位の上位となるといふことになつた。


これを我が国にも取り入れようとする企てが最近の動向なのである。皇室典範は、皇室の家法であり、皇室の自治と自律に委ねられるものであつて、臣民が容喙してはならないものである。また、欽定憲法である帝国憲法についても皇室典範と同列の最高規範であつて、その改正発議の大権は天皇に専属してをり、改正の発議を臣民が直接に行つてはならないのである。にもかかはらず、これらの由来や関係性を全く無視して、バジョットの考へや「君臨すれども統治せず」の思想などの英国流の考へをそのまま猿真似した愚かな姿が我が国の現状なのである。


【正統典範】

以上により、我が国の国家構造と英国の国家構造とは大きく異なるといふことが解る。そして、記紀に由来する王覇の辨へと聖俗の辨へ、そして、宮務法体系と国務法体系との区別、典範と憲法との区別、典範と憲法とは並立対等のものであること、そして、我が国には「君臨すれど統治せず」は歴史的に見て全く適用されず「統治すれども親裁せず」が貫かれてゐたこと、典範に臣民が容喙することは決して許されず、英国の猿真似をすることは亡国の道を歩むことになることを自覚すべきなのである。


正統な皇室典範とは、伝統的に紡がれてきた皇室の家法のことである。これまで、皇室のことは皇室自らがお決めなさるといふ、自治と自律によつて培はれた皇室の掟(典範)のことである。

そして、その正統典範とは、皇室典範(明治二十二年二月十一日裁定、施行)、皇室典範増補(明治四十年二月十一日裁定、施行)及び皇室典範増補(大正七年十一月二十八日裁定、施行)によつて構成されてゐる。


我々の家族にも、家訓とか家法があるやうに、これらを定めるのは、その家族が決めることであつて、他人が口出ししたり干渉したりすることはできない。ましてや、皇室典範は天皇家の家法なので、当然のことなのである。


【占領典範の性質】

しかし、GHQの完全軍事占領下の昭和二十二年に制定されたとする現在の「法律」としての「皇室典範」(占領典範)は、法規名称を偽装したニセモノである。

そもそも、GHQの完全軍事占領下の非独立時代に制定されたとする日本国憲法(占領憲法)の第一条で、「この(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあり、主権者様であらせられる「国民」といふ「ご主人様」の下に仕へる家来として「天皇」を位置づけてゐることになる。

そして、第二条では、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを承継する。」とあり、占領憲法下で制定された「皇室典範」(占領典範)といふのは、皇室の家法ではなく、単なる「皇室統制法」ないしは「皇室弾圧法」に過ぎないのである。

ところが、これまで通りに国民を欺く目的によつて、あへて「皇室典範」といふ法律名称を偽装して占領憲法第二条に表記して制定したのである。

このやうな皇室制度は、神話に煙る我が国の一視同仁の歴史において、極めておぞましい異形を晒してゐることになつてゐる。


【占領典範の無効性】

占領典範の無効性を考察するについては、これと同じくGHQの軍事占領期の非独立時代に制定されたとする占領憲法が憲法として無効であるとする真正護憲論の理論を理解することが必要となる。

真正護憲論は、軍事占領期の非独立時代に制定されたとする占領典範と占領憲法とは、典範として、また、憲法として無効であるとするものである。占領憲法が憲法であるならば、「交戦権」(right of belligerency)のない憲法で講和独立することは不可能であること、占領憲法が憲法として無効であることから当然に帝国憲法が現存してゐること、その第十三条に定める天皇の講和大権によつて講和独立したものであること、そして、占領憲法は帝国憲法第七十六条第一項によつて講和条約の限度で効力を有してゐるものてあることなどを骨子とする理論が真正護憲論である。

本稿は真正護憲論を詳しく論ずることを主眼としたものではないが、この理論を知ることは、少なくとも典範問題を理解するためには不可欠となる。占領典範と占領憲法、まとめて典憲といふが、占領典憲の無効性については、真正護憲論について論述してゐる『占領憲法の正體』や『真正護憲論(新無効論)の概説』などを参考にされたい。


それゆゑ、ここでは、その理解がなされてゐることを前提として、本稿を進めることになるが、以下は、主に占領典範の無効性について、その基礎的な考察を試みることとする。

まづ、占領典範に関して素朴に感ずることは、帝国憲法と先帝陛下のお陰により講和して独立を回復した我が国において、どうして伝統的に継承されてきた皇室の自治と自律による皇室典範まで奪つてしまふのであらうか、といふことである。

