國體護持總論
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國體論爭

戰前から現在に至るまで、我が國においては、英國のやうな論爭と深い思考は全くなかつた。文化國體、規範國體についての國體學的な考察や、これが憲法に優先するといふ觀點がなかつたのである。憲法を凌駕する規範國體に思ひが及ばなかつたため、規範國體は、帝國憲法の根本規範(改正ができない規範)として改正限界説といふ見解の中でしか反映されなかつた。まさに學問不毛と云つても過言ではなかつた。

國體(規範國體)概念は、帝國憲法下における國法學及び憲法學の中心概念として登場したものの、「國體トハ統治權ノ所在ニ依リテ分ルル國家ノ特色ヲ謂ヒ政體トハ統治權行使ノ形式ニ依リテ分ルル統治ノ體樣ヲ謂フ」(文獻6)といふ説明に見られるやうに、一般には、國體は主權の所在によつて決定され、政體は主權の行使形態によつて區分された。昭和四年の大審院判決でも、「國體」とは「我帝國ハ萬世一系ノ天皇君臨シ統治權ヲ總攬シ給フコト」と定義してゐたのである。

このやうな、國體の國法學的な概念は、戰前の天皇機關説と天皇主權説とが對立した「天皇機關説論爭」の頃までに登場してきたのであるが、これまでの國體の概念に關しては次のやうな三つの問題點があつた。

先づ第一に、ここでの國體とは、前述の定義のとほり、「主權(統治權)の所在」によつて決定される法律的な概念である「主權國體」なるものを意味してゐる點である。ここで「主權國體」といふ便宜的な用語を用ゐたが、これは、統治權を主權と同視し、その主權がどこに歸屬するのかを究明することが國體の有り樣であるとする概念のためのものである。いはば「主權=國體」と理解した國體概念のことである。これは、國體論と主權論との比較のために、國體論をあへて「國體主權」とした概念と混同し誤用されてはならない。ともあれ、この主權國體といふ概念を設定したのは、このやうな國體概念で議論することの有用性に關する根本的な疑問があることを明らかにする必要があるためである。單なる主權概念にすぎないのに、これに文化國體を連想させる「國體」といふ用語を使用することは明らかな誤用であり、これに國體といふ用語を用ゐずとも、天皇に主權があるとする説であれば天皇主權説であり、國民に主權があるとする説は國民主權説であつて、「天皇機關説」は「國家(法人)主權説」と表示すれば足りるからである。單なる「主權の歸屬に關する論爭」に過ぎないものを「國體論爭」とすり替へることに學問的良心の缺片もないといふべきなのか、あるいは、學理の水準が餘りにも低かつたといふことである。それにしても、國體と主權といふ、水と油の關係のものを一括りにして同じものとする、あまりにも乱暴で無知な論爭であつたことだけは確かである。

次に、第二の問題點としては、法律論爭のあり方にあつた。主權國體では、歴史的文化的なものの總體である傳統性を捨象して、純粹に主權の現在性(主權の歸屬)のみに集約したにもかかはらず、國體に關する一連の法律論爭において、主權の現在性とは無關係に、主權國體の概念に含まれてゐない主權の傳統性を前提とした國體論爭がなされ、概念の混同といふ致命的矛盾を孕んだ情緒的論爭に脱したことである。たとへば、國體(主權國體)概念の有用性を否定する主張は、傳統を否定する主張と同視されて、政治的批判を浴びせられるのである。これは、國體とは「天皇制」を意味するとして攻撃しようとする政治思想の土壤と共通する。このやうな現象は、理念的な文化國體が權力的な主權國體と重なり合つてゐるのだとの大いなる錯覺が生んだ悲劇である。

附言するに、そもそも、この「天皇制」といふ用語は、大正八年(1919+660)、レーニンの指導により世界の共産主義化を目的として設立されたコミンテルン(Comintern、共産主義インターナショナルの略稱)の大正十一年(1922+660)十一月の第四回大會で、全世界の「君主制」を根絶するとの基本方針を決定されたものである。この用語は、それまでから既に用ゐられてはゐたが、右大會でコミンテルン日本支部として正式に承認された日本共産黨が、この方針に基づき『綱領草案』で「天皇制の廢止」(天皇の政府の轉覆及び君主制の廢止)を闘爭方針として宣言したことから周知されたものである。

そして、日本共産黨は、昭和二十年十二月一日に開催された第四回共産黨大會において、大東亞戰爭を「軍事的、警察的天皇制權力によつて強行された強盜侵略戰爭」として、日本共産黨行動綱領では最優先課題として「天皇制打倒」を掲げてきた。ところが平成十六年一月の第二三回共産黨大會では、共産黨は綱領を變更して天皇制を認めるとしたが、おばあさんの假面を被つた狼が赤ずきんちゃんを誑かすが如き幼稚な手法で未だに臣民を騙さうとしてゐるのである。

