國體護持總論
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二・二六事件の收拾處理

まづ、二・二六事件の收拾處理について、その叛亂鎭壓を口實としてもう一つのクーデター、すなはち、緊急敕令による戒嚴令の渙發下での新たなクーデターの可能性があつたのではないかといふ點を檢討したい。

そもそも、二・二六事件の鎭壓のために戒嚴令が必要不可缺か否かについては、政府、軍部内にも意見の對立があつた。しかし、この問題については、史實はともかく、クーデター(未遂)といふ緊急事態に對して、帝國憲法はどのやうに運用されるべきかといふ國法學的課題として捉へる必要がある。

前に述べたとほり、陛下が「朕自ら近衞師團を率ひ、これが鎭定に當らん」と仰せられたことから緊急敕令(第八條)によつて戒嚴令(第十四條)が施行されるに至つた一連の事態は、極めて專制君主的であり、かつ天皇親政による運用がなされたことになる。確かに、緊急敕令による戒嚴令は、形式上はあくまでも帝國憲法に基づいて立憲的に渙發されたことになるが、そのことから直ちに、これら措置が「天皇の側からのクーデター」のやうな非立憲的措置ではなく、反立憲的、憲法破壞的な二・二六事件の鎭壓を立憲的に行つたことになると斷言できるのであらうか。

なぜなら、陛下は、『昭和天皇獨白録』(文獻177)にもあるやうに、樣々な時期においてクーデターを懸念されてゐた。そして、その最大のものが二・二六事件であり、專制君主的措置がなされたのもこのときが初めてである。さらに、二・二六事件の蹶起將校である安藤輝三大尉か誰かが處刑のとき、「天皇陛下萬歳」ではなく、「秩父宮殿下萬歳」と唱へたことや、その後の統帥人事においても、二・二六事件に心情的理解を示した軍人を疎まれたことなどから、この機に乘じて陛下を排除しようとする勢力に對抗するための防御的な「天皇の側からのクーデター」として、緊急敕令や討伐命令が渙發されたと推測することも不可能ではない。

そもそも、過去におけるクーデターの成功例は、壬申の亂のやうな特殊な事例を除いて、全て「玉」を擁した錦旗行動であつた。幕末のとき、薩長の藩士たちは天皇を將棋の「玉」に喩へてこの「玉」の爭奪を畫策し、それを成功させたのである。このことからして、二・二六事件が失敗した最大の原因はこの「玉」の問題であつた。つまり、叛亂軍は、中橋基明中尉による近歩三(近衞歩兵第三連隊)の部隊をして、これを赴援隊と詐稱して皇居(宮城)に入れ、守備隊本部を占領し、坂下門を閉鎖して重臣や要人の參内を拒んで天皇を擁し、もし、そのクーデター目的を達成するための敕令が渙發されないときは天皇を弑逆することもやむを得ないといふ計畫を立ててみたものの、その重要性を全く認識せず呆氣なく失敗に終はつてゐる。これではクーデターが成功するはずはなかつた。そして、この計畫とその失敗についても、幻の『陸軍大臣告示』のやうに、「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ」であらうから、これが叛亂軍による秩父宮擁立の噂と重なることもあり得たからである。

帝國憲法には、專制君主的な色彩のある規定と立憲君主的な色彩のある規定とが併存してをり、制定當初からの解釋運用が變遷してきたことは前述のとほりである。しかし、帝國憲法が立憲君主的な憲法であつたことは、帝國憲法の制定過程からして明らかであつた。すなはち、『帝國憲法草案』が立案された際、この草案第四條(帝國憲法第四條と同じ。)の審議において、絶對君主制を強調し天皇大權は憲法以前の存在であるとする立場から、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」との規定のうち、「此ノ憲法ノ條規ニ依リ」との部分の削除を求める主張がなされたのに對し、伊藤博文は、この規定を立憲君主制移行への根據規定として説明し、この削除の主張を退けた經緯があつた。このことは、法形式の靜的觀點から帝國憲法を判斷した場合、二つの異なる理念を持つ矛盾した規範といふことになるが、「規範は自らが豫定してゐる方法で進展する」との「動的規範」の觀點からすれば、帝國憲法は、絶對君主(專制君主)から立憲君主へと進展するための規範であつたことになるからである。

それゆゑ、それぞれの天皇大權がどのやうな状況においてどのやうな要件に基づいて行使されるかは、時代の變遷とともに流動的であるとしても、國家緊急權の發動における緊急性の要件を以て制約されてきたことは確かであつた。

それは、平時における法體系と非常時(戰爭、内亂、大災害など)における法體系といふ適用事象の守備範圍を區分する法體系二元論の芽生えであつた。そもそも、平時と非常時(有事)とでは、價値體系、價値の優先順位を異にする。平時では言論により「話せば解る」と信じて説得できたものが、非常時(有事)には「問答無用」として命を奪はれる結果にもなる。戰爭や内亂や大災害は、「民主的」に起こるものではなく、言論の自由、表現の自由などは、平時においては最大の尊重を必要とするのは當然のことであるが、多くの命が奪はれるか否かの國家的な緊急事態のときに、これらの自由の主張は虚しく無力であり、内亂勢力の集會結社の自由の保障は、國民の生命、財産の喪失と直結するものであるから、價値體系が平時の場合と非常時の場合とでは全く異なる。

法體系といふものは、法的保護に値する價値の體系に基づいて構築されるものであつて、平時における價値體系と非常時における價値體系がそれぞれ異なるのであれば、自づとそれぞれの法體系の守備範圍を異にするのは當然のことである。また、非常時においては、民主制の原理で愼重な審議を經て決議するといふ手法では時機を逸する事態となり得るのであつて、決議とその實施には迅速性と機動性が要求される。

ここに、民主制、立憲制の根本體制を維持・擁護するためのものとして、その權限の範圍及び事項竝びに期間等を限定した「委任的獨裁」が、その必要性の所産として登場するのである。つまり、たとへば占領憲法のやうに、國家緊急事態に對應する規定を全く持たないものの規範領域は、平時に限定され、非常時に關しては規範領域外となり、超法規的措置がとられる領域となる。そして、人權條項を含む全ての條項には、明文規定はないものの、「ただし、戰時(非常事態時)の場合を除く。」といふ但書があることになる。

以上の樣々な考察からずれば、二・二六事件の收拾處理における戒嚴令の發令は、それが明らかに戒嚴大權(第八條、第十四條)の行使における緊急性を滿たすと判斷される場合であるから、その措置は帝國憲法に適合し合憲であると判斷されることになる。すなはち、戒嚴令の根據となる帝國憲法の規定は、國家緊急時における暫定的な委任的獨裁を定めたものであり、未曾有のクーデター未遂事件である二・二六事件の終息處理のためになされたものであることから、まづ、形式的には何ら問題はない。また、實質的にも、戒嚴令發令前においては二・二六事件の全容が解明できてゐない状況であり、この發令を必要とする目的が、事件背後にゐる首謀者、加擔者、協力者などの有無とその探索、追随勢力の動向を阻止するなどの豫防的かつ保全的なものであり、かつ、緊急を要するものであつたこと、また、天皇の側近である本庄繁侍從武官長までもが叛亂軍に共感を示すなどして危機意識に對する緩慢な認識が政府首腦に蔓延してゐることなどから當然に必要な措置であつたことになる。そして、事件の處理後には速やかに解除され、戒嚴令解除後の政府行爲や民生の状態は、戒嚴令發令前の状態に復歸してゐることからして、この戒嚴令は、緊急性の要件を滿たし、かつ、必要性、相當性においても正當であることは明らかなのである。

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