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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第五十一回 日本会議の憲法論

あやめづき くにのあやめも しらずして くにをあやめる みかのもよほし
(五月国の文目(道筋)も知らずして国を殺める三日の催し)

まがのりを つくらはんとの かけごゑは くにおとしむる あだのたくらみ
(曲法(占領憲法)を繕らはん(改正しよう)との掛け声は国貶むる仇の企み)

すめろきを かたにとられて やつされし のりのまがもの のぞけただちに
(天皇を形(人質)に取られて窶(変装)されし憲法の禍物除け直ちに)


憲法記念日は11月29日なのに、偽憲法が施行されたとする国辱の日である凶日が今年もやつてきましたが、この日に日本会議奈良が主催する「憲法改正!奈良県民大会 憲法改正1000人大行進」の催しがあり、午後3時30分に奈良県庁前の奈良公園登大路園地からデモ行進が出発する直前に挨拶をする来賓の一人として私が呼ばれました。


日本会議は、占領憲法が憲法として有効であり、これを守つた上で改正するといふ立場ですので、占領憲法が憲法としては無効であり、帝国憲法の復元改正をすべきであると真逆の主張する私は、これまでから日本会議から蛇蝎のやうに嫌はれてゐますので、本来ならこんな集会に呼ばれるはずはなかつたのですが、この主催は、日本会議本部ではなく、日本会議奈良でしたので、憲法のことをセクト主義的に捉へない直向きさと寛容さを持つ日本会議奈良の要請でしたので、これを受け入れることにしたのです。


だからと言つて、私は、占領憲法の改正には反対の立場を崩せませんし、お世辞にでも改正を支持する発言はできません。日本会議奈良が私を呼んだのも、私が優柔不断な態度で変節した挨拶をしてくれることを全く期待してはゐないのです。


そこで、私は、当然のやうに、占領憲法の改正運動は後世の人が国賊の企てであると評価するであらうといふ趣旨のことを述べて挨拶を終へました。普通なら、石や怒号が飛んでくる筈でしたが、さうではありませんでした。50人弱の参加者の大半は、私の知る限り占領憲法無効論者でした。周囲には20人ほどの一般聴衆も居ました。


さる4月26日に、東京地裁と福島地裁に対して、サヨクどもが安保法制は立憲主義に違反して違憲であり、自衛隊の出動を差し止めることなどを求める700人規模の訴訟を提起しましたが、保守もどきの改正論者は、この立憲主義違反であるといふ主張に対して、まともに反論しません。なぜか。それは、ウヨクとサヨクの馴れ合ひによる御都合主義のデキレースだからです。


サヨクどもが、そこまで立憲主義を厳格に主張するのであれば、自衛隊の出動を差し止めるどころか、自衛隊そのものの存在が立憲主義に違反して違憲であると主張すべきなのに、その主張は自衛隊を容認してゐる一般国民の世論に竿を刺すので支持が得られないとして、御都合主義的に安保法制のみについて議論します。


保守風味の改正論者のウヨクも、やうやく自衛隊が全国民的に容認されてきたのに、このことを違憲だとサヨクに蒸し返されては困るので、ここはお互ひにこれを問題にしないことで馴れ合ひ的に合意して、安保法制が立憲主義に違反するか否かだけに限定して議論する「通常兵器による局地戦」で終はらすことが、お互ひのためになるからです。


しかし、立憲主義こそは、肇国以来の伝統であり、我が国は祖法を守り続けてきた国家ですから、伝統保守を基軸とするのであれば、立憲主義を最大の旗印として再生日本のあるべき姿を実現しなければならないはずです。


そうであれば、何度も私が言つてゐますが、GHQの完全軍事占領下の非独立時代に、帝国憲法をGHQの圧力と強要で改正したとする占領憲法の制定こそが、憲政史上最大の立憲主義違反であり無効であることは明らかです。ところが、それをサヨクもウヨクも御都合主義の馴れ合ひと保身によつて、決して言はないのです。


難産の末の安保法制が成立しました。それを見守つてきた一般国民は、これほどまでの解釈改憲ができるなら、これ以上の難産となりうる憲法改正は危険だし、歯止めが利かない上に、今後も解釈改憲で乗り切ることができるのであれば、9条の改正は最早必要ないといふ声が大きくなりました。そのため、憲法改正は、いくら囃し立てても掛け声倒れに終はり、現実的な政治のロードマップからは消えてしまつて、占領憲法の改正は不可能になつたのです。


そもそも、改正、改正と言つても、そもそも改正部分と具体的な内容については意見の一致がありません。衆参で発議することは現在の議員数からして不可能であり、国民投票にかければ、硬性憲法で馴れ親しんだ「保守バネ」が働いて、確実に否決されます。


