國體護持總論
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著書紹介

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本能強化教育

そして、人類全體に共通する一般の本能もあるが、それに付加して各民族ごとに特別の本能がある。おそらくそれは、使用言語の性質によつて人の思考や行動が規律されるとする言語相對説(サピア・ウォーフの假説)も認めてゐるとほり、わが民族においては、「やまとことのは」の持つ言靈による特殊な本能が備はつてゐるはずである。

いづれにしても、秩序維持のための規範の源泉は、秩序維持本能にあるのであつて、理性にあるのではない。自己保存本能を抑制するために理性による思考の産物として規範が生まれたものでもない。たとへば、種族保存のために異性に對する情欲や物欲をかき立てるのも本能なら、それを秩序維持のために抑制するのも本能である。理性からすれば、家族の者と他人とは區別せずに平等かつ公平に保護しなければならないが(汎愛)、それでも嚴然と區別して家族の者の保護を他人よりも最優先することになるのは本能によるものである。家族愛なるものは理性論からは導けないものであり、家族愛を否定することになる理性を抑へて家族を優先的に保護するが本能であつて、これに基づいて家族と社會の規範が成立してゐる。家族を守ることが規範となり、家族を保護せず遺棄することを法律で禁止するのである。このやうに、本能が理性を抑へて規範が形成されてゐるのである。決して、理性によつて本能が抑へられて規範が形成されたものではないのである。假に、家族と他人、男と女を一切區別することなく平等に取り扱ふことを命ずる極端な平等主義による法律が制定されたとすると、それは理性論によつて生まれた法律であつて本能に反する。この法律は本能に適合しない「惡法」であるから、そのやうな社會は不幸であり、この社會は早晩崩壞する運命にある。

それゆゑ、この本能の總體が規範を生み出す源泉となり、さらに、理性により複雜に細部に亘つて構成されて現代の規範となつたのである。本能と理性とは決して對立するものではなく、前述したとほり、コンピュータのハードとソフトの關係か、あるいは、基本ソフトと應用ソフトの關係に準へることもできる。また、自動車に喩へれば、本能といふのはアクセルで、理性がブレーキといふのではなく、アクセルもブレーキもハンドルもいづれも本能なのである。理性は、その運轉技術である。アクセルとブレーキ、それにハンドルの操作を本能によつて無意識に調整し、その行動を理性の働きで認識して行動するのである。

そして、民族國家の形成は、集團を形成し維持發展させる本能の發現であつて、民族必須の根本規範である國體(規範國體)は、やはり、禁忌、道德などの延長線上にあるものとして、やはり本能に由來することになる。

このやうな本能は、過去においては正常に機能し、家族や社會での躾けや教育などを通じて強化されてきたが、核家族化と極度の分業體制、相互不干渉と過干渉といふ極度の分化現象、そして、食の亂れと歪みなどによつて、現代社會においては、本能の機能低下、人類の退化、民族の劣化が進行してゐる。「男は男らしく、女は女らしく。」といふ「本能教育」を否定する思想は、人類が退化、劣化して行く徴表である。男は強くなれば優しくなれる。女は優しくなれば美しくなれる。そしてこれによつて男女共に凛々しくなる。これは本能の指標である。これを否定して男女が中性化すると、人類の退化、老化、劣化、そして滅亡への傾向を促進させることになるのである。

昨今の「少子化」といふのは、その前提に「劣子化」、すなはち、本來的に子孫に備はるべき民族の生命力が劣化してゐるのではないか。教養や德性は云ふに及ばず、戰前までの日本人の民度の高さと凛々しさを比較すると、現代日本人は、奢侈と拜金と快樂に溺れて教養と德性を低下させ、その民度が著しく低くなり、自堕落になつてきてゐることは明らかであり、民族自體が劣化してゐることこそが問題なのである。

その結果、親殺し、子殺し、凶惡犯罪、ニート、無氣力、出産意欲や育兒意欲の低下、政治家や公務員や會社經營者などの倫理感と規範意識の喪失、拜金主義の蔓延などといふ現代社會の病的現象が起こり續ける。

これを根本的に改善治癒させるためには、合理主義による「理性偏重教育」から脱却し、初等教育での「本能強化教育」による國體の基礎教育によつて民族の蘇生が行はなければならないのである。「命の大切さ」を教へるといふやうな理性教育は必要ではない。これは最も根源的な自己保存本能であつて、本能を強化すれば足り、わざわざ教へる必要はない。むしろ、それよりも高度な「命を捨てて家族、社會を守る」といふ種族保存本能などを覺醒させる必要がある。畏敬の念や惻隱の情などは、本能を強化すれば自然と生まれてくる。それが本能の神祕さでもある。社會集團の中で生きることの修養がなければ情操は育たない。この修養には、災害その他有事の際にも對應できる「教練」を取り入れることが必要である。そして、この修養と一體となつた情操教育といふ土臺をしつかりしなければ、その上に築く理性教育は壞れやすい。これは殆どが小學生までで決まる。この本能強化教育を實現できるのが戸塚宏の教育理論であり、その教育改革は、實踐に裏打ちされた重みがある。

