國體護持總論
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資本主義と共産主義

ところで、戰前における治安維持法は、「私有財産制度」を國體の内容として明記した。これは、前述のコミンテルンの謀略に對抗するための自衞手段であり、私有財産制度の維持は、世襲の維持による國體護持のために必要なものではあつたが、そのことと資本主義の擁護とは明確に區別されなければならなかつた。

第六章で詳述するが、そもそも、歐米自由主義(資本主義)と共産主義とは、いづれも産業革命を肯定的に評價し、その前提の下に思想を構築していゐ點において共通してゐる。皇紀二十五世紀初頭(西紀十八世紀後半)にイギリスで始まつた産業革命は、「生産技術の革新」と「分業體制の進展」による産業生産量の爆發的增大を可能ならしめた。しかし、このやうな生産量の爆發的增大といふ生産者側の状況に對して、消費者側では、それまでの社會組織構造などの拘束や限界のため、消費量や購買量の著しい增大變化は生じ得なかつた。著しい變化を餘儀なくされたのは、生産樣式を中心とする全社會組織構造であり、消費樣式に關はるものではない。いはば、産業革命は、「生産革命」にとどまり、「消費革命」を伴はなかつたのである。そのため、餘剰生産物の販賣市場の擴大と生産資源の調達による再生産を確保することが産業革命を維持發展させることになつたのである。本來、過剰生産がなされることに對應して過剰消費を求めることは、奢侈の奬勵であり背德である。過剰消費は決して美德ではない。しかし、この過剰消費を美德であるとすり替へる背德の啓蒙が資本主義を支へる根幹となつた。そして、餘剰生産物の消費を擴大するためと、生産に必要な新たな資源を調達するために、國外に市場を求める自由貿易へと必然的に押し進んだ。

『書經』に「玩人失德、玩物喪志」といふ教へがある。これは「人ヲ玩(モテアソ)ベバ德ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ」といふことであり、資本主義は、まさに失德喪志の經濟理論であり、人類をそれに導いたのが産業革命であつた。

この産業革命は、技術革新による生産樣式の變革及びこれに伴ふ生産社會體制の變革を意味するものであつて、人民の意志による新たな社會・政治變革を意味する「革命(revolution)」ではない。その實態は、人民の意志を全く介在しないところで行はれた、單なる産業の生産・流通・情報傳達などの「技術革新(technological innovation)」に過ぎないものを「産業革命(industrial revolution)」と命名しただけである。

それゆゑ、産業革命には當初は思想性がなかつたが、産業革命が求める「市場の擴大」と「資源の調達」の實踐を推進させるための思想が生まれるのである。それは、主として戰前に展開された「植民地主義」であり、また、戰後においても展開されてゐる「自由貿易主義」(世界主義、グローバリズム)である。

皇紀二十六世紀初頭(西紀十九世紀中頃)、恐慌の周期的發生や勞資の階級對立が激化するなど、産業革命思想の缺陷と矛盾が露呈した時期において、産業革命の推進は、歴史の進歩發展と歐米人民の福祉をもたらすものであり、産業革命の缺陷と矛盾は自然淘汰されるとする「歐米自由主義(資本主義)」に對して、マルクス(Karl Marx)は、産業革命思想の「修正主義」としての「共産主義」を主張した。

それは、産業革命の「生産技術の革新」と「分業體制の進展」がもたらした産業生産量の爆發的增大が社會全體の福祉總量を增大させ、それが歴史の進歩發展であるとする「進歩至上主義」と「生産至上主義」であり、歐米中心の單線的發展史觀である點において「歐米自由主義(資本主義)」の亞流である。修正された主な部分は、價値創造の源泉を「勞働」のみとし、獨自の生産物分配基準を設定した點(勞働價値説)と、資本主義社會が崩壞し共産主義社會が到來することは歴史の必然であるとする豫定説的宗教觀(預言)に基づいてゐる點(唯物史觀)である。マルクスは、資本主義(植民地主義、自由貿易主義)による世界市場の建設を、預言に向かふ歴史の進歩として肯定するのである。しかし、預言を導入した點で既に科學ではなく、その他の點についても、科學的破綻は否めない。

そもそも、勞働價値説は、勞働觀、宗教觀に基づくものである。舊約聖書では、勞働を神に背いた罰としての苦痛とするために、人が苦痛に耐えて生み出すものに對外的な交換價値を見出すのである。しかし、古事記では、勞働とは修理固成のための神の營みであり喜びである。働くとは、「はた(傍)をらく(樂)にさせる」喜びと捉へるのである。それゆゑ、勞働することは當然のことであり、その勞働によつて成し遂げられた成果に價値を見出す。つまり、勞働といふ行爲は生活の喜びであつて、それ自體に價値があるのではなく、勞働による成果(結果)に價値がある。ところが、マルクスの勞働價値説は、勞働行爲自體に價値を認める。どんなに鈍(なまくら)で怠惰な成果のない勞働であつても、それが苦痛であることに變はりはなく、その苦痛の代償として報酬を得るといふ意味で「行爲價値」があるといふのである。決して、勞働による有用かつ美的な成果を得たといふ「結果價値」を基準とはしないのである。そのために、この勞働價値説による共産主義社會は、勤勉を美德とせず、勤勉で有用な勞働と怠惰で無用な勞働とを同等に扱つた結果、怠惰が蔓延して國家が崩壞したのである。このことは、我が國も含め、官僚制國家に共通したものである。

ともあれ、後述するやうに、このやうな歐米自由主義(資本主義)や共産主義などの産業革命絶讃思想が、「生産」のみに着目し、生産物と資源の「消費」と「再生」を考慮に入れなかつたため、その思想的缺陷と矛盾が露呈し、地域紛爭の激化など世界の不安定要因や産業公害と環境破壞の原因が世界的規模で擴大擴散してゐるのである。ましてや、現在では生産活動によつて貨幣計算の富を增大させるのではなく、證券化された假想の金融商品などによる爲替取引といふ「賭博」が經濟を支配し、世界を不安定にしてゐる。それゆゑ、これらの思想や制度は、人類や民族の本能からして全く適合性はなく、いづれ世界の安定のために完全淘汰されるべき運命にあるものである。

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