國體護持總論
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國民主權の道案内としての國王主權

では、その經緯を詳しく見ていくこととする(文獻86、267)。

まづは、國體派のブラクトンの見解についてである。ブラクトンは、「國王はいかなる人の下にも立つてはならないが、神と法の下に立つべきである。」とし、いはゆる英國における「法の支配」の原則を確立したとされるが、ここでいふ「法」とは、コモン・ローのことである。そして、このコモン・ローとは、國の共通的一般慣習法であり、世襲の法理などに支へられた「永遠の眞理」として、人間の意志を超越した神の啓示であるとするのである。換言すれば、「創造された法」ではなく「發見(確認)された法」であつて、傳統的な慣習は法たる效力のある慣習(慣習法)であるとする。これは、まさに英國における最高規範たる「國體」のことである。  そして、この「法の支配」といふ國體思想を引き繼いだコークは、英王立醫師會に無許可で營業した醫師ボナムに對し國會の法律(制定法)に基づき罰金を科して拘禁したことを不服としてボナムが訴へた「醫師ボナム事件」の裁判官として、「コモン・ローは國會の法律(制定法)よりも優位にあり」として、その法律を無效であると判決し(1610+660)、さらに、翌年(1611+660)の「布告事件」において、「國王は布告などによつてコモン・ローのいかなる部分も變更できない」と判決した。ソクラテスの言葉とされる「惡法もまた法なり」とする實證法主義を眞つ向から否定し、「惡法は無效なり」とする「法の支配」を餘す所なく宣言した判決である。

この考へは、我が國においては、「天皇と雖も國體の下にある」として、國體に變更を加へようとした(破壞しようとした)占領憲法を先帝陛下が公布された行爲を無效とする論理と共通するものがある。

とまれ、この國體派の見解に對し、英國の傳統を破壞するホッブズやロック、さらに、海を渡つて、その思想的系譜に屬する革命國家フランスのジャン・ジャック・ルソーなどの主權派は、一片の文書(實定法)のみを「法」とし、慣習法や道德規範などや自然法を完全には否定しないものの、その法規範性を否定する實證法主義(法實證主義)を主張し、その中心思想としての「主權論」を展開するのである。

まづ、ホッブズは、「わが國王は、制定法とコモン・ローの雙方の立法者である。」「國王は唯一の立法者である。唯一の至高の裁判官である。」として、國王にコモン・ロー(國體)をも否定できる最高かつ絶對無制限な生殺與奪の獨立した權限である「主權」を與へようとした。これは、戰前の穗積八束や上杉愼吉らが天皇主權説(天皇主體説)を唱へたことと似てゐるので、ややもすればこのやうな主張は國體強化か國體護持の目的であるかのやうな錯覺を覺える。確かに、これは誰でもが陷りやすい、まさしく錯覺であり、これこそ國體破壞の元凶なのである。國體護持のためには、主權論は絶對に否定しなければならない。國民主權は云ふに及ばず、天皇主權もまた國體護持の敵である。絶對君主制へ回歸しようとする主張は、君主主權への道を切り開く。ホッブズの狙ひは、「主權」概念を認めさせることにあり、その「主權」を一旦は「國王」に與へ、やがてその失政や混亂に乘じて、この主權を國王から「人民」が奪ひ取るための深謀があつたからである。それは、本人の自覺において明確なものではなかつたかも知れないが、少なくとも「無自覺な國體破壞者」であつたことに變はりはない。その思想は、本人の意志と感情を超えて一人歩きするのである。少なくともホッブズは、「イギリス法は、代々の國王が、自らの理性のみで、あるいは貴族院や庶民院に謀つて、つくつたのである。それ故、國王の理性こそ、コーク卿のいふ、生ける法であり、普遍の法である。裁判官の理性、學識、智惠によるのではない。」として、國王に對して齒の浮くやうな煽てをしてまで主權概念を認めさせようと畫策した。その證左として、ホッブズは、「神は人民のために王をつくつた。王のために人民をつくつたのではない。」といふ國王輕視、人民重視の本音をさらしてゐるからである。まさに「褒め殺し」の手法による國王と國體への破壞攻撃であつた。