さらに、第三の問題點は、この國體論爭おいて、二重區分説(二元説)に對する疑問、即ち、主權の所在である「(主權)國體」と、主權(統治權)の態樣である「政體」とに區分することの必要性と有用性について疑問があることである。戰前においては、一般的には國體と政體とを區別して用ゐてゐた。それは、國家の形態(form of state)と、政府の形態(form of goverment)とを區別するドイツ國法學の影響を受けて、前者には國體と、後者には政體という譯語を付けたのである。その後、ドイツにおいては、この區別を放棄する區分否定説(一元説)が有力となり、我が國でも一部で唱へられた。しかし、本來の「國體」の概念は、ついに唱へられずに終はつたのである。我が國でも、國語辭典などを檢索すると、國體とはこの主權國體であることの説明しかなされてゐないのが現状である。

また、「主權(統治權)の行使態樣(統治態樣)」=「政體」といふのであれば、各種の統治態樣の統括概念として政體をとらへてゐるに過ぎない。政體を君主制、貴族制、民主制の三つに分類したアリストテレスの見解に始まり、專主制と民主制の二つに分類してゐる現在の學説においても、いづれも現存する國家の統治態樣については混合政體論を展開してゐることから、「政體」概念自體が重要な意義を失ひつつある。ましてや、この政體概念と國體概念とを對比させることに何らの論理性もない。戰前の天皇機關説論爭と、戰後の占領憲法をめぐる國體政體論爭(和辻・佐々木論爭)において、國體と政體とを區分することの要否に關する議論もなされたが、この二大論爭においても、あくまでも主權國體概念を前提として、政體概念の要否(二元説と一元説の對立)に終始してをり、さらに本源的に、主權國體の概念を設定することの有用性に關する議論まではなされなかつたのである。

ちなみに、戰後の國體政體論爭といふのは、戰後の國家状況について、和辻哲郎が、帝國憲法下の政體は日本の歴史からすれば例外に屬するものであつて、占領憲法は立憲君主制といふ傳統的國體に復歸したに過ぎず、占領憲法の制定は國體の變更ではなく政體の變更であると主張したのに對し、佐々木惣一が、占領憲法の制定は國體の變更であると主張した論爭である。これも、國體概念について、雙方が噛み合つてゐない論爭であつた。

戰前の軍部及び内務省は、自己の強大な權力を維持するための全體主義國家思想として、この主權國體の概念を利用し、本來の傳統事實に存在せず、傳統事實から演繹しえない思想的なものを新たに付加創作して、それを「國體」に仕立て上げたのである。文化國體でも、法律的な主權國體でもない、いはば「權力國體」ともいふべき「政治的概念」である。それは、日本の傳統事實とは異なる「天皇親政」といふ統治原理を國體に含ましめる思想であつた。「天皇親政」の事例は長い我が國の歴史において數例存在するにすぎず、これは傳統ではない。前述したとほり、「王覇の辨へ」といふ皇室の傳統に則つた王覇辨立の統治態樣による「天皇不親政の原則」、つまり「統治すれども親裁せず」の原則こそが日本の傳統である。にもかかはらず、天皇親政の名の下に、逆に、天皇を排除して自己の權力を恣に行使した藤原氏や平氏の攝關政治などの王權簒奪の例と同樣、軍部及び内務省は、「天皇親政の原則」といふ傳統にない事柄を創作概念である權力國體の概念に取り込んで、その實質は皇權を簒奪した全體主義國家思想によつて自己の權力の增殖を謀つたのである。

そのため、戰前においては、主權國體概念の無用性を學問的に主張することですら、「國體」(主權國體、權力國體)否定の危險思想であるとして彈壓を覺悟しなければならない政治的環境と、これに屈伏して迎合する學者や識者しか存在しなかつたといふ憲法學界や論壇等の亡國的實情により、國體を學問的に議論することがなされなかつた。

また、戰後においても、戰前の軍部及び内務省が行つたこととは比較にならないほどの嚴酷な言論・思想統制を行つたGHQにより、いかなる意味の概念であつても、「國體」を議論すること自體を實質的に禁止され、我が國の歴史や傳統は、歐米自由主義(資本主義)と共産主義に共通した歐米中心の單線的發展史觀を支へる「進歩至上主義」と「生産至上主義」の思想の前では、極東に存在する「邪魔物」の歴史と評價された。そして、歐米思想に迎合することが進歩的文化人として優遇されたため、現在に至るも學會や論壇の無明は續き、國體の論議は殆どなされてゐない。

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