國體護持總論
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著書紹介

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ルソーの正體とその影響

この思想的政治的潮流の源泉となつたのが、前述したアダム・ヴァイスハウプトの合理主義であり、これらをホッブズやロックが受け繼き、さらにそれを徹底させたルソーの思想である。ルソーは、『社會契約論(民約論)』(1762+660)を書き、その理論の教育的展開として同年に『エミール』を著した。『エミール』が革命前に廣く讀まれたが、『社會契約論』は革命前にはほとんど讀まれなかつたものの、革命後にこれを忠實に實踐したのがロベスピエール率ゐるジャコバン黨であり、ロベスピエールは、最も急進的に獨裁的恐怖政治を暴力的に強行した。

そして、カール・マルクスとその共産主義思想もまたルソー思想の派生であり、その後のロシア革命を率ゐたレーニンとその後繼であるスターリンらもまたルソーの思想に染まつてゐるのである。

バークは、フランス革命を目の當たりにし、『フランス革命の省察』(1790+660)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蠻な行動など及びもつかぬ水準の德と智惠を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行爲していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき嚴肅さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と傳統との決別といふ野蠻行爲であることを痛烈に批判した。

そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子五人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に觸れて、「ルソーは自分とは最も遠い關係の無縁な衆生のためには思いやりの氣持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞惡い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤兒院へ送り込む」とその惡德と狂氣を糾彈した。また、イボリット・テーヌは、「ルソーは、奇妙、風變りで、しかも竝すぐれた人間であったが、子供のときから狂氣の芽生えを心中に蔵し最後にはまったくの狂人となっている」「感覺、感情、幻想があまりにも強すぎ、見事ではあるが平衡を失した精神の所有者であった」と評價した。

このルソーの人格の著しい歪みと人格の二重性は、ルソーが重度の精神分裂症(統合失調症)と偏執病(パラノイア)であつたことによるものであり、犬猫の仔が親に棄てられても立派に育つので人間の子供も同じにするとのルソーの信念は、十一歳から十六歳にかけて親のない浮浪兒であつたために竊盜で生活してきたことの經驗からくる怨念による「轉嫁報復」の實行であつたらう。このやうな反吐の出る人でなしの思想が人類の未來を切り開く正しい考へであるとする妄信が現代人權論であり、おぞましい悪魔の囁きに他ならないのである。

いづれにせよ、ルソーの歪んだ人格から生まれた思想は、ホッブズの考へを更に發展させた社會契約説である。ホッブズが社會契約の對象を私的な權利(自益權)のみとしたのに對し、ルソーはこれに公的な權利(公益權)をも含めたことにより、社會契約なるものが難解で複雜怪奇なものと化したのである。つまり、私的な利害を持つ個々の人民の意志の總和(全體意志)ではなく、個々の人民の私的な利害を超えた公的な利益を目指す意志(一般意志)に基づく一體としての人民がなした社會契約に基づくものとし、一般意志の行使が主權であり、一般意志を主權の作用の基礎とするのである。そして、「政治體または主權者は、その存在を社會契約の神聖さからのみ引き出す」として、社會契約は「神聖」なものとするのであるが、ここにそもそも論理破綻がある。まづ、私的利害の總體である全體意志から抽出されるはずの一般意志がなにゆゑに「公的」な性質に轉化するのか、ましてや、それがなにゆゑに「神聖」なのかといふ素朴な疑問について何も説明されてゐない。否、できないのである。

多數決原理は、「數の多さ」を以て「質の高さ」を推認させるとの假説によつて支へられてゐるものである。全體意志から抽出される一般意志であつても、その數の多さは共通した私欲の數の指標でもあり、決して質の高さの指標ではない。前述の「百人國家」の例のやうに、十人と九十人とのそれぞれの人格を比較したとき、數の力で十人を抹殺しようとする九十人の「野蠻」な意志のどこに「神聖」なものがあるといふのか。假に、數の多さが質の高さを推定する場合があるとしても、それが最高の質を意味する「神聖」であると斷定することは論理の飛躍も甚だしい。つまり、ルソーは、その狂つた思考過程により、「一般意志」を「神の意志」とし、神の意志を體現した「主權」は、「絶對」、「最高」、「無制限」であるとする一神教を創り出し、その教祖におさまり、人民全體を有無を言はせずに強制的に信者とし、絶對服從を強要した。それゆゑ、ルソーの言ふ「市民的自由」とは、主權に基づいて付託された「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが國家に役立つのだ』というとき、市民は死ななければならぬ。」「市民の生命はたんに自然の惠みだけではもはやなく、國家からの條件つきの賜物なのだ。」と言ひ切るのであるから、「奴隷の自由」といふパラドックスにより、結果的には、自由はないとするのである。これがルソーの狂つた思想の正體なのであるが、このことを我が國で知る人は少ない。

このやうなおぞましいルソーの思想は、我が國以外では概ね否定され、その思想からの脱却がなされてゐる。ところが、我が國では、明治中期に中江兆民がルソーの『社會契約論(民約論)』を翻譯して解説を加へた『民約譯解』を著し、これが急進的な自由民權運動の理論的指導書となつたのである。中江兆民は、『一年有半』において、「我日本古より今に至る迄哲學無し」「總ての病根此に在り」と述べてゐるとほり、典型的な合理主義者である。哲學といふ合理主義の産物がないことと、その哲理そのもの(道)がないこととが同じであるとしたのである。「まことは道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」といふ本居宣長の至言(『直毘靈』)や、「色も無く香も無く常に天地は書かざる經を繰り返しつつ」といふ二宮尊德の卓見を中江兆民は全く理解できなかつたのである。ところが、中江兆民は、晩年になつて、帝政ロシアとの開戰を主張する近衞篤麿が主唱する「國民同盟會」に參加して懺悔改心し、ルソー教から離脱しようとした。しかし、それは時すでに遲しの感があつた。しかし、戰後においても桑原武夫が『ルソー研究』などでルソーを好意的に評價したために、ルソー教の信者(患者)が再び多く出現した。その中で最も影響力のあつたのは、ルソー思想に基づいて造られた占領憲法を支持し、我が國の憲法學界を「ジャコバンの群れ」にした變節學者の宮澤俊義らである。そして、今もなほ、これと同じやうなルソー教の信者(患者)は法曹界に多く蔓延し、その影響を受けてゐる者は多い。

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