國體護持總論
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著書紹介

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顯教と密教

昭和期においては、司法界と高等教育機關(大學)では天皇機關説が支配的な見解であつたのに對し、初等教育と軍部においては天皇主體説(天皇主權説)が支配的な見解であつた。このことから、天皇機關説は「顯教」、天皇主體説(天皇主權説)は「密教」と揶揄された(文獻214)。

この顯教と密教との對立といふのは、まづは、これまで述べた天皇機關説論爭の延長線上のものではあつたが、より具體的には、統帥權(統帥大權)の獨立が認められる「權限領域」の廣狹に關する論爭でもあつた。

昭和初期になつて、「顰みに倣ふ」が如き西洋かぶれの者どもによつて、我が國と英國とはその歴史も國體も異なるにもかかはらず、帝國憲法を大英帝國における立憲君主制の趣旨と同じであるとする強引な解釋が學者と司法の世界で主流となつてゐた。そして、統帥權についても、これが天皇が總覽される統治權(帝國憲法第四條)に含まれ、しかも國務大臣の輔弼事項(同第五十五條)に含まれるとして、統帥權の獨立を實質的に完全否定する見解(否定説)が登場したり、統帥權を狹義の統帥權(第十一條)と軍の編制權(第十二條)を含んだ廣義の統帥權とに區別し、統帥權の獨立は狹義の統帥權に限るとする見解(狹義説)や、廣義の統帥權の全部について獨立が認められるとする見解(廣義説)などが對立する圖式が生まれてゐた。ただし、前に述べたとほり、これらの見解は、「輔弼」や「輔翼」の實質が、天皇の拒否權(ヴェトー)を否定する天皇不親政といふ運用がなされることについては何ら對立するところがなく、「君臨すれども統治せず」と解釋することにおいては異論がなかつた。つまり、「顯教」とは、否定説や狹義説のやうに統帥權の獨立を否定ないしは制限して權限領域を縮小する方向の見解であり、「密教」とは、廣義説のやうにその權限領域を擴大する方向の見解であるといふことであつて、これは、いづれも天皇を差し置いて、司法界と高等教育機關を味方に付けた内閣と、初等教育機關と軍隊を味方に付けた軍首腦とが、統帥權の實質的な歸属を爭ふ争奪論爭の綱引きに過ぎなかつたのである。

そして、この「顯教」と「密教」の對立による帝國憲法の本質論と運用論については、むしろ、皮肉なことに、學者からの指摘ではなく、國際政治を卷き込んで問題提起がなされる。それは、内閣が帝國憲法第十三條の天皇大權(條約大權)を輔弼して昭和五年四月二十二日、『ロンドン海軍軍縮條約』に調印したことについて、同月二十五日の衆議院本會議で、政友會總務鳩山一郎が政府(濱口雄幸首相)を攻撃する演説をしたことに始まり、同日、軍部が、これを統帥權の干犯であるとして政府を攻撃し、濱口雄幸首相が、同年十一月十四日、東京驛で佐郷屋留雄(愛國社)に狙撃され重傷を負ひ、翌年死亡するといふ事件にまで發展した、いはゆる「統帥權干犯問題」の議論の中にこそ、その根本的課題が含まれてゐたのである。

理論的に考察すると、濱口首相には、軍部や政友會らの指摘した意味での統帥權干犯の行爲はなかつた。しかし、濱口首相には、別の意味で統帥權干犯をしてゐたのである。そのことは、當時の樞密院議長であつた倉富勇三郎の日記(文獻343)から讀み取れるのである。倉富樞密院議長は、ロンドン海軍軍縮條約案の諮詢に際して、濱口首相に對し、條約案の審議をするために必要なものとして、これに先だつてなされた軍事參議院の諮詢の結論である奉答書の提出と、海軍軍令部長加藤寛治の出頭を求めてゐた。しかし、濱口首相は、これを頑なに拒否して、樞密院での充分な審議を妨げた。加藤軍令部長はこの條約に反對であり、奉答書にはこの條約のもつ重大な問題點を指摘したゐたからである。軍事參議院は、明治三十六年の『軍事參議院條例』によつて、天皇の統帥及び編制等の重要軍務に關する諮問機關として帝國憲法下の軍務法制に基づくものであり、樞密院は、帝國憲法第五十六條によつて天皇の諮詢に應へ重要の國務を審議する機關である。それゆゑ、濱口首相は、ロンドン海軍軍縮條約を締結したこと自體をもつて廣義の統帥大權(編制大權)を干犯したといふことはできないが、その條約が編制大權を制約する結果となる性質であることから、樞密院による愼重な諮詢を必要とするにもかかはらず、樞密院を輕視して手續規定を形骸化し、その實質審議を妨害した點において、廣義の統帥大權(編制大權)干犯といふ憲法違反を犯したことの責を免れないのである。

そして、この統帥權干犯問題は、その後に天皇機關説論爭(昭和十年)へと飛び火し、遂に「密教」による「顯教」への逆襲は完成する。美濃部はこのとき、「統帥大權の作用が國務大臣の責任の外におかれることは・・・不當にその範圍を擴張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て國政を左右し、軍國主義の弊極まるところなし」と主張したが、後の祭りであつた。

そもそも、この統帥權干犯といふ議論は、大正元年八月、大正二年四月、大正十四年五月と、三度に亘る陸軍軍縮や、大正十年のワシントン會議の海軍軍縮會議においては全くなされず、このロンドン海軍軍縮條約だけが議論されるといふ一貫性のないものである。しかも、これは、統帥權の問題ではなく、軍の編制權の問題であり、しかも、この編制大權を干犯したとするのであれば、その干犯の張本人は、同じく天皇大權であるところの條約大權(第十三條)であるといふ視點が誰にもなかつたのである。

附言するに、天皇機關説は天皇機關説論爭といふ茶番の政爭によつて政治的に敗北したが、このことは反射的に天皇主權説の勝利を意味することにはならなかつた。それは、既述の『國體の本義』によつても明らかである。これは、昭和十二年五月に文部省が刊行したものであり、正式な政府見解であつて、天皇機關説論爭の終結から約二年後、二・二六事件發生から約一年後のことである。それゆゑ、もし、天皇主權説が政治的に勝利したのであれば、『國體の本義』の記述は天皇主權説に基づくものでなければならないが、『國體の本義』はこれを明確に否定した。すなはち、「天皇は、外國の君主と異なり、國家統治の必要上立てられた主權者でもなく、智力・德望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」として、天皇は「主權者でもなく」とするのである。主權論が合理主義(理性論)の産物であることを認識して主權論を明確に否定し、それが政府の正式見解(有權解釋)となつたのである。つまり、天皇機關説は政治的には敗北したが、憲法學的には勝利したのである。

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