これは、まるで火事場泥棒のやうな敗戦利得者が皇室を弾圧して占領憲法と占領典範を制定したといふことである。これほど不敬不遜なことはなく、万死に値する暴挙である。

占領典範は、歴史的に考察すれば、徳川幕府による皇室不敬の元凶である『禁中竝公家諸法度』と同じ性質の皇室弾圧法である。


明治の皇室典範(明治典範)では、諮詢機関として「皇族会議」があり、「成年以上ノ皇族男子ヲ以テ組織」されてゐるが、占領典範では、皇族会議を廃止して皇家の自治と自律を奪つた上、決議機関として「皇室会議」を設置した。

その「議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人」の十人とし、皇族議員は十人中たつた二人に過ぎない。これによつて皇室から自治と自律を奪つて監視するのである。皇族は二人だけで、残りの八人が非皇族で構成される「皇室統制会議」に過ぎないのに、これを「皇室会議」といふ名称にするのも名称偽装であり、そこまでして国民を欺き続けてきた。

いづれにせよ、占領憲法が憲法として無効であることから、その無効の占領憲法を根拠として制定させたとする占領典範も無効といふことになる。親亀こけたら子亀もこけるのである。


【平成二十三年三月十六日の「おことば」】

このやうに、占領憲法も占領典範も無効である状況において、我々は、今上陛下の「おことば」に刮目する必要がある。

平成二十三年三月十六日の「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」は、政治の混乱と行政の立ち後れを見事に救つていただいた「緊急勅令」である。帝国憲法第八条第一項には、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ敕令ヲ發ス」とある。


先帝陛下は、大正十年十一月二十五日から大正天皇が崩御されるまで、大正天皇の摂政宮であつたが、大正十二年九月一日には、関東大震災が起こり、摂政宮が緊急勅令大権に基づき緊急勅令を煥発されて、国家の窮状を救つてゐただいたのと同様に、今上陛下もまた東日本大震災後の緊急勅令を煥発されたのである。


今上陛下のおことばの中に、「自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。」とある。

自衛隊は、誰が判断しても軍隊であり、占領憲法が憲法であれば憲法違反であることは明らかである。学説上も違憲であるとの見解が多数説で、この論争は政治的な重要な争点となつてゐる。

占領憲法第四条第一項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とあるので、今上陛下が真つ先に「自衛隊」の名前を挙げて慰労されるのは、自衛隊に関する論争があることを無視されて言及されたことになり、「国政に関する権能」を行使されたことになる。


【平成二十八年八月八日の「おことば」】

また、平成二十八年八月八日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」においても、「即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。」と述べられ、さらに、「日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。」とされた。


前にも述べたが、占領憲法第四条第一項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とあるので、天皇の行為は国事行為「のみ」に限定され、「象徴的行為」なるものは認められないといふ占領憲法の厳格な解釈からすると、そのやうな行為を天皇が行ふことは違憲であるとする見解もある。

そのため、このことを容認する前提での「おことば」も、やはり国政に関する権能を行使されたことになるのである。

しかし、これらのおことばに対しては、誰からも憲法違反であるとの批判がなされない。今上陛下があへて憲法違反であることを認識してなされるはずはないことからすると、我々は、占領憲法は「憲法」ではなく、占領典範も無効であるといふのが御叡意であると受け止めなければならないのである。


ところで、今上陛下は、昨年のおことばの中で、公務の軽減を求められたことも、譲位のご意向があるといふことは一切述べてはをられない。にもかかはらず、政府は、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設置し、このおことばを無視する方向で検討を始め、最終的には、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を制定し、今上陛下の退位とその時期について政府が勝手に取り決めることとなり、退位を強制することになつた。  なんといふ不遜、不敬極まりないことであらうか。


【典範奉還】

この度の今上陛下のお言葉を忖度すれば、我々臣民に残された道は一つしかない。臣民の分際で、典範に容喙することは絶対に許されないので、残された道は、「典範奉還」を実現すること、すなはち、皇室に自治と自律を回復していただいて、皇室の家法としての正統なる皇室典範をお定めいただくことしかないのである。


平成二十九年の今年は、慶応三年(1867+660)の大政奉還から百五十年目にあたる。太陰太陽暦の慶応三年十月十四日に徳川慶喜が明治天皇へ大政奉還を上奏し、翌十五日に勅許され大政奉還が成立する。そして、同月二十一日に徳川慶喜が大政奉還を布告し、同月二十四日に、徳川慶喜が征夷大将軍を辞するといふ経緯を辿つた。


この度の今上陛下のおことばに秘められてゐる御叡慮は臣民には計り知れない深奥なるものがあるはずである。おそらく、明治典範に復元された後に、さらにそれを歴史伝統に基づいて改正されることを示唆してをられるのだと推察されるのである。


