國體護持總論
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著書紹介

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國家における祭祀と統治

このやうな宗教團體と宗教法人、さらに營利法人の性質を踏まへて、國家の性質を考察すると、そこには相似性があることが解る。國家の成り立ちについては、氏族、部族が集合して自然に形成され國體の繼續を肯定する國家(傳統國家又は自然國家)と、これらを否定して建設された國家(革命國家)とに分類しうるが、ともに國家であることからすれば、國民や領土などの國家の唯物的な「屬性」、すなはち、財務的要素がある點において共通するものの、傳統國家(自然國家)には、神話や民族信仰などによる祭祀的要素が存在するのに對し、革命國家には、このやうな祭祀的要素がない。革命國家は、後述する社會契約説や革命理論などの理性論(合理主義)で組み立てられた理念的要素に建國の存在意義を見出し、これまでの國家に存在してゐた祭祀的要素を捨て去るのである。そして、その理念的要素は、國家統治の制度的な規範に置き換へられ、究極的には財務的要素に收斂されていく。そのことからして、傳統國家は宗教團體に、革命國家は營利法人に、それぞれ相似するといふことができる。

そして、傳統國家にも、神話の時代から現代に至るまで歴史的に斷絶のない「眞正傳統國家」と、神話の時代から現代に至までの間に歴史的な斷絶がある「不眞正傳統國家」との區分があるが、眞正傳統國家の典型例である我が國においては、神話の煙る傳統と文化が織りなした文化國體や、その中から抽出された規範的要素としての規範國體に含まれるものの中で、憲法典その他の成文規範では表現されてゐない主要な部分に、この祭祀的要素があり、成文規範で表現できる部分は、財務的要素を含む統治部門となる。つまり、成文化しえない祭祀部門と成文化しうる統治部門とが存在し、この祭祀と統治の區分は、寶鏡奉齋の御神敕(資料二2)における「齋」と「政」の辨へ(齋政の辨へ)に由來する。そして、これは、「聖」と「俗」の區分、「祭」と「政」の區分、そして「王」と「覇」の區分(王覇の辨へ)の原型として、これらとは相似的な雛形構造となつてゐる。

「齋之爲言齊也(齋の言爲る齊なり)」(禮記)といふ言葉がある。これは、「修身齊家治國平天下」の「齊」(ととのふ)の文字は、祭祀を意味する「齋」(いつき)が語源であることを説いてゐる。「齋」に「示」の文字があるが、これは、祭壇の象形であり、そこに神の心が示されるからであつて、「齊家」のためには、祭祀(齋)が不可缺であるといふことである。そして、それは、「修身」においても、「治國」においても、「平天下」においても祭祀(齋)が同様に不可缺である。つまり、「修身齊家治國平天下」のいづれの事象においても祭祀が不可缺であり、入れ子構造(雛形構造)になつてゐることを意味してゐる。平田篤胤も、「玉たすき 掛けて祈らな 世々の祖(おや) おやのみおやの 神のちはひを」とか、「いさこども さかしら止めて 現人(あらひと)の 神にならひて 親をいつかな」として、祭祀が雛形構造であることを説いてゐるのである。

このやうに、祭祀は、民俗祭祀から天皇祭祀に至るまで、國家と社會全域を遍く包み込む。そして、祭祀の雛形構造からしても、「平天下」、つまり世界全體も同樣に祭祀に包み込まれてゐるのであつて、「すめらみこと」とは、世界の祭祀主宰者なのである。

ともあれ、この祭祀の重要性を認識したとき、どのやうにこれを制度化する必要があるであらうか。これについて、忠實無二の者と評された井上毅は、このやうな祭祀の重要性を自覺するがゆゑに、帝國憲法(資料十二)、明治典範(資料十一)、『教育ニ關スル敕語(教育敕語)』(資料十三)、軍人敕諭(資料十)などの成文規範の中に、祭祀部門に屬する記述を極力避けた。成文化されたものは、統治の運用の中で必ず俗化し、その神聖さを損なふと畏れたからである。聖なるものは不文の姿であり、その影繪を描寫して成文化することは、その稚拙な表現の細部に亘つて解釋論爭が生じて必然的に俗化する。それゆゑ、あへて聖なるものを成文化する場合には、必要最小限度に留め、極力その概要のみを示す抽象用語を使用することによつて論爭的俗化を防がうとする智惠を持つてゐたのである。それゆゑ、帝國憲法などの聖なる箇所には、「皇祖皇宗」、「萬世一系」、「神聖」など、その影繪の輪郭を一義的に確定し得ない抽象的表現が用ゐられた。天皇祭祀など眞に聖なるものは決して成文化されない。正統典範もまた、成文化することによる俗化の畏れがあつたが、立憲國家の皇統護持のために、必要最小限度において明治典範などが制定されたものの、天皇祭祀などの聖なるものは決して成文化されなかつたのである。

