國體護持總論
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子孫を不幸にする國民主權

また、さらに別の例を示す。それは、「國民主權主義では子孫は不幸になる。」といふことである。國民主權によれば、主權者である國民の意志は何者によつてもその行使を妨げられることはなく、如何なる事項についての制約も受けず、そしてその判斷に一切の誤りはないとする、最高性、絶對性、無謬性が本質であるから、次のやうなことを高らかに宣言できる。そして、これを否定したり制限したりすることは、國民主權を否定する危險思想として葬り去られることになるのである。

すなはち、「死んだ者やこれから生まれてくる者に對して、何ら遠慮することはない。我々は國民主權を何ものにも拘束されないものとして勝ち得たのである。神ですら排除したのである。國民主權は絶對である。だから、景氣浮上のため赤字國債を發行できる。借金を將來に累積させる。今さへよかつたらそれでよい。子孫が借金に喘ぐことも知つたことではない。子孫のために我慢して借金を減らしたり耐乏生活をすることを唱へると政治家は落選するし、そんな道德めいたことを言つて我々に贅澤をさせないこと求めるのは國民主權を否定し人權を侵害する危險思想である。娑婆にゐる者だけが仕合はせならよい。それが國民主權である。我々の時代で散財し、借金を子孫に負擔させることも産み育ててあげた親の權利として、主權者としては當然である。先祖を冒涜することも當然できる。死人に口なしである。」と。

主權は絶對であり、誰も侵すことはできない。神聖不可侵である。天皇であらうが、國民であらうが、これが誰かに一度認められると、その濫用を阻止することはできなくなる。生きてゐる者だけで、人々が過去から現在まで、そして將來へと營んできた暮らしと言葉と文化を獨斷で變更することも廢止することもできることになる。現在の選擧民團の意志だけで過去との斷絶も將來の子孫の生活のことまで一切を決定することが許される。子孫を生かすも殺すも勝手である。死んだ人や、選擧權を持たない子供や、これから生まれてくる子孫には一切發言する權限もない。文化も言語も、生きてゐる者の判斷で自由に取捨選擇できる。莫大な借金を作つて、それを子孫に全部負擔させることを決めても許される。地球の環境を壞し、自國・他國を崩壞させることも自由にできる。  はたして、これでよいのか。

先哲は云ふ。「主權がどこにあるのかと問はれるなら、どこにもないといふのがその答へである。立憲政治は制限された政治であるので、もし主權が無制限の權力と定義されるなら、そこに主權の入り込む餘地はありえない。・・・無制限の究極的な權力が常に存在するに違ひないといふ信念は、あらゆる法がある立法機關の計畫的な決定から生まれる、といふ誤つた信念に由來する迷信である。」(フリードリヒ・ハイエク)と。そして、さらに、「國民主權のなかでは、國民は滅亡する。國民は機械的量のなかに埋没し、自分の有機的、全體的、不可分的精神をそのなかで表現することができない。」「國民主權は、人間主權である。人間主權はその限度を知らない。そして、人間の自由と權利を侵犯する。」(ベルジャーエフ)。

つまり、國民主權の立場であれば、その好き嫌いは別として、これらをいづれも一切の制限なしに肯定する權限を國民に與へることになる。娑婆に居る者だけが國家の命運を決定できる生殺與奪の權を持ち、祖先を冒涜し子孫を虐げても當然の如く許される。このやうな傲慢不遜の考へを神聖不可侵(絶對性、無謬性)であるとする思想が國民主權主義といふものである。これは、心有る人々の健全な判斷からすれば、人非人(ひとでなし)の考へ方である。國民主權とは、人非人の法律思想であり、こんな考へ方に普遍性がないことは、早晩明らかになるはずである。

さらに、具體的に占領憲法の謳ふ國民主權の理不盡さについて指摘すると、この國民主權によれば、我が國の國語(やまとことのは)を英語に變へることができるといふことである。占領憲法は、正統假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)の國語(やまとことのは)で記載されてゐるので、これが國語としての規範性を持つとも解釋できるが、法實證主義の立場によると、「國語はやまとことのはである。」との規定がないので、國會は憲法改正をせずとも、多數決を以て法律で國語を變更することが簡單にできる。現に、このやうな國語論議は、明治維新の時と、大東亞戰爭の敗戰時にもあつたし、今も英語を第二公用語として認めてはどうかといふ議論もこの延長線上にある。

このやうなことは、國語だけでなく、前にも述べたとほり、國旗、國歌についても同樣である。國旗は日の丸(日章旗)で國歌が君が代であることは、いにしへからの傳統であり國體に屬するものであるが、占領憲法にはその規定がない。それゆゑ、『国旗及び国歌に関する法律』(平成十一年法律第百二十七號)といふ「法律」を作つたのであるが、法律で作つたものであれば法律で變更することもできるといふことである。現に、この法律の第一條第一項に「国旗は、日章旗とする。」とあり、同第二條第一項「国歌は、君が代とする。」とあるが、この表現は、「確認立法」ではなく「創設立法」の表現である。國旗は日の丸、國歌は君が代と古くから國體の内容として決まつてゐたのだから、この法律でそのことを確認すれば足りるのである。「・・・とする。」とは、「(この法律によつて)・・・とする。」といふ意味で、この法律によつて初めて決められた(創られた)ことになる。法律で規定するとしても、せめて、「・・・とする。」ではなく、「・・・である。」とすべきであつた。つまり、「(この法律で決める以前に)・・・である。」といふ確認的な意味とすべきであつた。このことからして、我が國は、國體に屬する君が代、日の丸の認識において、未だ實證法學的な國民主權主義から拔け出せてゐないと言へるのである。

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