國體護持總論
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國民主權と立憲主義の相剋

いづれにせよ、主權論は論理破綻を來してゐるが、さらに、その理由について説明する。それは、具體的な事例で考へればすぐに解る。

ここに百人の國民による國家があり、主權が國民にあつて民主主義による議會もあつたとしよう。しかし、國民の間で鋭い思想的對立があり、多數派は九十人、少數派は十人である。そして、選擧により大統領を決めたが、當然に多數派に屬する者が大統領となり、この國の政治を行ふこととなつた。ここまではよい。しかし、大統領となつた者は、少數派の者とその思想を蛇蝎のごとく嫌ひ、當然多數派の者もさうである。そこで大統領は露骨に少數派を彈壓しようとして、少數派のみにその選擧權その他の權利や自由を剥奪する法律を議會で作つて早速に彈壓した。はたしてこれが主權論において許されるのか。答へは、「當然許される」のである。なぜかと言へば、主權とは、最高で獨立した絶對無制限の生殺與奪の權限であつて、それが國民にあるのであるから、國民の意志を反映した議會で民主制のルールに基づいて決めた法律は法實證主義と主權論の立場からして絶對に有效だからである。三權分立制の下で平等原則に違反するとして裁判所に訴へたとしても、多數派の意見を持つ裁判官を合法的に選任すれば結論は搖るがない。どうしても不都合ならば憲法も變へればよい。贊成者は九十人も居るのであるから簡單である。「立憲主義」に反すると少數者が叫んでも、國民主權を制約するだけの力はない。國民主權とはさういふものである。かくして少數派は國民主權の名の下に彈壓される。これも「イエス殺しの思想」によるものである。

そもそも、「立憲主義」の思想とは、フランス革命の際の『人および市民の權利宣言』(フランス人權宣言)第十六條に、「權利の保障が確保されず、權力の分立が規定されないすべての社會は、憲法をもつものではない。」とする規定に依據したもので、ここから、「憲法は國家權力を縛るためのもの」、「憲法とは、國家に對する命令である。」とか、「憲法とは、國家權力から國民を守るためのものである。」とか、「憲法は、國家を縛る箍である。」などと説いて、人權保障と權力分立を否定する方向の憲法改正ができないとする解釋が登場する。これは、「憲法」を科學的に定義したのではなく、特定の思想によつて定義したものであつて、憲法一般の通有性がない定義である。

そして、ある者は、立憲主義とは、民主主義の制約原理であつて、比較不能な對立する價値觀が公正に共存するために、これを政治決定の對象外として民主主義の枠組みで決定してはならないことである(長谷部恭男)とし、また、ある者は、立憲主義とは主權者が爲政者に對して政治を執り行ふための命令であるとする。しかし、立憲主義の合法性と正統性は、國民主權に基づくものであるはずなのに、その立憲主義が國民主權を制約できるとするのは法段階説からしても矛盾したものであるが、いづれにせよ、ここで云ふ立憲主義は改正限界説の一つとして分類できる。

そして、改正限界説としての立憲主義の見解では、どの點が改正不能であるかは個々の論者に委ねられることとなり、一律ではない。ところが、立憲主義といふものを、民主主義、多數決原理によつても侵害されない「最高價値」の存在を認めた思想の一つであるとすれば、この思想と國體論とは同樣の方向性を持つことになる。そして、立憲主義は、對外的には國家毎にそれぞれの獨自の立憲主義を認めることになるため、國境や國籍による國家間の棲み分けを肯定する點においても國體論と共通するところがある。

これに對し、主權論と一體となる立憲主義であれば、主權者が主權者を制限するといふ「自重思想」に陷り、制限されない主權が制限されるといふ矛盾から脱却できない。ともあれ、こんな偏頗な理論ではあつても、これが改正限界説の一つであることは間違ひないことになる。

そして、憲法改正に限界があるとすることは、國民主權を制約することになり、立憲主義と國民主權主義とは矛盾對立する關係になる。一方において、最高權力の源泉が「國民」にあり、それが「絶對かつ無制限」であるとする「信賴と自信」を謳歌しながら、他方において、その權力によつて生まれた國家機關が「國民」の權利を侵害する危險があるとして「不信と不安」を抱くのは明らかな矛盾である。そのため、この國民主權主義の根本的矛盾を隱蔽するために、立憲主義をも竝列的に主張し、それらがまるで矛盾しないものと詭辯を弄する占領憲法有效論者の見解が生まれる。ロシアのプーチン政權における「主權民主主義」、つまり、國家主權を侵害しない限度で民主主義を認めるといふ思想も、むやみやたらに難解な特殊專門用語(ジャーゴン)を發明して素人を煙に卷き、主權論の矛盾を隱蔽しようとする立憲主義から生まれてきたのである。

しかし、このやうな見解に對しては物の哀れとして心情的には理解できても、やはり論理的には完全に破綻してゐるのである。立憲主義を貫くのであれば、帝國憲法の解釋においてもこれを堅持しなければならないし、それによれば、占領下での帝國憲法の改正は無效であり、これによる占領憲法もそこで謳はれてゐる國民主權も否定されなければならない。帝國憲法の解釋では立憲主義を否定し、占領憲法の解釋では立憲主義を肯定するやうなご都合主義的な二重基準の論者は、もはや憲法を語る資格はない。立憲主義を語る者は、これと矛盾相克する主權論との關係を明確にしなければ、國家を極めて危ふい方向へと恣意的に陷れる危險がある。占領憲法について立憲主義の堅持を主張するのであれば、帝國憲法についても立憲主義を貫かねばならず、帝國憲法に違反して制定された占領憲法を無效であると結論付けなければならないのである。

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