この「聖俗の辨へ」は、王覇の辨へと相似する原理であり、『古事記』や『日本書紀』にある寶鏡奉齋の御神敕がその原型である。聖俗の辨へは相對的なものであり、自己の兩親から祖先へと遡り、皇祖皇宗、八百萬の神々に至るまでの方向が聖なる方向であり、祖先崇拜の彼方に神佛崇拜を投影することが、信仰の雛形構造である。八百萬の神々とか、悉有佛性といふのは、自己の個體の生命が兩親から、そして祖先から受け繼がれた生命と家産の世襲が連綿と續く雛形構造を示す言葉である。

「遺體」といふ言葉がある。これは、本來は「死體」(なきがら)を意味するのではなく、祖先から連綿として受け繼いだ自己の「身體」(わがみ)のことである。人は、祖先からの命の受け皿である「遺體」と、家族の生活基盤として維持されてきた家産(身代)を受け繼ぐ。この家産を「遺産」といふ。つまり、人は、「遺體」と「遺産」を祖先から受け繼ぎ、そしてそれを子孫に受け繼がせて行く。これが國家の祖型としての「家族」のあり方なのである。人には、それぞれ兩親があり、その兩親にもそれぞれに両親(祖父母)があり、その祖父母にもそれぞれ兩親(曾祖父母)があつて、それを連綿と二十六代まで遡つただけでも、祖先の總數は一億三千四百二十一萬七千七百二十六柱となり、我が國の現總人口(平成二十一年三月三十一日現在、一億二千七百七万六千百八十三人)を超える。これほどまで多くの命を受け繼いで今がある。そして、そのいづれかの祖先に、世界の祭祀主宰者であるスメラミコトの御宗家(皇祖皇宗)とのご縁を戴いてゐるの確信のもとに、君臣の辨へを自覺する。


ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち


この尊さを理解せず、祖先崇拜を否定したり疎かにする宗教は、雛形構造を破壞するために自壞する運命にあるといへる。

これまで、國家の分類として、君主制と共和制、君主制にも世襲君主と新興君主に區分するなどの分類があつたが、これらは、いづれも祭祀の有無に着目したものではない。君主國家と雖も祭祀部門がない國家は、傳統國家ではない。祭祀主宰者でない者が權力を以て統治主宰者となつた國家といふのは、革命國家に分類されるのである。

このやうな分類によると、我が國のやうな真正傳統國家には、「祭祀」と「統治」の二つの部門があり、これらが一體となつて國家が成り立つてゐることになる。「國」の字義は、四角い圍ひの區域にある人と領土といふ統治的意味であり、「家」の字義は、祖先から子孫へと引き繼がれて行く家族の生活の場を示す祭祀的意味が含まれてゐることからしても、祭祀と統治とで「國家」なのである。そして、國家においては、祭祀權能は國家の「正統性」を根據付け、統治權能は國家の「合法性」を根據付けるといふ、まさに車の兩輪となる。このことも宗教團體と宗教法人との關係の場合と同樣である。この統治部門とは、祭祀部門以外の全ての事項であり、財政、税務などの財務事項のみならず、統治機構事項や國民の權利義務事項など、統治と國民との關はりに關する廣義の意味で統治部門である。そして、祭祀部門とは、雛形構造となつてゐる國民の各々の家族、氏族、部族、團體などの「部分社會」がなす祭祀(民俗祭祀)とその國民の宗家がなす祭祀(宗家祭祀。我が國においては天皇祭祀)を中心とする文化國體に關はる領域を指す。

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