國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第一巻】第一章 國體論と主權論 > 第三節:基本概念

著書紹介

前頁へ

自然法學と實證法學

法實證主義(實證法學)は、實定法主義とも呼ばれ、當初は、成文法のみならず、慣習法や判例法なども經驗的事實に基づいて成立した法源(法の存在形式)とする立場であつた。そして、これに對し、自然法主義(自然法學)とは、これらの經驗的事實を超越した自然法があるとして實證法學と對立してきた。この對立軸が歐洲において二分してきた法思想の一つであつた。

法實證主義は、實定法の上位に自然法といふ神學的、形而上學的な法の存在を認めない立場であり、經驗的事實の認識のみを根據とする科學主義としての實證主義を法學に導入したものである。法實證主義が自然法學への對抗として生まれたのは、自然法學の提唱する神學的な自然法なる形而上學的な産物では、法の概念が一義的ではなく、法の科學性が否定されて何者をも生み出さないとしたことにあつた。經驗的な事實のみが法の存在認識の対象だとし、政治的・道德的・倫理的・宗教的要素を排除するのである。この分析方法は一面の眞理を含んでゐる。しかし、その科學性が稚拙であつたことが最大の問題である。事實(存在)と規範(當爲)とを區分することはできても、それを機械的に嚴格に分離することなどは不可能である。また、事實として反復繼續してゐる慣習的事實や類似事案についての同樣の判例が集積してゐる事實は、經驗的に檢證可能な社會的事實であり、それから導かれる慣習法や判例法は法として認識されるはずである。ところが、これを、實定法ほど明確ではないとして法の認識(法概念論)から除外する純粹法學は、單なる形式的な實定法主義にすぎず、法の認識における科學性を自ら否定してゐることになる。また、法實證主義は、自然法のみならず道德もまた法から除外するのであるが、道德といふ規範についても、その道德の實踐として人々の間で反復繼續する事実もまた經驗的に檢證可能な社會的事実であつて、道德規範もまた法として認識しうるはずである。

これに對して自然法學は、實定法の上位に「自然法」を置くのであるが、その概念は樣々である。神學や理性論などによつて永久法としての自然法を編み出すのである。社會契約説、主權論、人權論、自由主義、民主主義、平等主義など、合理主義(理性論)で構築された規範に絶對的正義があると主張する。しかし、それが何ゆゑに絶對的價値を有するのかについて、絶對的價値を有するはずのその自然法そのものによつて證明できないといふ致命的な矛盾があるために、自然法學は科學性に程遠いものがあつた。

しかし、後述するやうに、「惡法問題」の論爭において、法實證主義は退潮を餘儀なくされるに至つたのである。

英國では、いはゆるイギリス經驗論が主流であり、これは、やはり經驗的事實を重視する立場であるから法實證主義と同じ認識であつた。その意味では、超經驗的事實を認める自然法主義ではなかつたのである。しかし、純粹法學とは異なり、慣習法も判例法も法として認識してをり、それが神學的な自然法とは異なる「國體法」、つまりコモン・ローを確立する契機となつたのである。

ところが、英國では、もう一つの對立軸があつた。それは、英國では、憲法については文章形式を備へない「不文法主義」の法體系であり、慣習法や判例法などを重視したことに對して、憲法典といふ文章形式を備へた大陸法系の「成文法主義」と對峙してきた。

つまり、法實證主義においては、憲法に關して、不文法制による不文法主義と成文法制による成文法主義の對立が生じたのである。具體的には、憲法に關して、慣習法や判例法などを法源として認めるか否かといふことである。

よく誤解されるものとして、不文法制は非文明的な原初形態であり、成文法制は文明的な成熟形態であるとする見解があるが、これは大いなる錯覺である。廣く社會規範一般について云へば、規範は、文字で表現できるものばかりではない。原初的に長い傳統と文化に培はれた規範は、深奧な祖法である不文法の體系であつて、それを形式的な言語で「書寫」して成文化しても、不文の規範と同価値にて代置することは技術的にも次元的にも不可能な場合があるからである。また、前にも述べたが、規範には、聖なるものと俗なるものとがある。聖なるものは本質的に不文の姿であり、その影繪を描寫して成文化することは、その稚拙な表現の細部に亘つて解釋論爭が生じて必然的に俗化する。文字で書かれたものは、その内容の解釋が施されることによつて俗化するので、本質的なもの、聖なるものは文字で表現してはならないし、表現したときから俗化が始まるために、成文化しないもの、成文化できないものがあるのである。

その一方で、不文法は、規範の適用と運用に「柔軟性」があるものの、その柔軟性の高さが規範の適用と運用における「豫測性」の低さと表裏の關係にあることから、その豫測性を高めるために徐々に成文法制化されてきた。そして、成文化が進んでその豫測性が高まれば高まるほど逆に柔軟性が低くなり、形式的で硬直した規範の適用と運用といふ弊害を生じる。ところが、人々の一般的な規範意識は、法の豫測性を基軸として維持されるものであることからすると、成文法制化は必然的な趨勢となつてゐる。

しかし、全ての規範を成文化することは、規範の實相を完全に書寫することが技術的にも次元的にも限界があつて不可能であることは既に述べたが、それだけが理由ではない。法令の規定表現の構造上の理由もある。それは、成文法の多くは、短文によつて細分化した抽象表現の条文形式であり、長文によつて單元毎に具體的に記述した解説形式ではないからである。たとへば、条文形式による立憲主義的な憲法の多くは、權力分立制による均衡と抑制といふ原則を採用してゐるが、それは、条文形式の規定からそれが推認されるのであつて、權力分立制の基本概念を説明する解説形式の規定もなく、「立法」、「行政」及び「司法」といふ基本概念を説明する規定すらも備へてゐないのである。