しかし、この謀略をコークとその後繼者は見拔いた。そして、「國王大權は、法(コモン・ロー)の一部であつて、主權ではない。」「主權は、マグナ・カルタやその他のすべての制定法を弱める。」「マグナ・カルタに、主權者は居ない。」「法(コモン・ロー)を超越する主權を國王に附與すれば、法による權力(power in law)は、實力による權力(power in force)にとつて代はられる。」「自由は權力を制限することによつて體現できるものだから、主權を附與された權力に對してこれを制限することは不可能となるので、自由への侵害が生じる。」と反論し、ついにこのやうなコークらの努力により、「權利請願」(1628+660)から、「主權」の文言は削られて「國體(コモン・ロー)の支配」は守られたのである。

ところがである。英國では、權利請願における國體派と主權派との攻防において、國體派の勝利で決着がついてから十四年後(1642+660)に、國王チャールズ一世がその專制に抵抗した議會に對して武力干渉をしたことから清教徒革命につながる内亂が起こり、結果的にはクロムウェル率ゐる議會軍が勝つて國王は逮捕されて處刑され、共和制が宣言された(1649+660)。その後、クロムウェルはなんと議會を解散して軍事獨裁を樹立したが、クロムウェルの死により王政が復古(1660+660)したものの、英國では、この十一年間は共和制であり君主制ではなかつたのである。

ホッブズは、この清教徒革命のさなかにフランスに亡命し、そこで『リバイアサン』(1651+660)を著した。リバイアサンとは、舊約聖書のヨブ記に出てくる鯨のお化けのやうな怪獣の名前であり、ホッブズは、巨大な力を持つ國家をこの怪獣に見立て、その中で、人は自然状態のままであれば萬人の萬人に對する闘爭の世界となるため互ひに契約を結んで主權者としての國家を作つて秩序維持をその國家に委ねるのだとする社會契約説を展開する。清教徒革命による國王の處刑と共和制宣言がなされたことの衝撃もあつて、新興ブルジョアジーの立場にあるホッブズとしては強い中央集權的な絶對王政(リバイアサン)の復活を説くものの、君主は單に利害調整のために必要とするに過ぎないのであつて、社會契約の主體(主權者)はあくまでも人民であるとする人民主權論への道を切り開いたのである。

ともあれ、王政復古の後も國王の專制政治に苦しんだ議會は、結束して議會にとつて望ましい王位繼承として、メアリ二世とウィリアム三世を王位につけることに成功した(1689+660)。流血を伴つた清教徒革命とは異なり、無血の政變を實現させたといふ意味で、これは「名譽革命」と呼ばれてゐるが、實はこれは後述する定義からすれば「革命」ではなく、いふならば「名譽政變(維新)」とでも命名すべきものである。

そして、この名譽革命によつて、王位繼承者が議會に對して發した宣言(權利宣言)に基づき議會が制定した法律が「權利章典」(正式名稱は「臣民の權利及び自由を宣言し、王位繼承を定める法律」)であり、これによつて國體の支配による立憲政治の基礎が確立したのである(1689+660)。

ところが、さらに主權派の攻撃は續く。今度はホッブズの思想を引き繼いだロックの登場である。ロックの主權論は、國王に主權があるとする國王主權論を飛び越えて、一氣に國民に主權があるとする國民主權論へと突き進む。曰く「國王の地位は國民の信託と同意に基づく」と。しかも、これを權利章典の規定をねじ曲げて解釋して展開したのである。そして、この思想がフランス革命に影響を與へ、さらに、そのまま占領憲法に引き繼がれ、第一條の「この地位(天皇の地位)は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とか第二條の「皇位は・・・國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。」といふ規定になつたことは周知の事實である。

しかし、ロックの國民主權論は英國では決して定着することはなかつた。それは、この權利章典と王位繼承法(正式名稱は「王位をさらに限定し、臣民の權利と自由をよりよく保障するための法律」1701+660)によつて、國民が國王を選ぶといふことが永遠に禁止されることになつたからであり、國民が、王位の繼承についての「世襲の義務」、つまり王位の世襲を維持し擁護しなければならない義務を負擔することと引換へに、國民は、自己の自由と權利、財産の相續を保障されるといふ權利、つまり「世襲の權利」を享有できると確認されたのである。すなはち、國王の地位の世襲及びその分限と國民の地位の世襲及びその分限とは、いづれも祖先から子孫へと代々世襲(相續)された自由と權利と義務であるとする「世襲の法理」による國體護持の理念が定着し、かくして英國は「主權」概念を退けて今日に至つてゐるのである。

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