國體護持總論
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著書紹介

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本能論と理性論

有機的で總合的な人の精神活動を理性のみを重視して、分析的に解明しようとする試みは、朱子學もさうであつたやうに、非科學的であり必ず破綻せざるを得なくなる運命にある。これと同樣に、自己が編み出した觀念論とは全く隔絶して欲望の赴くままに生きたルソーの思想や、「個人の尊嚴」を振りかざす現代人權論が根ざしてゐる合理主義(理性論、理性主義 rationalism)は、理性を善とし本能を惡とする單純な二元論であることから、その非科學性によつて破綻するのは當然の歸結である。

まづ、前に述べたとほり、この合理主義を貫くと、身分關係を契機とした相續などの世襲制度や扶養などの家族制度は、理性的に獲得したものではない「婚姻關係」や「血縁關係」に基づくものであるから、完全に否定されなければならなくなる。

しかし、現代人權論を唱へる學者や政治家、それに社會活動家は、誰一人として前述したルソー流の透徹した合理主義による主張をしない。それは、己を欺き人を欺くルソーの人格と同じ人格を持ち合はせてゐるためである。

そもそもこの合理主義といふ考へ方自體が根本的に誤りであり、長い間人類を不幸に陷れた元凶であることは後に詳述するが、合理主義に毒されると、理性による結論に對して感覺的に違和感を覺え、これが誤つてゐると感じても、合理主義に根ざす限り、それを論破することはできなくなる。

そもそも、この合理主義は、科學的な手法を用ゐて誕生したものではない。合理主義は、科學(自然科學、社會科學)ではなく、非科學的な「宗教」である。つまりら、科學とは、おおむね二元論と要素還元論による分析的思考といふ手法の枠組みを利用して發展したものであるが、合理主義はさうではない。つまり、物事の本質を全體的、總合的に捉へることが不可能な場合、全體としての物事を構成するいくつかの具體的な細部(ディテール)に分類し、さらにその各部分がそれぞれ成立しうるためのいくつかの要素に分解し、その分解された要素に該當するか否かの二元的思考を經て、全體としての本質に迫らうとする手法である。その前提として、多くの實驗事實(情報)を收集、整理、分析して體系化を試み、それによつて立てられた假説にこれまでの實驗事實を當てはめて矛盾がないかを判定し、もし、矛盾が生じれば、また新たな假説を構築して檢證し續けていくといふ試行錯誤によつて、その假説が普遍性を持つと確信するまで探求する手法が科學的手法なのである。

しかし、プラトン哲學からの歴史を刻んできたこの合理主義といふ假説は、そもそも實驗事實そのものが存在せず、しかも、この假説に矛盾を含むか否かの檢證が一度もなされたことがないものであつて、現代の動物行動學(エソロジー、ethology)、心理學、腦科學などからすると、合理主義の假説が破綻してゐることは以下の理由からして明らかである。

まづ、合理主義の第一の誤謬は、本能(感覺、情動、感性)と理性とを峻別し、あるいは理性から悟性を抽出して區別するなどして、本能と理性とを對立相克した關係と捉へた點である。現代における腦の科學的研究からすれば、活動と靜止、興奮と抑制、擴散と収束、溶解と凝縮、緩和と緊張などを有機的に統括するのが腦であつて、その機能の態樣である本能行動と理性とは、それぞれが「孤立系」の存在ではなく、一體としての「開放系」であることになる。

ここで、孤立系とは、物理學の概念であるが、ある部分に物質(粒子)もエネルギーも外界と交換しない物質系のことであり、開放系とは、これらのいづれも相互に交換される物質系を云ふ。そして、この兩者の中間の形態には、「閉鎖系」といふものがあり、これは物質は交換しないがエネルギーの交換がなされる物質系である。この分類によると、生體は、開放系ではあるが、安定した定常状態、つまり、動的平衡を保つ獨立した物理系であるから、より閉鎖的な體系といへる。そして、腦は、その一部であるから、生體内においても、腦全體として、生體と相似した閉鎖的體系である。つまり、腦の組織構造から判斷しても、理性と本能の線引きを機械的に行ふことは不可能である。むしろ、理性は本能の一機能と捉へられるべきで、理性の獨自性を認めることの根據に乏しいのである。

また、第二の誤謬として、本能を惡、理性を善とした點にある。人以外の動物にはなく、人のみに備はつた觀念的思考である「理性」を絶對視して、これに「適合」することが眞理であり、「本能」とか「傳統」といふものを猜疑的に捉へて、これらには價値を見出さない考へである。「本能」を惡とし、それを抑制して人を善導するのが「理性」であるとするのが「性惡説」である。尤も、荀子の「性惡説」は、本能(性)の本質を惡としたのではなく、人は環境や欲望によつて惡に走りやすい傾向があり、それを禮(規範)と教育によつて善に矯正できるとするものであるから、本能を惡とし、理性を善とする單純な考へではないが、歐米の合理主義(理性論)は、單純な意味での「性惡説」である。

