自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.09.15 連載:第三十五回 方向貿易理論 その八【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十五回 方向貿易理論 その八

あきなひは まらひとたちの よろこびと あきびとまうけ つりあふはかり
(経済は顧客たちの喜びと商人儲け釣り合ふ秤)


(承前)


自由市場では需要と供給の均衡によつて商品價格が決定されるといふ「需要供給の法則」は、証券、為替取引の賭博経済のみに適用される法則であつて、実体経済における「商品」には適用がありません。

なぜなら、実体経済には、完全な「自由市場」自体がないからです。一瞬、不思議に思はれるかも知れませんが、後で述べるとほり、これは事実であり、みなさんが抱いてゐる生活感から頷けるはずです。


自由市場として成り立つには、全需要者(全消費者)と全供給者(全生産者、全販売者)とが一斉かつ全域において、第三者の作為を介在させることなく取引しうる関係が確保されてゐることが必要です。そこには新規参入することの障碍や商品の流通と商品への接近(アクセス)における地域格差や障碍が全くないことが條件となります。しかし、そのやうな環境はいままで存在したことがないし、これからもそれが実現することはありえません。特定の地域や特定の参入者だけの取引を以て自由市場といふ「幻想」を抱いてゐるだけです。


そもそも、商品価格は、原則として生産原価及び流通原価などに適正利益を付加したものを基礎に、供給者側が消費者に対する情報操作を駆使して、さらに付加価値分を上乗せするなどして決定するもので、需給均衡で決定するのではありません。特定商品の需要超過によつて生産者の設定した販売価格よりも高騰して取引がなされるときや、その逆に、供給過剰によつて製造原価割れで取引がなされるときのやうな需給ギャップが生じるのは、供給者がその商品についての需要情報や流通情報などを事前に把握してゐなかつたか、あるいは、販売促進のための情報操作の失敗や、その後の事情の変化によるもので、おしなべて経営の問題に還元されるだけです。


需要情報が乏しく需給バランスが全く手探りの状態で、供給者が製造・販売したりすることは本来ありえませんが、そこに賭博的手法を取り入れ、テレビその他の媒体を駆使するなどして過剰消費を創出させようとする商業主義(commercialism)が出現します。これは、本来の実質的需要を発掘するといふことではありません。消費者の奢侈傾向、衝動と虚栄による購入性向などを掻き立てて過剰消費を創出するのです。


このやうにして実体経済における商品の価格は決定されるもので、購買意欲を過度な情報操作によつて掻き立て、商品原価に適正利益を付加したものを遙かに超えた商品価格を決定することによつて暴利行為となるやうな価格設定も可能となります。暴利行為とは、法外な利益を獲得するための違法な個別的商業活動であり、一般には詐欺的手法を用ゐた公序良俗違反の形態であるとして禁止されるものですが、これは何も個別的にだけに起こるものではありません。このやうに、構造的に一般的にも起こりうるのです。つまり、自然的又は人為的な理由によつて大量の需要が生まれた場合、しかも、商品の生産者及び流通者が独占状態や寡占状態となつてゐる場合には、生産停止、出荷制限、売り惜しみ、買ひ占めなどの生産調整や流通調整によつてもその現象は起こります。このやうな暴利行為を法規制によつて禁止しなければならないのは、そもそも市場による均衡が実現しえないことの証左でもあります。


さらに、その商品価格についても現実には一律でないのが一般です。市場で価格が決定するのであれば、「一物一価の法則」が適用されるはずですが、それが成り立たないのも、自由市場が存在しないからです。そもそも、「需要供給の法則」が成り立つためには、全地域の全人民の需要と供給とが「一斉かつ同時」に発生しなければなりませんが、そのやうなことは絶対に起こりえません。需要と供給との間には必ず時差があり、地域、季節、生産状況、供給状況その他の諸条件の相違によつてそれぞれが変動して相関関係的に価格が決定するのです。また、需要と供給との間に流通者やブローカーなどの中間者が存在する経済構造であることから、中間者の動向によつても価格が変動します。


