國體護持總論
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輔弼と輔翼

しかし、この點について、陛下自らが御叡慮を示されることは、立憲君主制度としての帝國憲法の運營上は問題であるとする指摘がある。また、これと同樣の理由で、昭和二十年八月十四日に『ポツダム宣言』を受諾するに際しての「御聖斷」についても同樣の指摘がある。

そこで、二・二六事件においてなされた緊急敕令による戒嚴令のみならず、ポツダム宣言受諾時における「御聖斷」とその際における御叡慮の表明をも含めて、これらが國體と皇統の護持についていかなる意味を有してゐたか、その國法學的意義と帝國憲法上の位置づけを考察してみたい。

それは、陛下御自身が、二・二六事件における討伐命令と終戰の御聖斷との「二回だけは積極的に自分の考へを實行させた」(文獻177)とあることによるものである。

確かに、帝國憲法が純粹に立憲君主制の憲法であるならば、この「二回」がいづれも違憲の措置であつたとの批判は正鵠を射たものと云へる。ところが、帝國憲法には、一方においては、立憲君主制の根據となるべき規定(第四條、第五十五條、第五十六條など)が存在するものの、他方において、第五條以下に數多くの天皇大權條項を有し、專制君主制の色彩の濃いものになつてゐるのであるから、帝國憲法の本質を把握しなければ、この批判の當否を判斷できないことになる。

帝國憲法は、その規定から明らかなやうに、立憲君主制的要素と專制君主制的要素との雙方が混合されたものであるが、實際には、天皇大權に屬する事項、就中、統帥大權について、明治期までは專制君主的に、大正期以降からは、專制君主制的側面を極力制限して、立憲君主制的に運用されてきた。しかも、慣例的には、天皇不親政として、天皇は拒否權(ヴェトー)を行使できず、上奏された事項について疑問や不審の點があれば御下問を繰り返して暗に御内意を傳へることしか許されないとされ、これが天皇大權が行使されてきた實態であつて天皇大權の運用上の限界であつた。

そもそも、國務各大臣(内閣)の輔弼の制度は、本來は天皇に拒否權を認める「統治すれども親裁せず」といふ態樣の立憲君主制の意味であつたが、これを英國流の「君臨すれども統治せず」といふ、天皇に拒否權と例外的な親裁權を認めない傀儡王政態樣の立憲君主制として運用されてきた。これまでの憲法學は、天皇の親政(親裁)を認めるか否かで專制君主制と立憲君主制とを原則的に區別しても、立憲君主制には、さらに、天皇の拒否權を認めない「君臨すれども統治せず」といふ制度と、天皇に拒否權を認める「統治すれども親裁せず」かといふ制度との區別があることが認識されてゐなかつたのである。

これは、統帥權についても例外ではない。肇國以來、天皇は、躬ら大伴物部の兵(つはもの)どもを率ゐた大元帥であり、明治政府においても、明治十一年に參謀本部が設置され(『參謀本部條例』)、翌明治十二年に「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ。」との布告が出され、明治十五年一月四日には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」との『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(軍人敕諭 資料十)が完成してゐる。つまり、「統帥」は、主に「國務」を規律した明治二十二年の帝國憲法よりも早く完成してをり、これが統帥權の獨立といふ過度の政治的主張の根據ともなるのであるが、これにより、統帥權は、帝國憲法制定前において既に國務各大臣の「輔弼」外とされ、大元帥直屬の大本營の幕僚長である陸軍參謀本部の長官である參謀總長(陸軍)と軍令部總長(海軍、昭和八年に海軍軍令部長と改稱)が「輔翼」(帷幄上奏)することになつたゐた。そして、これは帝國憲法制定後も踏襲され、統帥權の獨立といふ憲法慣習が存在してゐたからである。

本來であれば、「統帥」は廣義の「國務」に含まれるが、この統帥權の獨立とは、「國務」から「統帥」が分離して獨立して運營されるといふ意味での「統帥の獨立」のことであつたが、それがいつの間にか、天皇による統帥の親裁を否定して統帥部が專制できるといふ「統帥部の獨立」へと變質して行つた。輔弼は、天皇大權たる統帥權を陛下親らが行使(親裁)されるための助言に過ぎず、沿革的には、あくまでも專制君主的要素を有してゐたはずである。ところが、大本營は、天皇大權である統帥權を陛下から簒奪し、「大元帥にあれども統帥せず」として、國務に關する國務大臣(内閣)の地位と同等の地位を獲得してしまつたのである。

そもそも、「君臨すれども統治せず」とか「大元帥にあれども統帥せず」とかは、論理學における排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などからして、明らかに虚僞である。「君臨」と「統治」、「大元帥」と「統帥」とは本來は同義語であつて、その差異はない。それゆゑ、これは「統治すれど統治せず」、「統帥すれど統帥せず」といふ矛盾を述べてゐるだけで、これは大權を侵奪するためのトリックに用ゐたトートロジーの標語にすぎない。

本來は、國務(政務)と統帥のいづれについても、「統治すれども親裁せず」といふ統治原理によるものである。これは、内閣から奏上された國務について天皇が裁可するか否かといふ拒否權(裁可權)を有するといふことである。ところが、平時においては「親裁」されないことから、「君臨すれども統治せず」と同樣の運用、すなはち、天皇の拒否權と例外的親裁權が慣例的に停止されてきた。しかし、これは前述したとほり、「君臨すれども統治せず」ではなく、あくまでも「統治すれども親裁せず」といふ統治原理の運用なのである。

統帥を除く狹義の國務(政務)に關しては内閣(國務大臣)が統帥權以外の大權の委任を受け、また、統帥權に關しても、大本營といふ、統帥權の委任を受けた、いはば「統帥内閣」が大正期以後に出現した。これによつて、廣義の國務が狹義の國務である政務と統帥に分離し、その大權を委任行使する「政務内閣」と「統帥内閣」の二つの内閣が竝立することになる。これは、元老會議の終焉と時期を同じくするものであつた。そして、昭和天皇も、この「政務内閣」と「統帥内閣」の二つの内閣を承認し、政務と統帥のそれぞれの大權を實質的には機關委任されることとなつた。これは、歴史的な沿革を辿れば、鎌倉時代における政所(まんどころ)と侍所(さむらいどころ)の分離にも似てゐる。そのため、「二回だけは積極的に自分の考へを實行させた」といふ御認識になるのである。畏れ多くも先帝陛下の御叡慮を忖度いたせば、もし、明治期における帝國憲法の解釋運用のままであれば、これに加へて、「大元帥ではあつたが一度も親ら統帥しなかつた」とされたことであらう。

しかし、帝國憲法の統治原理は、天皇に拒否權のある「統治すれども親裁せず」といふ原則であるから、國家緊急時における陛下の御親裁は憲法の容認するところであり、しかも、それについては政治的無答責(第三條)が貫かれてゐるのである。

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