國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第一巻】第一章 國體論と主權論 > 第五節:國體の本義

著書紹介

前頁へ

國體の樣相

では、これからは原點に戻つて、我が國の歴史・文化と、今まで國家が法とどのやうに關はり合つてきたかなどを檢討することによつて、我が國の文化國體と規範國體との具體的な内容を以下において明らかにしたい。

我が國は、唯物史學的には、皇紀五世紀(西紀紀元前三世紀)ころ、インドのアッサムや、支那の雲南省の山岳地帶に始まつた稻作が、複數の經路で傳來種による稻作が傳搬し普及したことを契機に、各地に形成された稻作主體の無數の農耕共同社會(Gemeinschaft)を構成單位として多數の部族國家群が發生した。そして、後に、その部族國家が相互に血縁結合して比較的平和裡に統一された部族血縁連合の統一國家としての大和朝廷が成立した。大和朝廷は、稻作農耕中心經濟の多數の部族國家の連合體として成立し、その部族の首長間の血縁的結合によつて統一された部族血縁連合統一國家である。即ち、日向一族、出雲一族、大和一族などの樞軸部族の首長が混血糾合して皇統を形成したものであつて、この血統糾合による皇統連綿に本質がある。皇統連綿という國家統合の象徴は、「血統の純粹性」にあるのではなく、「混血の廣汎性」にある。

大和朝廷では、精靈崇拜(アニミズム)と憑靈呪術(シャーマニズム)の遺制である「随神(かむながら)の道(かみのみち、神道)」を主宰する「總命(すめらみこと、すめろき」(天皇)が、祖先崇拜(祖靈信仰)に基づき、皇祖皇宗を含む八百萬の神祇(天神=天津神、地祇=國津神)に仕へ神事を司り、「社稷」の「祭り事」(政)を行ふといふ祭政一致の神政政治(Theokratie)が行はれた。

ここで、「社」は、「示」=「神」と「土」=「土地」との合字であり、土地の神(守護神)を意味し、「稷」は、五穀の神を意味する。從つて、社稷とは、五穀豐穰を祈り土地の神を祭る聖域を意味し、いづれも支那傳來の用語ではあるが、佛教の「一切衆生悉有佛性」、「山川草木悉有佛性」と同樣、多神教(總神教)信仰の核となる理念であり、これが轉じて、「國家」そのものを意味することになつたものである。

ともあれ、世界史上最長の血統連綿王朝である皇室の傳統は、「最長」だけに價値があるのではなく、皇祖皇宗から當今(今上陛下)の現在に至るまで皇統が連綿として繼續してゐるといふ「萬世一系」の男系男子の傳統に最大の意義がある。これは、我が國の傳統の中核を形成してをり、民族の同質性の理念的象徴なのである。

ただし、ここでいふ「民族」とは、歴史的民族(ヘーゲル)といふ意味で用ゐてゐない。一般に、民族とは、歴史、傳統、文化、言語、民俗、祭祀、宗教、生活、血縁、同族意識、気候、風土などの複合的な形成要因をもつて分類する歴史的民族概念で説明されてゐる。このやうな概念によれば、人種や國民(nation)の範圍とは一致しないので、民俗集團(ethnic group)といふ意味で「民族」を定義することになる。

思ふに、「民族」の形成要因は、民族教育(歴史、傳統、祭祀、宗教、言語などの教育)によつて培はれる自民族の歸屬意識に基づくものであつて、その民族が迫害を受け、戰爭で離散した流浪の民である場合や、他地域からの侵略を受け續けるなどの場合は、迫害や戰爭や侵略に對抗するための自衞手段として歸屬意識が昂揚し、歴史、傳統、文化、言語、民俗、祭祀、宗教、生活、血縁などの共通事項を認識して民族が形成されるのである。傳承と學習によつて觀念的にも歸屬意識は形成されることもある。また、國家及び社會への歸屬意識も自民族の歸屬意識と同質のものであつて、運命共同體である國家・社會に所屬して運命を共にする歸屬意識や、一般共同社會に同化する意識も、廣い意味では民族意識なのである。

このやうにして、戰爭や迫害や侵略の事實によつて民族が自覺的に形成され、その形成された民族によつて再び戰爭や迫害や侵略が繰り返されてきたのである。一般には、戰爭、迫害、侵略などを多く受けた民族ほど歸屬意識の強固な民族であり、これが少ない民族ほど歸屬意識が希薄な民族といふことになる。前者の例がユダヤ人や韓國・朝鮮人であり、後者の例が日本人である。しかし、我が國は、歴史的民族としての歸屬意識は顯在的には希薄であるが、それは島國といふ風土によるものであつて、むしろ共同社會への歸屬意識は比較的強固である。その意味では、我が國は、歴史的民族の分類によれば複數民族國家であらうが、歸屬意識の分類によれば單一民族國家といへる。

そして、その單一性は、我が國における「すめらみこと」(總命)といふ大和言葉に集約された理念であつて、各人の「個體發生原理」に根ざした各家族、各部族の「系統發生原理」である祖先崇拜(祖靈信仰)と軌を一にするものである。

ところで、ダーウィンの進化論を支持して、生物發生の根本理論としての一元説を主張したヘッケル(Ernst heinrich haeckel)は、「個體發生は、系統發生を繰り返す。」として、個體が受精し成體として誕生するまでの形態變化・發達の發生過程は、個體が屬する生物が過去から現在まで系統的に進化してきた過程(系統發生)を短縮したものであるとした。これも、進化論を支持した假説であり、進化論自體には問題があるとしても、雛形理論に基づく技巧的な説明であると云へる。そして、この説明を借用するとすれば、個々の人間の人生を人類の歴史の經過に擬へることもできる。人は父母の慈愛で誕生し、その父母もまた祖先の慈愛で生をうけた。そして、自らも慈愛をもつて子孫をまうけ、これが連綿と營まれる。親が子を慈しみ、子が親を敬ふは、人の本能(本性)にして全人類の普遍の理である。ここに、己が祖先から命を授かり生かされてきたとする感謝と敬虔思慕の念が祖先崇拜(祖靈信仰)、敬神崇祖へと昇華するのである。これは、儒教その他の宗教の教義によらずとも當然の歸結として受け入れられる人類の本能に根ざした人倫である。

続きを読む