國體護持總論
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主權論爭

世界は、むき出しの法實證主義からも主權論からも脱却して、君主制國家も共和制國家も、それぞれの歴史傳統を重視しようとする傾向にある。そして、我が國においても、やうやく國家の中心を皇統に見出し、歴史傳統に回歸する兆しが徐々にではあるか出始めてゐるのである。

これまで見てきたやうに、國體論と主權論とは、まさに水と油の如くである。それは、バークの『フランス革命の省察』に反駁したものの結果的には敗北したトマス・ペイン(Thomas Paine)の『人間の權利』(Rights of Man)とを比較しても頷ける。しかし、これを融合させる試みが過去にあつた。それは、戰後における、いはゆる「尾高・宮澤論爭」における尾高朝雄博士の見識である。

これは、國體(規範國體)には理念的要素と權力的要素とがあることから、これと同樣のことを主權論にも導入しようとした試みである。確かに、主權の概念は、そもそも權力的要素を中心として生成されたものであるが、これにも理念的要素を重視しようとするものでつた。これは、尾高朝雄が、主權概念の理念的要素を強調して、主權とは正當な政治理念を表現する「正義の支配」であり、ノモス(法もしくは法の根本原理)にあるとした「ノモス主權論」を主張したのに對し、宮澤俊義が、主權概念の權力的要素を強調し、主權とは「政治のあり方を最終的に決定する意志」であると反論した論爭である。

これは、實のところ、主權の歸屬が國民であるとする占領憲法の解釋に關するものであつたために、現象面では尾高朝雄の不利に展開したものの、この論爭の今日的意義はもつと別のところにあつたのである。それは、このノモス主權論といふのは、假に、主權論の土俵に上がつて議論するとしても、その主權の歸屬が「ノモス」なのか「國民」なのか、といふ國法學的問題であつて、占領憲法の解釋學の範疇に留まるものではなかつたからである。つまり、ノモス主權論とは、占領憲法の上位規範として規範國體(ノモス)が存在し、この規範國體こそが最高、絶對かつ無謬の「主權」としての屬性を備へてゐるとする見解へと昇華される可能性を秘めたものであつた。從つて、「法の支配(國體の支配)」といふ用語に代置するものとして、假に、「主權」といふ血なまぐさい用語を用ゐるとすれば、主權は規範國體といふノモスにあるといふ意味で「國體主權論」といふことができるのである。

思ふに、權力的要素を中心に主權概念を組み立てることは、熾烈な權力闘爭や革命の歴史を持つ歐米や支那に妥當しても、そのやうなことがなかつた傳統と歴史を持つ我が國には妥當しない。國民主權といふ概念は、そもそも君主主權に對する「抗議的概念」(清宮四郎)として誕生したものであつて、我が國にはそのやうな歴史的背景が存在しなかつたからである。

また、主權の權力的要素といつても、現實に政治を動かす力から歸納して主權概念を構築することもできないのであり、主權概念は程度の差こそあれ、理念的要素に依存せざるをえない。ましてや、國民主權といへども、すべての國民の意志により政治が決定するといふことは幻想であつて現實にはありえず、また、君主主權といへども、實際のところ君主一人の力では政治を決定しえないのが現實である。そして、社會機能が複雜かつ多岐にわたつて分業化し、政治の統治機構もその影響を受けて複雜化した現代の大衆社會にあつては、權力的要素を中心に主權概念を構築することに何の説得力も持たない。國民主權であるとか、君主主權であるとかを論爭して、そのいづれかを唱へてみても、現實の政治が一部の者に支配されてゐる現實に目を瞑ることになる。そのやうな抽象的理念で捉へるだけでは、國民主權の場合では一部の國民(政治家、官僚)によつて、君主主權の場合では君主の側近である少數の者によつて支配されてゐる現状、即ち、マックス・ウェーバーのいふ「少數支配の法則」とその現實を是正することもできず、建て前論に終始してしまふ。このやうな現代政治の現實をふまへれば、主權概念を用ゐるとしても、その理念的要素を以て再構成し、「法(正義)の支配」つまり「國體の支配」の意味としての「國體主權」であるとすべきである。これによつて、權力闘爭や革命の歴史的遺物である「主權概念」を否定して決別することになるのである。

このやうに解釋すれば、少數支配の現實に對して、好ましからざる事態となつたときは、「國體の支配」の理念を以て對抗しうるのであり、政治的にもその方が極めて有益である。

例へば、「國體の支配」の概念を設定することの實益は次の事項が擧げられる。

第一に、全體の奉仕者(占領憲法第十五條第二項)としての資質をおよそ維持しえないやうな不道德行爲をした國會議員が、たまたま現行法によつては處罰されず、又は官憲による訴追を狡猾にも免れた場合であつても、次の總選擧(國政選擧)においても同人が當選したとき、主權概念の權力的要素を強調する見解であれば、同人に主權者の意志による「みそぎ」が成立し、以後は同人の政治責任を追求しえなくなる。何故ならば、占領憲法第十五條第一項は、公務員の選定罷免權、即ち、參政權といふ國民主權の權力的要素の根本を表明した規定であり、當該議員がどの選擧區から選出された者であつても、國民全體の代表と擬制されてゐるからである(同條第二項)。これが國民主權主義の權力的要素による理解である。主權者が「是」として同人を代表者として再び選出したのであれば、それがまさしく主權者の意志であつて、何ものにも勝る價値の創造的判斷である。從つて、これに異議を唱へる批判者は、主權者の意志を否定する反逆者にすぎず、言論の自由の限度でその異議と批判は保障されても、國會及び國政においては、同人の政治責任は追求しえず、追求しようとする意見を無視することができるのである。むしろ、國會で同人の政治責任を追及することは、主權者の意志に反する違憲行爲なのである。いはば、これが從來までの政治腐敗を促進してきた「數(多數決)の論理」といふ構造であつた。それでも尚、同人の政治責任を追求するための論理は「國體の支配」といふ理念的要素しかないのである。

第二に、國會が全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)で可決成立した法律の合憲性については、どうであらうか。

國民主權概念の權力的要素を強調する見解であれば、國民主權の「國民」の意志とは「選擧民團」の意志、即ち一般意志であり、「主權」とは「國家意志の最高ないし最終の決定權」といふことになる。そして、代表民主制(國民代表の原理)は、選擧制度や選擧區住民の意志とは無關係に自由委任の原則(命令的委任の禁止)が保障され、全國民の代表として獨立した法的地位(個別的・部分的利益ではない一般利益を追求する地位)であることを前提として、「國民全體から議會全體への自由委任」を擬制することによつて國民主權主義と代表(間接)民主制とが同等同價値であると擬制するのである。

さうであれば、國民代表が全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)で可決成立した法律は、一般意志と同視しうるものであり、それが根本規範に牴觸する事項でない限り、當該法律は當然に合憲であつて、違憲の主張を一切斟酌する必要がなくなるのである。從來の裁判所であらうが、新たに設けられた憲法裁判所において、この法律を違憲であると否定することは、國民主權の否定であつて許されないことになる。

しかし、戰前における『治安維持法』、占領期間中に制定された占領憲法、獨立後の『破壞活動防止法』、『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴對法)』などのやうに、全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)により可決成立した法令の合憲性を判斷するについて、「數(多數決)の論理」による主權の權力的概念によれば、これらを違憲とすることができなくても、「國體の支配」の論理によれば、これを違憲と判斷しうる道を切り開くことができる。また、立法行爲の裁量の範圍、内容及び程度においても、それが全くの自由裁量か羈束裁量かについて、その限界を爭ふ餘地があることになるのである。

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