つまり、数の勝負では絶対に憲法改正は実現しません。だからこそ、立憲主義を前面に打ち出しての論理の質で勝負しなければサヨクには勝てないのです。


そんなことを話して、憲法改正のデモの出発前に、しつかりと水を差してきました。こんなことは、前代未聞のことです。そんなためか、デモ行進の最中で、改憲論者が無効論の参加を排除しようとするやうな動きがあつたり、無効論のシュプヒコールがあつたりして、異例ずくめのデモでした。私が憲法改正デモに参加したのも、生まれて初めてのことでした。私は、「憲法改正」の「憲法」は、「大日本帝国憲法」のことであり、その改正とは「復元改正」のことであると言ひ聞かせて、仲間とともに参加しました。


冒頭の和歌は、占領憲法の憲法記念日なる日に、憲法改正の催しをすることの愚かさと危険さを「あやめ」の多義性による掛詞の手法を用ゐたりして、この日に挨拶の締めくくりとして詠唱したものです。


このやうに、私が、日本会議の集会に出席するやうになつたり、出席を要請されることになつたのは、ごく最近のことです。初めにも触れましたが、これまでは私と国民会議とは長い間の確執があり、国民会議は私を完全に蛇蝎の如く嫌つてゐました。占領憲法を憲法として無効であるとする主張が、改正利権をひた走る国民会議には運動論としても全く受け入れられなかつたからです。


10年ほど前のことです。私は、5月3日の博多どんたくの日に日本会議福岡支部の内田壮平支部長の招きで、西日本新聞社の大ホールで、憲法無効論の講演をするやうに依頼されました。内田氏は、黒龍会の内田良平氏の孫で、当時は自民党の福岡県議会議員であり、私の真正護憲論の熱烈な支持者の一人でした


後で判つたことですが、日本会議の本部は、私を講師として講演会を開催することには大反対で、もし、内田氏がこれを強行するのであれば支部長を解任するとまで圧力をかけたのですが、内田氏はこれを敢然として撥ね除け、そこまでの強行なことをするのであれば、日本会議の中で最大の支部である福岡支部も二番目に大きな支部である熊本支部、そして、九州全部に働きかけて日本会議を離脱して九州で独立組織を立ち上げるとまで内田氏は宣言したらしいのです。


その結果、この講演会の後になつて、詳細は省略しますが、内田氏は支部長を解任され、自民党の県議会議員の地位も失ふこととなり、最後は政治の世界から引退することにまで追ひ込まれたのです。日本会議の組織防衛の凄まじさと強引さをひしひしと感じさせられました。本当に内田氏には申し訳ない結果になり言葉を失ひました。


また、名越二荒之助氏が亡くなる前に、私に尋ねられたことがありました。それは、名越氏は、金沢などで開かれた講演会で私と一緒に講師として招かれたりして、親しくさせていただいたこともあり、私の憲法論を良く理解しておられました。あるとき、名越氏が日本会議本部の会合で、私を講師に招いて憲法講演会を企画してはどうかと提案されたとき、本部会議の空気が凍り付いたやうになつたらしく、名越氏は、後日私に対し、日本会議と私との間で何かがあつたのですか、と聞かれたのです。


私としては、私から特に何もしてゐないものの、福岡事件があつたことを話したところ、名越氏はそのことについて相当に憤慨されてゐたことを今も覚えてゐます。


ところが、日本会議の本部は今も変はつてゐませんが、最近になつて、地方では綻びか出てきたのか、支部単位では私を受け入れる傾向が出てきました。


平成27年8月30日に、日本会議広島の地方議員の会が、私を講師に呼んで、憲法講演会を開いてくれました。石橋良三氏から要請がありましたので、福岡事件の二の舞になることはよくないので、そのことを説明して自重されたらどうかと言ひましたら、石橋氏は、安保法制の難産によつて憲法改正は今後はできなくなつたと政治家であれば誰でも現実的に感じてゐる、だからこそこれからは無効論しかないのです、と言つてくれた上で、福岡事件のやうなことは懸念に及ばないので、どうしても私に来て欲しいてほしいと懇請されました。


石橋氏は、古くから広島県で部落解放同盟との闘ひを続けてきた闘士でした。当時は、自民党の広島県議であり、私も石橋氏の要請を受けて広島に乗り込み、刑事告発などを担当するなどを行つたりして共闘してきたこともあり、また、子宮頸がん予防ワクチンの危険性について、私が平成22年6月から警鐘を鳴らしてきたことについても、真つ先に協力してもらつて、広島県庁で、県議会議員と県庁職員を集めて学習会まで開いてもらつた経緯もありました。