しかし、「本能」が惡であり、それが生存にとつて妨げとなる缺陷機能であれば、人類のみならず生物の全ては、早々と自滅するか、自然淘汰されて滅亡してゐたはずである。本能は、生命維持の體系である。理性によつて生命が維持されてゐるのではない。我々は、理性を失つた者も生き続けてゐる事實を知つてゐる。また、理性的に人格を完成させた聖人であつても、本能機能を失へば身罷ることも知つてゐる。それゆゑ、當然に「性善説」が正しい。といふよりも、「性善説」は、單なる假説ではなく眞理そのものである。「性善説」を否定することは本能を否定することであり、自己の生存を否定することと同じである。本能が存在することによつて命が保てるのであるから、本來、本能は善惡といふ價値判斷以前の「存在」(Sein)である。本能自體の善惡を論じても意味はない。これは、地球の存在について善惡を論ずることの愚かさに等しい。我々の存在を根據付ける前提となる「本能」とか「地球」、そして本能から紡ぎ出される「規範國體」などは、「かくある」といふ存在(Sein)であつて、「かくあるべし」といふ當爲(Sollen)ではない。それゆゑ、善惡の判斷は、これらの存在を全うならしめることを善とし、さうでないものを惡といふのであつて、理性論によつて觀念的に作り出した道德などを基準として善惡を判斷してはならない。つまり、本能適合性のある行動が「善」であり、本能適合性のない行動が「惡」であるとする單純明快な基準である。道德その他の規範の個々の内容も、この本能適合性の有無によつて善惡・正邪が判定されるもので、本能適合性のない規範は、いかに理性的には肯定できても、それは誤りであるといふことになる。これは動物行動學による科學的な結論である。それ以外の別の價値基準で善惡・正邪を決定することは宗教や哲學であつて、そのやうな價値觀を導入して善惡を判斷することには全く科學性がないのである。

なほ、フロイトのやうに、人の精神構造を性本能(イド、リビドー)、自我(エゴ)、超自我(スーパーエゴ)に三分し、性本能(性衝動)のみを本能とし、快樂を求め不快を避けることだけを本能行動とし、本能とは剥き出しの「欲望」であるとしたが、その根底には、「本能は惡」であるとする禁忌の思想がある。ユングは、リビドーを生命エネルギーに置き換へたが、やはり本能を矮小化して、その解明にはほど遠いものがある。これらも假説の域を出ないものであつた。

この「本能」に關連して、「刷り込み」といふ言葉がある。これは、生まれて間もない時期に、接觸したり目の前に動くものを親として覺え込んで追從する現象のことである。たとへば、極端な例として、狼に育てられた人間の子供が、狼を親と認識し、その行動樣式も狼をまねて同じになるといふやうに、授乳期に自己に乳を與へる授乳者を親と認識してしまふといふやうな學習の一形態である。このやうな本能と學習の研究は動物行動學(エソロジー、ethology)と云ひ、ノーベル賞受賞學者のコンラート・ローレンツが比較行動學の立場から、それを科學的理論として確立させた。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃」は、理性論からすれば絶對的「惡」であるが、比較行動學からすると「種内攻撃は惡ではなく善である。」ことを科學的に證明した。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」(文獻104)であり、「本能は善」であつて、これを惡とする理性論は誤りであることを科學的に證明したのである。

「天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に率ふをこれ道と謂ふ。道を修むるをこれ教へと謂ふ。」(中庸)。これも本能は善であり、惡は理性の中にあることを説く。性善説とはこのことである。それゆゑ、前にも述べたが、善惡の區別と定義は、本能に適合するものを善、適合しないものを惡とすることになる。これによつて、合理主義(理性論、理性絶對主義)は完全に破綻したのである。

また、理性論の崩壊は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」からも證明された(文獻250、327、328)。「自然數論を含む歸納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を證明できない。」ことを數學基礎論から證明したものであるが、形式論理學でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などが適用される無矛盾の領域は、全事象を網羅することにおいて完全ではない(不完全である)ことを證明したことになる。このことによつて、彼が晩年になつて、不完全な論理學や數學から哲學の世界に完全性を求めて傾倒し、精神を病んで死に至つたのは、理性論の破綻を寓意したものかも知れない。

ともあれ、このコンラート・ローレンツの理論を我が國では、戸塚ヨットスクールの校長である戸塚宏が取り入れ、「腦幹論」としてさらに發展させて實踐し、これまで數へ切れないほどの多數の情緒障害兒などを教育的に矯正改善し、プラグマティズム的にその實踐理論の正しさを歸納法的に證明して見せた。理性論によるカウンセリングなどでは改善不可能な事例についても、戸塚はその實踐教育によつて治癒してきた。あたかも、理性論的處置に見放された者の驅込み寺の樣相を呈したのである。これは、これまでの合理主義的な教育理論を根底から覆すものであつた。