それゆゑ、不特定多数の供給者と不特定多数の需要者との均衡による「見えざる手」によつて均衡点に到達するといふ価格決定原理は単なる幻想であつて、そのことは「流通・小売りの寡占化」によつてさらに一層明確になります。大手スーパー、大手コンビニ、大手チェーンストア、大手ディスカウントストアなどの大手の流通・小売業者が流通・小売りを寡占して価格決定権を獲得するに至り、生産者(メーカー)の価格決定権はさらに縮小されます。流通・小売りができなければ生産できないからです。この生産者と中間者との緊張的共同関係の中に、消費者(需要者)が割り込む隙はありません。消費者(需要者)は価格決定に参加することは全くないのです。消費者(需要者)は、供給者側(生産者、中間者、広告媒体など)から示された商品価格でその商品を購入するか否かを選択することしかできません。僅かな楽しみとしては、いろいろなチラシを比較して購入する店舗と商品を選別し、その店舗でさらに価格を値切つて、ささやかな達成感を味はふことしか残されてゐないのです。


ここに至つて、商品経済は、生産者、中間者の利益追求の欲望と消費者の消費の欲望とを同時に満たす「欲望経済」となつて供給が需要を主導する供給主導型が完成するのです。この欲望経済は、際限なく拡大し、投機対象を漁り続け、欲望の坩堝である証券為替取引市場や商品取引市場といふ賭博場にも押し寄せます。「貯蓄から投資へ」といふ甘言に踊らされて、食べる物を切り詰めてでも投機に走る「一般投資家」といふ名の欲望の奴隷も誕生してくるのです。


そして、米国が「年次改革要望書」を以て我が国に要求した、規制緩和と銀行と証券の業際規制の廃止(金融緩和)などを忠実に履行した「構造改革路線」によつて過剰流動性を増した通貨がさらに賭博経済へと注入され、実体経済を逼塞させました。これらの虚業経済は実体経済と混在化して峻別できない状況にあることから、バブル崩壊によつて景気が低迷し、デフレが長期化すると、政府による経済政策は、ケインズ主義的に公共投資等による需要面から牽引する方法か、あるいは、新自由主義的な構造改革等による供給面から牽引する方法か、そのいづれを採用するのかといふ、これまで言ひ古されてきた議論を繰り返すしかありません。これら両極端の政策を政権毎に交互に採用し、人々に過度の期待と動揺を与へることしかしません。これでは全く根本解決にはならないのです。


いづれにせよ、実体経済を健全化させることが当面の課題ですが、これからの経済政策は、消費を煽ることによつて景気浮上させるといふ幻想から脱却しなければなりません。このやうな政策は、質素儉約を否定する不道徳の奨励であるとともに、人も国家も、このままで成長が際限なく続くことはありえないことを忘れてゐます。


未使用のまま廃棄するほどまでに物が豊富なのに、これ以上一体何が物質的に不足なのでせうか。豊かになつたと云はれてゐるのに、それでも更にあくせくして疲れ切り、将来が不安なのはなぜでせうか。それは、際限なくこのまま無限大に成長できることへの不安があるからです。


飢餓と貧困に喘いでゐる人が世界に溢れてゐますが、この原因は、格差を拡大する経済構造と、富の再配分をしなくなつた政治にあります。

この不条理を隠すために、「慈善活動」と称する「偽善活動」をします。その内容は、食料等を恵んであげる一時的な形だけの「施し」をするだけで、根本的な解決のための活動ではありません。


このやうに、政治も経済も、いまや制度疲労を起こしてゐます。政治の改革方法については既に述べましたので、次は、経済の全体構造をどのやうに改革するのかといふことについて考へる必要があります。


南出喜久治(平成27年9月15日記す)


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