真正護憲論についても、当初から理解を示してもらつてゐましたので、そこまでの決意と覚悟であれば、どうしても講師を引き受けるべきであるとして広島に行きました。普段は来てゐない本部からの職員も偵察に来てゐましたが、私は、いはばアウェーの集会で、日本会議の立場は日本再生のための最後の抵抗勢力であると決めつけた話をしました。


そして、平成27年10月には、救う会奈良と日本会議奈良との共催で開かれた救う会の集会にも招かれましたが、このときも占領憲法改正論を唱へ続ける限り拉致事件は解決しないことを説明しました。開場から一番拍手が多かつたのも私の話でした。


日本会議では、平成27年11月10日の日本武道館における決起集会に1万人を集めたと言つてその動員力を自慢してゐますが、その中には相当数の無効論者が参加してゐるのです。いまや、改正論と無効論とは、運動論において反目してゐる場合ではないとする現実主義者が、二足の草鞋を履いて運動に参加してゐるのです。改正論の集会で、護憲論よりも無効論を批判するといふ従来の方針を取り続けると、改正運動の動員力が著しく沈下してしまふ傾向があるために、露骨には無効論を批判することがなくなりました。


現に、この1万人集会で、多くの無効論者も参加して、日本武道館の会場で占領憲法無効確認の請願署名活動をしたところ、「やつはりこの方が本筋なんだ」と言つて、多くの人が賛同署名をしてくれたことも、私と共闘してくれてゐる全国の団体の活動家から報告してくれました。


その1万人集会についてですが、日本会議の役員会で諮られた決議文の文案には、「国民が・・・主権者としての意志を表明し」とあつたところ、副会長の小堀桂一郎氏が、「これでは、憲法改正を要求する側とても、占領憲法の『国民主権』原則とやらを承認し肯定することになつてしまふ、改憲の立場が根本から崩れてゐる、と強い異論を唱へ」、この文案を最終的には「国民の直接意思を表明し」と改訂することになつたといふ経緯を私に説明してくれました。


しかし、日本会議の副会長である小堀氏としては、私の『占領憲法の正體』を熟読されて真正護憲論を深く理解されてゐるものの、立場上そう簡単に転向できないのでせう。情け無い話ですが、それが現実です。


日本会議としては、占領憲法を憲法として有効とするのが立場ですから、占領憲法が当然に国民主権に立つてゐるから改正できるはずなので、「国民が・・・主権者としての意志を表明し」とするのが当然なのに、国民会議の副会長ともあらう人がこのやうな自家撞着の単なる情緒論に陥つてゐることを知つて、情け無く感じました。小堀氏としては、文案を改訂したことを私に好意的に評価してもらふために教へてくれたのだと思ひますが、国民主権論によつて占領憲法を改正しようとするのが改憲論であることを自覚できてゐないといふことです。これによつて、改憲論者には、「無自覚な国民主権論者」と「自覚的な国民主権論者」が居るといふことが判つたのでした。


そして、小堀氏もまた、平成28年が「自主憲法制定に向けての一歩を大きく踏み出す年になるとは思へません。」と語つてゐることからして、これが国民会議の本音といふことでせう。


さういふこともあつて、この1万人集会には、占領憲法をなんとかしなければならないといふ様々な考への人が集まつたのですが、やはり本流である真正護憲論の仲間たちが、1万人集会での署名活動に引き続き、占領憲法無効確認の請願署名運動の賛同者や発起人を募るために、各方面に手紙を出して呼びかけてゐるのですが、その呼びかける相手の中に、長谷川三千子氏が居ました。


そして、平成28年3月、長谷川三千子氏に対して発起人として署名してほしいと求めたら、長谷川氏は手紙で断つてきて、その中には「現行憲法の無効化はほとんど論理的に不可能なのです」との記載があつたとして、そのコピーを送つてくれました。


長谷川氏は、日本会議の代表委員ですので、無理だとは思つてゐましたが、それにしても知的怠慢を絵に描いたやうな俗物と言つても過言ではありません。チャンネル桜で私と一緒に憲法討論会で出演したことがありましたが、長谷川氏は、そのときに、私の無効論に理解を示す発言をしてゐたのに、今になつて、「現行憲法の無効化はほとんど論理的に不可能なのです」といふのは、一体どのやうな根拠でそのやうに言はれるのか全く理解に苦しみます。


長谷川さん! 「現行憲法の無効化はほとんど論理的に不可能なのです」といふことについて「論理的に」説明していただき、是非とも公開の場のディベートにて私と占領憲法の効力論争の議論を深めさせていただきたいと存じますので、この申出を逃げずに受け止めて頂きますやう、よろしくお願ひします。


南出喜久治(平成28年5月15日記す)


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