教育において、知育は必要であるが、大正期から始まつた知識教養の偏重による「教養主義」は排除されなければならない。教養主義は、知識教養の增大を人格の「進歩」と錯覺する合理主義に他ならないからである。偏差値教育による偏差値秀才では智惠と德性を備へることができない。「知識」は理性であり、「智惠」は本能である。知識だけでは生活はできない。智惠がなければ德性が磨かれない。知識と智惠とは方向性が異なる。たとへば、「猿も木から落ちる」といふことを知識として教へれば、それは「萬有引力の法則」といふ物理學の理解に留まる。しかし、これを智惠として教へると、慢心を戒める生活の教訓となるといふことである。吉田松陰は、「空理を玩び實事を忽(ゆるがせ)にするは學者の通病(つうへい)なり」(講孟餘話)とし、「井を掘るは水を得るが爲なり。學を講ずるは道を得るが爲なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、學とするに足らず。因て知る、井は水の多少に在て、掘るの淺深に在らず。學は道の得否に在て、勤むるの厚薄に在らざることを。」(講孟餘話、安政三年五月の第二十九章 文獻7)とする。『論語』には、孔子(夫子)の高弟である曾子が「夫子之道、忠恕而已矣」(夫子の道は忠恕のみ)とある。この「忠恕」とは、「忠」が「まごころ」、「恕」が「おもひやり」を意味し、その「道」とは、つまるところ自己愛、家族愛、郷土愛、そして祖國愛の實踐である。それゆゑ、教育ないしは教學の目的は、井戸の深さ(知識教養の深さ)を求めることにあるのではなく、これを手段として、すべてを包み込む忠恕の水の多さ(祖國愛の深さ)を得る求道にある。

しかし、この理論を現在の教育界で採用すれば、これまでの戰後教育(占領教育)體制は崩壞し、それに巣くふ占領教育學界の利權は吹き飛んでしまふ。それゆゑ、どうしても組織維持と保身のために、今もなほ國賊どもは、口先だけの「教育改革」を喧しく唱へて衆目をそらし、戸塚理論の封印を畫策してゐるのである。本質論に迫らない小手先だけの「教育改革」を唱へ、選擧で衆愚な支持を得て當選したからと云つて、それが眞理であるはずもない。眞理は多數決で決まるものではないのである。

このやうに、本能といふものは、生命の根源であつて、本能を「惡」とすることは本末轉倒であり自己否定であることが理解できる。「善」とは、自己保存と種族保存を實現し秩序の維持が實現できる方向であり、「惡」とは、自己保存と種族保存を否定し秩序を破壞する方向のことである。すべての道德や規範は、この方向性で決定付けられる。繰り返し述べるが、善惡の區別と定義は、「本能適合性」で決まるのであつて、それ以外の區別と定義は悉く恣意的なもので誤りである。

そもそも、人の行動は、本能に制御されてゐるが、決して短絡的な欲望に基づき、それが快樂を感じるか苦痛(不快)の念を抱くかといふ「快不快」の基準で決定するのではない。快と不快との兩立、苦痛を伴ふ快感、快感を得るめに苦痛に堪へるといふ複雜系の判斷と行動も本能に組み込まれてゐる。我が身を捨てて我が子を守るといふやうに、自己保存本能と種族保存本能(滅私奉公)とが相反する局面において後者を優先させることも本能なのである。

このやうに、本能もまた動的平衡を備へてゐることは當然のこととして理解される。疾病に對する免疫力と復元力によつて個體の保存を圖ることはもちろん、環境の變化に順應して個體と子孫(種族)の生存を維持するために機能や形質を改善しうる能力をも備へてをり、これらの變化の豫測もまた本能のプログラムに組み込まれてゐる。そのやうな種族のもつ本能の限界點を超えた環境等の變化が起こつたとき、その種族の絶滅に至るのである。種族の絶滅とは、このやうな自然淘汰と適者生存の結果である。人類の本能は、これまでの地球環境を含めたあらゆる環境變化に對應できる複雜系の本能體系を備へてゐたといふことである。

このやうに本能體系を理解すれば、これと對立してきたと思はれた理性の位置づけが自づと明確になる。本能と理性とは、これまで述べてきたとほり、この兩者が共振によつて魂振(たまふり)の動的平衡を保つた關係であると認識できる。これは、天照大神の「御統の珠」(みすまるのたま)に相似した雛形構造となつてをり、對極にある本能と理性といふ二つの分節が、それぞれ獨自に存在しつつも、決して兩者が對立相反することなく、また、兩者が溶融して靜的に一體となつてしまふこともなく、その二つが繋つて一つとなり、互ひ雙方向に影響し合ふ關係である。そして、この「本」能(狹義の本能)と理「性」の兩者によつて動的平衡が保たれる全体の生命現象である廣義の本能を性善説のいふところの「本性」と名付けるとすれば、この上位概念である本性は、まさに人の精神活動を總合した「こころ」そのものといふことになる。

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