短文の条文形式では、形式美は滿たされるとしても、規範内容が抽象的なものにならざるをえないが、長文の解説形式の場合は、規範内容が事例毎の説明にも及んだりして、より具體的なものになるとしても、長文ゆゑに煩瑣で美意識を害する。法令の形式的な外觀は、人々の規範に對する濳在意識に影響を與へるのである。そこで、この兩者の形式を組み合はせて、条文形式の本文の冒頭に、法令の趣旨や目的、解釋基準などの規定を設けたり、説明形式の總論的な前文や概念規定の條項を設けたりすることもあるが、それでも、やはり法令の内容は抽象的にならざるをえない宿命を背負つてゐるのである。

このやうに、不文法制と成文法制とは、二者擇一や二律背反の關係にあるのではない。不文法は、規範の適用と運用において、過去の判斷事例の蓄積などから具體的な事例比較をすることによつて一定の條理を導いて当該事案の認識と判斷に至る「歸納的手法」が採られるのに對して、成文法は、規範の適用と運用において、法文を前提とした三段論法によつて当該事案を判斷する「演繹的手法」が用ゐられることになる。それゆゑ、兩者は併存兩立しうるのである。事実たる慣習や判例などが先行的に存在し、それが慣習法(判例法を含む)を形成し、そのあるものは成文化して行くといふ消息を辿ることになる。

そもそも、慣習といふ事實や慣習法といふ規範は、文章形式に留められない性質のものである。本質的に不文法である。特に、それが憲法的(constituional)な憲法慣習や憲法慣習法に至つては尚更である。それゆゑ、この本質的に「不文」の憲法慣習や憲法慣習法を「成文」の憲法典の上位と認識するか、同位と認識するか、あるいは下位と認識するか、それとも慣習や慣習法自體を否定するのか、さらには、經驗的事實としての慣習や慣習法以外に超經驗的性格の規範を認めることができるのか、などといふ樣々な見解に分かれてくる。そのことが、法實證主義と自然法主義が樣々な見解に細分されて、その對立構造をより複雜にしてきた原因となつた。

英國では、憲法に關しても、法實證主義(イギリス經驗論)と不文法主義とが融合してコモン・ロー(國體の支配、法の支配)を確立させたが、主に大陸では、法實證主義と成文法主義とが合流することにより、憲法典(成文憲法)のみが憲法であるとする極端な法實證主義(純粹法學)が生まれた。

この法實證主義に對しては、それが正義や善といふ價値論から法を切り離し、「惡法も法である」といふことを受け入れざるを得ないことになり、自然法學からの批判にさらされた。これに對し、法實證主義の側からは、法實證主義は法概念論(法の認識)と法價値論(法の評價)を峻別するだけで、法實證主義と法價値論とは矛盾しないと反論し、「惡法問題」の批判を避けようとする。しかし、法概念論(存在論)において「惡法」として認識しうるものを法としての規範性を否定するのであれば、それは法實證主義の自殺行爲である。法の認識(法概念論)と法の價値(法價値論)とを峻別して、存在論(認識論)だけを守備範圍としながら、法價値論をも取り込むことになれば、正義・道德といつた形而上的な要素と法の必然的連關を否定して自然法論と對立した存在意義を喪失する。もし、惡法といふ法の價値評價によつて法の求める義務や規範性を否定するのであれば、自然法論と同じになつてしまふ。これは論理破綻となるので、法實證主義では「惡法もまた法なり」の例外を認めることはできないのである。これを認める見解は、そもそも論理破綻を犯してゐるからである。

これに對して、自然法學といふのは、自然や傳統、歴史、慣習などの普遍性のある根源的と考へられるものを經驗的事實の中から抽出したものを基礎とする法(自然法)の存在を認め、それによつて實定法を根據づけ、實定法の解釋や價値判斷を行ふ立場のことである。沿革的には、法實證主義は、自然法主義との單純な對立圖式から、自然法主義の自然法とは神學的な法として批判されてきたが、現在では、神学的概念だけではなく、樣々な自然法の概念が立てられてゐる。

これまでの法學は、この實證法學と自然法學といふ兩極にある考へ方の對立の歴史といつても過言ではないが、現實の學説は、極端な實證法學に基づくものはなく、多かれ少なかれ自然法學の影響を受けてをり、どちらかと言ふと實證法學的傾向と自然法學的傾向の雙方を折衷した考へ方であり、そのいづれをより強調するかによつて學説の特徴が決まつてくるのである。

自然法と云つても樣々な視點があり、なにを自然法として捉へるかによつて學説も樣々になる。特に、前に述べた社會契約説のやうに、「自然状態」に自然法の原點を求める考へもその一種と云へるが、それが歴史的事實でなかつたり、歴史檢證に耐えられるものでなければ意味をなさない。それゆゑ、これに耐えられる自然法といふものは、やはり歴史や傳統に根ざしたものであるはずである。

後述するとほり、これまでの自然法思想といふのは、自然法が實定法(慣習法、判例法を含む。)の上位に存在する超經驗的性格の普遍法としたことから、科學性を失つてしまつた。それが法實證主義による批判の要諦であつた。他方、實定法思想(法實證主義)も、文字で書かれてゐない慣習法を最も下位の法として、歴史や傳統といふ、これまで累積した最も膨大な經驗的事實を無視したことによつて、同樣に科學性を喪失してしまつたことは前述したとほりである。

それゆゑ、今一度、原點に戻つて、自然法と實定法を二極對立として捉へるのではなく、共に科學性を追求すれば、これらは融合するはずである。

ともあれ、これまでの自然法學と實證法學の對立は、多くの示唆を産みだし、後に述べる國體論と主權論の對立に相似してくるのである。

続きを読む