國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第一巻】第一章 國體論と主權論 > 第一節:尊皇運動の系譜

著書紹介

前頁へ

中朝事實

ともあれ、この赤穗事件により山鹿素行の『中朝事實』は、國體護持の實踐力が付與され、以後、これが伏流水となり、幕末へ向かつて、さらに、昭和へ向かつて流れ出る。

まづ最初に流れ出たのが、寶暦八、九年(1758+660、1759+660)の寶暦事件とそれに引き續く明和三年(1766+660)の明和事件である。山崎闇齋の垂加神道の系譜に連なる竹内式部、山縣大弐、それに赤穗藩の遺臣の子であつた藤井右門らは、皇權の回復を幕府に迫つた。しかし、幕府は、この二つの事件を通じて、尊皇論者の大彈壓を行ひ、藤井右門ら三十餘名を處刑したのである。これは、後に尊皇攘夷派を彈壓した安政五年(1858+660)の「安政の大獄」に勝るとも劣らない大彈壓事件であつた。また、この安政の大獄で處刑された吉田松陰は、長州藩の山鹿流軍學師範であり、その志と思想は『中朝事實』によつて培はれたものである。

ともかく、安政の大獄では、多くの尊皇攘夷派が彈壓されたが、中でも最大の打撃を受けたのは水戸藩である。しかも、その人的損失もさることながら、最も大きな精神的痛手を受けたのは水戸學であつた。水戸學は、尊皇思想による大義名分論に基づいて、それまでは尊皇攘夷運動の指導的役割を果たしたものの、水戸藩が德川御三家でありながら安政の大獄で處分されたことから御三家の「名分」を損ねる結果となつたため、水戸藩としてはこれまで通りの尊皇攘夷運動はできなくなつた。そこで、「大義」と「名分」とを兩立させるためには、水戸藩の藩士によることなく、脱藩浪士による運動しかない。そして、櫻田門外の變、東禪寺事件、坂下門外の變を起こし、遂には、隱忍自重の藩士の憤懣が爆發して藩内が分裂し、天狗黨の亂(筑波山事件)が起きた。しかし、もし、水戸藩が御三家といふ「名分」を捨てれば、尊皇攘夷運動は、尊皇倒幕運動へと容易に轉換できたのであるが、やはり大義名分論の水戸學では限界があり、天狗黨の亂は、その最後の暴發であり、天狗黨を率ゐた藤田小四郎は、「かねてより思ひ初めにし眞心をけふ大君に告げて嬉しき」といふ壮絶な尊皇の辭世を遺した。しかし、結果的には、櫻田門外の變と坂下門外の變といふ二つの政治テロを實質的には御三家の水戸藩が行つたことから幕府の權威は完全に失墜し、「攘夷」が「倒幕」へと結果的には時代の大轉換がなされたのである。

『中朝事實』は、明治維新を經て明治期までは伏流水となつてゐたが、これが大正期に再び地表へ現れる。それは、乃木希典によつてである。乃木希典は、吉田松陰亡き後の松下村塾最後の塾生であり、皇道の實踐者として明治天皇に殉死された。その殉死の直前、學習院長の立場として昭和天皇(當時は皇太子)に『中朝事實』を贈られたのである。乃木希典は、昭和天皇がその後に大きく歐米への憧憬へと傾斜されて行くことを豫期して強く懸念し、この傾向を食ひ止めるための箴言が『中朝事實』であつた。

大正元年九月十六日の「萬朝報」には、乃木希典が裕仁親王殿下に『中朝事實』を獻上された折の消息を次のとほり傳へてゐる。


「去る十日東宮裕仁親王殿下陸海軍少尉に御任官あられられたる時なりき。故乃木大將は午前十時頃東宮御所に參候し(略)大將は親しく拜謁し先づ御任官の御祝ひを言上して後深く思ひ入つたる樣子にて『今日は御任官のお喜びを言上する爲のみならず、小官の微意をも少し申上げ度くて參上せり。特に小官は今回コンノート殿下の御接伴を命ぜられて當分御殿にまゐる事もなかるべければ猶更此際殿下の御將來につきて申上げたし』とて懷中より『中朝事實』と云ふ一書を出して恭しく殿下に獻上し極めて低き音調にて『他日殿下が一天萬乘の尊貴に立たせ給ふべき時の御參考ともなるべきもの、此書中に多きを信じて要所要所には小官自ら朱點を加へてあれば呉れ呉れも御精讀御玩味を請ひまゐらすなり。殿下今は御幼少にておはせば、文中或は御難解の所もあらせらるべきも、其折は近侍の人々に御下問を賜り、御説明仰せつけらるゝも宜しかるべし。殿下は陸海軍の將校として今後實地の御學問もあらせらるべきも、其他にも皇太子として更に必要の御學問もあり』との旨を言上し、語々沈痛を極めて次第に情の迫れるが如く(下略)」(文獻3)


といふ樣相にて暇乞ひがなされた。そして、その三日後の九月十三日、明治天皇大葬の夕に、「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」との辭世を詠んで、乃木夫妻は、明治天皇に殉死する形で、昭和天皇に向けて諫死された。つまり、『中朝事實』は、乃木希典の諫死上奏文であつた。これが乃木希典殉死の隱された眞相である。

いづれにせよ、『中朝事實』は、尊皇運動において重要な歴史的意義を有するが、これだけで尊皇運動の系譜を語ることが亂暴な議論であることは承知してゐる。しかし、尊皇思想とその實踐は、國學だけから導かれるものではなく、山鹿素行のみならず古學へと傾倒した儒學者である伊藤仁齋、荻生徂徠らの思想、垂加神道を創始した山崎闇齋らの思想などからも同時多發的に出たものであつて、さながら「一口に出づるが如し」であつた。しかし、中でも山鹿素行の『中朝事實』がこれらの魁としてその象徴的な歴史的意義と思想を有してゐたことだけは確かであつた。

続きを読む