國體護持總論
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著書紹介

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雛形と偶像崇拜

我が國においては、祖先崇拜、祖先祭祀、自然崇拜、自然祭祀による家族祭祀が擴大して氏神、産土神、鎭守神の崇拜と信仰、民俗祭祀となり、それがさらに擴大して國家祭祀(天皇祭祀)となつてゐるのであつて、典型的な雛形構造を有してゐることになる。これが、日本書紀卷第九の神功皇后攝政前紀仲哀天皇九年十月の條に初めて言葉として登場する「神國」の本義であり、「大日本(おほやまと)は神國なり。」の書き出しで始まる『神皇正統記』(北畠親房)の矜恃である。

しかし、諸外國においては、必ずしも祭祀の雛形構造が維持されてゐない。祖先祭祀を否定したり疎かにしたりして、輪廻轉生を否定する社會となれば、それは「神國」から益々遠退いて、祭祀の雛形構造に歪みが生まれたり崩壞することとなつて、必然的に紛爭が絶えないことになる。

ハイデッガーは、古代ギリシャの哲學者であるヘラクレイトスが用ゐた「エートス(親しくあるもの)・アントロポイ(人間)・ダイモーン(ギリシャの神々)」、つまり、「人間にとつて親しくある場所は神の近くにゐることである」といふ觀念を説いたとされるが(文獻287、288)、これは、祖先崇拜を否定して雛形構造を無視した隔絶的な絶對神を認めない立場であつて、まさに齋(いつき)の理念の古神道である。雛形構造からくる古神道による自然崇拜は、偶像崇拜へと發展する。修理固成の御神敕は、人工物もまた自然物であることを示すもので、自然崇拜の雛形が偶像崇拜であり、これらは一體のものである。そして、その偶像が美しいものであればあるほど限りなく自然崇拜と一體化する。人が「美しい」と感じるのは、それが自然の雛形であるからである。古來より黄金比(黄金分割)が人にとつて最も美しく安定してゐるとされるのは、それが無限大へ、あるいは無限小へと連續的にその比率を保つてゐる雛形の比率であるからである。つまり、美しいのは、雛形の調和が保たれてゐる場合であり、それが崩れれば醜くなる。美醜の區別とは雛形調和の有無による。それゆゑ、美しい偶像は、眞理の雛形なのである。

ところが、世界宗教とされるキリスト教やイスラム教などは偶像崇拜を否定する。偶像崇拜否定の根據のひとつとされるのが「バベルの塔」の物語である。人類統合の象徴としてのバベルの塔が天に達する巨大さであつたことから、その僭越がヤハウェー(主)の怒りを買つて、それまで一つであつた人の言葉が混亂して互ひに通じなくなり、工事は中止され人々は各地に散つたとする物語であるが、これが人類と傲慢を戒め、言語に多樣性があることの説明として理解されるのであればまだしも、もし、人類の統合を阻み、分裂と對立を神が望んだとすれば、その神は滅びの神である。雛形構造(フラクタル構造)を破壞すれば人類は滅亡することしかない。祖先祭祀、祖先崇拝、自然崇拜、偶像崇拜といふ一連の雛形構造を否定することは、人類の統合を弱めて分裂と對立への道を歩むことになる。

しかし、偶像崇拜を否定したところで、やはり、十字架などの圖形崇拜、聖書、コーランなどの教典崇拜、特定地や特定物への巡禮などの聖地崇拜、文字繪の常用など、これらは結局のところ偶像崇拜の變形にすぎず、これらに依存して、雛形構造をなんとか維持しようとするのである。ただし、特に、教典崇拜の場合は、その崇拜對象の教典などの内容が精緻かつ膨大な量となればなるほど俗化の促進は否めない。つまり、文字で書かれたものは、その内容の解釋が施されることによつて俗化する。本質的なもの、聖なるものは文字で表現してはならない。表現したときから俗化が始まるからである。これは、先に述べた井上毅の洞察のとほりである。これは、偶像の形質から受ける「感性」と教典の文字から導かれる「知性」との相違である。雛形構造とは形質構造であり、聖なるものは、その形質から受ける感性に宿るのであつて、文字による知性は俗なるものである。

この聖と俗の區別は、貴と賤(卑)の區別、富と貧の區別、美と醜の區別と同樣であつて、すべて雛形調和の有無によるものである。大和言葉では、「はれ(晴れ)」と「け(褻、穢)」の區別であり、この聖俗の區別は、王覇の辨へに通ずる國家の大本である。

アインシュタインは、晩年に知人の哲學者に對する手紙で、「宗教は子供じみた迷信」であると宗教に否定的な考へを示してゐたことが明らかになつたが、他方で、神の造形し單純簡素で美的なものであるとの信念で自己の相對性理論といふ假説を主張し、さらに、「神はサイコロ遊びをしない」として量子力學の確率的解釋を否定してゐた。アインシュタインのこれらの言動を統一的に解釋すれば、神を肯定しつつ宗教を否定したといふことになる。これは、神の活動が天地創造の場面に限定され、創造後の世界は、神の定めた自然法則に從ふだけで、世界の自己展開に神は干渉しないといふ啓蒙時代の宗教思想である「理神論」(合理主義的・自然主義的有神論)に依據した見解に近いのかも知れないが、少なくとも、信仰は聖なるもの、宗教は俗なるもの、といふ感覺を代辯してゐると思はれる。

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