占領典範第四条には、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」とあり、これは、明治典範第十条の「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」を受け継いだものである。この規定は、実のところ、明治政府が譲位を禁止するやうに容喙して宮務法を歪めた結果である。これまでの宮務法では、「譲位」の制度があり、上皇と天皇との権威が分裂して政争の種になつた歴史があつたことから、明治政府の不満分子が退位した上皇を担いて内乱となる危険があるとして、譲位の制度を認めなかつたのである。結果論であるが、もし、明治典範に譲位が禁止されてゐなかつたとすれば、西郷隆盛をこよなく信任されてゐた明治天皇が西南戦争を契機として譲位されることもあり得たのである。


しかし、今上陛下は、現代ではそのやうな危険はないと判断してをられるか、あるいは譲位が維新回天の契機となつてきた歴史の智恵を守るために、譲位を示唆され、伝統的な宮務法に復元しようとのお考へなのかも知れない。

明治典範が譲位を禁止したのは、その点において皇室の自治と自立を制限してきたものであり、さらに、それ以外のすべての事柄について皇室の自治と自律を完全に奪つたのが占領典範であるとご認識されてをられることは確かだと思はれる。


この「おことば」もまた、天皇の公務のあり方に関する内容を含んでゐるので、国事行為でも象徴としての行為でもない。明らかに国政に関する発言であるから、憲法違反といふことになるはずである。しかし、だれもそれを指摘しないといふことは、「憲法」違反ではないのである。つまり、占領憲法には抵触するが、これは憲法ではなく、帝国憲法が憲法であるから、憲法違反はないのである。

今上陛下は、占領憲法が憲法としては無効であることを認識してをられることになり、帝国憲法と皇室の伝統的復権を願つて、一連のおことばを煥発されてゐるのである。


従つて、我々が、占領典憲の無効確認を行つて帝国憲法の復元改正への道筋をつけると同時に、皇室に正統典範を奉還して皇室の自治と自律を回復して改正していただくといふ伝統保守の王道を歩めないのであれば、それは到底「保守」の名に値しない。


【弥縫策】

仮に、どうしても占領憲法が憲法として有効であり、これを前提にしたいといふのであれば、第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあるのを、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である。」として後段を削除し、さらに、第二条の「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とあるのを、帝国憲法第二条の「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」に依拠して、「皇位は、世襲のものであつて、天皇の定める皇室典範に遵つて、これを継承する。」と改正する以外はないのである。


また、仮に、占領典範を前提とするとしても、皇室の自治と自律を保障するために、占領典範第四条の「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」を限定的に解釈して、天皇の御叡意による譲位は、この限りではないと解釈されるべきなのである。この規定は、崩御は天皇の意思を介しない事柄なので今上陛下による皇嗣への譲位の意思表示がなく、崩御と即位との間に時間的間隙(空位期間)が生まれることを防ぐためのものと解釈できるのである。皇統連綿といふのは、その時間的間隙がないことを意味するので、崩御の場合に限つて必要な規定である。それゆゑ、この反対解釈として、譲位の場合は皇統連綿における時間的間隙がないので、今上陛下の御叡意によつて自由になされればよいのである。


ところが、今回成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は、政府が勝手に取り決めた時期に、今上陛下を「強制退位」、「強制譲位」させるといふものであり、この度の今上陛下のおことばを無視し、皇室の自治と自律を完全に奪ふといふ最悪の結果になつた。

退位の恒久法であらうが臨時法であらうが、政府が退位の時期を勝手に決めることは、そもそも無効なのである。


このやうなことすら主張できない人たちは、保守の仮面を被つた天皇否定、天皇褒め殺しを狙ふ左翼以外の何者でもない。


【結び】

GHQ占領下で、皇室財産が没収され、十一の宮家を強制的に臣籍降下させられた上、「皇室典範及皇室典範増補廃止ノ件」(昭和二十二年五月一日)で、「明治二十二年裁定ノ皇室典範並ニ明治四十年及大正七年裁定ノ皇室典範増補ハ昭和二十二年五月二日限リ之ヲ廃止ス」とされ、昭和二十二年一月十六日に法律第三号として、同名の「皇室典範」といふ法名詐称の法律が制定されたが、正統典範の廃止も偽典範の制定もすべて無効であることは言ふまでもない。皇室典範は神聖不可侵なものであつて、臣民の分際で容喙してはならず、典範は速やかに奉還されるべきものなのである。


昭和十二年九月、山西省の戦闘に於て、岩壁を登つて敵兵の陣地へと号令をかけながら突撃し、手榴弾を浴び倒れたものの、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、そのまま倒れる事なく遥か東方の皇居の方角を遙拝し、挙手敬礼をして立つたまま絶命した軍神杉本五郎中佐は、その遺著である『大義』の中で、「天皇は国家のために存し給ふものに非ず」と述べてゐる。


これを理解しうるか否かが日本人であるか否かの分かれ道となるのである。




辯護士、憲法学会会員 南出喜久治(平成29年11月29日憲法記念日)

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