この「腦幹論」とは、腦幹が下意識、邊縁系が本能、新皮質が理性をそれぞれ司るとし、これらは重畳的かつ連續的な關係にあり、腦幹の歪みは本能、そして理性を狂はせるとする「科學的假説」であつて、合理主義的信仰とは無縁のものである。そして、この假説を證明するために、登校拒否や非行、無氣力などの「情緒障害兒」を教育的に矯正するには、理性論に基づいて論理で説得しても不可能であり、腦幹の矯正、本能の強化を目的とした訓練によつてのみ實現できるとして、その實踐を試みた(文獻116、285、330)。

これまでのやうな理性論では、學級崩壞などの教育現場の混亂を全く解決することができなかつたことを踏まへれば、理性論には少なくとも限界と矛盾があるとの科學的謙虚さが必要である。腦の科學的解明とは無縁のものとして、觀念だけで構築された理性論は、少なくとも科學的知見ではないことだけは確かである。科學的知見や根據に依據しないものは、假説といふよりは信仰である。理性論と腦幹論のいづれが正しいのかについては、これからもさらに探求する必要があるが、何よりも教育の實踐理論として必要なものは、具體的な教育現場において、そのいづれの方が、より良い效果、より多くの成果を上げるかといふ實績で判定せざるをえないし、また、それで充分である。

この問題は、原因不明の場合の對處法における演繹法と歸納法の違ひでもあり、それは脚氣の原因が不明であつた時代での陸海軍の對處の相違と同じ構造を持つてゐる。日清戰爭においては、帝國陸軍では白米食とし、副食代を現金で支給したために、將兵の殆どは、支給された現金を困窮する家族への仕送りに廻して副食を攝取しなかつたことから、四千人の脚氣による死亡者が出たが、海軍では玄麥食としてゐたことから脚氣による死亡者が皆無に近かつた。さらに、日露戰爭でも陸軍の脚氣による死亡者が急增したことから、醫學會を含めた大論爭となつた。海軍軍醫總監であり、東京慈惠會醫科大學創立者であつた高木兼寛は、歸納法的視點から脚氣の原因が白米食であると主張したのに對し、陸軍軍醫總監であつた森林太郎(森歐外)は、演繹法的視點から脚氣細菌説を頑強に主張し續けた。脚氣の原因は、玄米の糠層と胚芽に多く含まれてゐるビタミンB1の不足が原因であり、それが判明したことにより脚氣論爭はやうやく決着したものの、日露戰爭の將兵のうち約二萬七千八百人もの脚氣による病死者(脚氣患者二十五萬人。戰死者約四萬七千人の中にも多數の脚氣患者が含まれる。)を出した最大の原因は、森鴎外の頑迷なる細菌説といふ演繹論的教條主義にあつたのである。そして、この演繹論的教條主義は、まさに現在の教育論を支配してゐる合理主義と同樣であり、際限なく合理主義教育や平和教育で毒されて本能を退化させた兒童生徒の患者を增大させてゐる姿と相似してゐる。

このことからしても、演繹的教育論(合理主義教育論)は、歸納的教育論(本能強化教育論)が正しいことになり、この合理主義教育に異を唱へた戸塚は、その科學的手法に基づき、あまりにも多くの良い成果と實績を上げすぎた。「俺なら少年犯罪者を矯正して見せる。」との戸塚の自信とその表明には、それなりの充分な根據があつた。しかし、既存の教育關係者ではそんな自信は無く、しかも、自信がないことを告白することは自己の權威を失墜させ自己否定することになるので口が裂けても言へない。そのことが彼らの嫉妬と怨嗟と危機感を煽り、戸塚の理論とその實踐成果を葬り去ることが企圖された。それが、戸塚らの逮捕に始まる、いはゆる「戸塚ヨットスクール事件」といふ「國策捜査」の發端であつた。この事件は、理性論が本能論を彈壓するために仕組んだ戰後初めての事件と評價される。

學校や兒童相談所はもとより、教育學者やカウンセラー、心理學者などの評論家では、あゝでもない、かうでもないと能書きを垂れ、「小田原評定」を繰り返すだけで、誰も少年犯罪者の病氣を直せない。少年の凶惡事件が起こるたびに評論家などがメディアに露出して解説と論評をするだけで、誰もその事件の再發を防止できない。却つて、そのアナウンス效果によつて、後續事件が發生するだけである。この負のスパイラルを阻止できるのは、合理主義を根底から否定して腦幹論を掲げる戸塚理論だけだつた。腦幹を鍛へ本能を強化すれば教育效果は高まり、しかも、犯罪性向は改善される。そのことは今も變はらない。否、むしろ、戸塚理論を教育と行刑に導入することは喫緊の要事なのである。

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