國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第一巻】第一章 國體論と主權論 > 第五節:國體の本義

著書紹介

前頁へ

規範國體と成文法との關係

我が國は、歐米に比して歴史的に豐饒なる文化を保有してきたが、これとは對照的に整備された成文法が極端に少ない。これは、中央であると地方であるとの區別なく、歴史を通じての特徴である。法の名を冠するものは、「佛法」など少數であり、およそ人の行爲や結果の評價を規律するもの(規範)や人との約束事(契約)を文章化することは不信の顯れであるとする「文化」を形成していたのである。むしろ、文章化されるのは、治安が亂れてゐたり、人の信賴が保たれてゐない場合のやうに、その實效性に不安があるときに限られてゐた。從つて、我が國には、成文法による統治の傳統がなく、不文法の國であつたといふことである。成文法統治とされる律令制度は、皇紀十四世紀初頭(西紀七世紀後半)に成立したものの、部族連合による統治制と公地公民制といふ二律背反の制度が共存するなどの制度内矛盾により、その律令制度の確立と同時に崩壞し始めた。といふよりも、律令制度は、その當時、中國及び韓半島に存在する強大政權(唐、新羅)の脅威に對抗し、部族連合の統一國家を中央集權化するため、大化の改新に始まる一連の政治改革の手段の一つとして導入されたに過ぎない。そのため、對外的脅威が消滅し、中央集權化が實現すれば、律令制度それ自體にこだはる必要がなくなつた。このやうにして、律令制度は崩壞して、法體系である「律令格式」は形骸化し、形式上は「律令」の施行細則としての「式」に該當する鎌倉幕府の『御成敗式目』などの武家法も武家統治の基本を規律したものではなく、そのやうな状況のまま明治維新を迎へた。さらに、帝國憲法は、大政奉還から二十二年後に公布され、本質的には、それまでの統治態樣を追認し繼續する趣旨で制定された確認的規範であり、帝國憲法の制定を以て新たに統治態樣を定めて變更したといふやうな創設的規範ではない。しかし、その規律する内容は必ずしも一義的解釋に馴染まず、軍部及び内務省の權力肥大化をも黙認しうる程度に極めて柔軟なものでもあつた。また、そのやうな性格は、帝國憲法の改正法とされる占領憲法にも承繼され、第九條や自衞隊についても、文理解釋とは正反對の恣意的な解釋がまかり通るほどの柔軟性ある運用がなされてゐる。このやうな憲法の解釋と運用における柔軟性は、成文法統治の歴史と傳統が根付いてゐない我が國の特徴であつて、これは現代にまで引き繼がれてゐる。

我が國で明治維新政府の統治體制が一應固まつた後に、歐米流の憲法典を導入するに至つた背景事情は、過去に律令制度を導入しようとした状況と全く同樣である。我が國は、肇國時において部族連合の統一國家であつたが、その後、外壓によつて中央集權化をしなければ對抗しえないとの判斷から、國體(規範國體)を入れて置く「容器」としての法體系が必要となつた。しかし、それは誂へたものでないため、「容器」としては些か不釣り合ひであり、全部入り切らない不充分なものではあるが、支那の「律令制度」を借用した。これと同樣に、明治維新においても、國體(規範國體)を入れておく「容器」として、「立憲主義的意味の憲法」といふ制度を借用したのである。そして、共に、容器として不充分なものであつたために、國體(規範國體)の「復元力」によつて解釋・運用の「柔軟性」が發揮される。これが、成文法統治の歴史と傳統が完全には根付かなかつた我が國の國家體質(國體)なのである。

支那の律令制度の導入を中國式法典形式で完成させた『大寶律令』がさうであつたやうに、歐米流の立憲主義制度の導入を憲法典形式で完成させた『帝國憲法』もまた、當時の規範國體の全てを明徴してゐないし、またその必要性も認識しなかつた。歐米流の憲法典には、傳統と國體を明徴させる機能がなく、單に、統治權の歸屬、統治基本原理及び人權制限條項としての人權規定など、權力的事項を明示することに主たる制定理由があつたからである。ましてや、當時は、王朝と傳統にとつては逆風の時代であり、革命國家も傳統國家も、權力的事項中心の統治基本法の制定が最大の關心事であつたためでもあつた。

從つて、多くの國家の憲法典には、權力的要素に基づかない規範國體に關する事項が含まれてゐない。といふよりも、少なくとも革命國家には、王朝と傳統が存在せず、從つて、非權力的な規範國體なるものは殆ど存在しなかつたのである。

我が國では、帝國憲法制定に關して、イギリス流の政黨内閣制度を導入するについて、政府内部にも急進論(大隈重信ら)と漸進論(伊藤博文ら)との對立があつた。しかし、明治十四年の政變以降は漸進論が支配して、その下で『プロイセン憲法』(1850+660)などの影響を受けた『帝國憲法草案』が立案された。そして、元老等による審議の結果、『帝國憲法』として制定されたものであつて、制定過程からすれば「欽定憲法」ではなく、結果としての「欽定憲法」であつたのである。

ところで、成文憲法國家と不文憲法國家の區分に從つて、成文憲法の有無といふ「現在性」の指標のみで判斷し、「傳統性」を考慮に入れない分類方法によつて、「イギリスは世界で唯一の不文憲法國家である。」との結論を導き、我が國は成文憲法國家であるとする見解がある。しかし、このやうな分類と結論には、前述したところからも知りうるやうに、何らの有用性もない。ある國家が現時點において成文化した憲法(典)を持つか否かによつて分類してみたところで、その結果からは何ら國家の本質を決定しえない。これまで不文憲法の國家が、その内容を明確化するために成文の憲法典を作成しようとするとき、不文憲法の内容のすべてを網羅的に憲法典に組み入れて記述することは極めて困難である。成文化できないものや記述することに限界がある内容もあるので、成文の憲法典を持つからと云つて、その國家が成文憲法國家であり、それ以外の不文憲法がないとすることはできないのである。

そもそも、成文憲法國家と不文憲法國家といふ二分法による分類方法は、その前提として「不文憲法」の存在を認めてゐるのであるから、憲法の存在形式(法源)を成文法に限定してゐない立場であつて、既に自然法の存在を肯定してゐることになる。そして、その自然法は、傳統に依據するものであるから、やはり、成文憲法の有無にかかわらず、傳統性を考慮にいれなければならないのである。

これもまた、實證法學の隘路であり、自然法である規範國體を無視しては、國家の本質を解明しえない。統治權の行使態樣といふ帝國憲法の根本規範とされる事項についても、明治政府の沿革や制定過程などを斟酌しなければ解釋しえず、その制定過程などは、帝國憲法の告文に「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」と表現されてゐるとほり、帝國憲法が自然法である規範國體に依據してゐることを明らかにしてゐる。しかも、帝國憲法が規範國體の「すべてを昭示」したとの限定はされてゐないため、それ以外にも昭示されてゐない規範國體に屬する事項が存在することは當然であつて、實質的意味の憲法の法源(法の存在形式)を成文憲法のみとすることはできない。規範國體の法源は、傳統の中の條理や自然法に求められるのであつて、帝國憲法及びその下位法令(受權規範)である占領憲法のみの實證法學的解釋だけに終始するだけでは、我が國の規範國體や根本規範などの本質を探索することは到底不可能なのである。

続きを読む