國體護持總論
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根本規範

次に、このやうに規範國體の概念を設定した場合、これと實證法學に由來する「根本規範」といふ概念との關係はどうなるのであらうか。

根本規範とは、近代國家の法秩序の始源的規範として、その實質的意味の憲法の内容を限定するものとされてゐるが、その實際的な效用は、特に、成文憲法の改廢を限界づけるものとして、成文憲法の全規範の中から改廢不能の條項及び制度などを抽出することにあつた。

ところで、成文憲法の全規範から根本規範を抽出して成文憲法規範の段階構造の存在を認めるためには、一定の價値基準のモノサシが必要となる。このモノサシが成文憲法内に明確な形で備はつてゐる場合は極めて少ない。これが備はつてゐる場合は、實證法學においても問題はない。しかし、成文憲法に特定の條項を改廢することを不許とする改廢制限條項がなく、また、各條項間の優劣を定める價値序列條項がない場合は、どのやうにして「根本規範」を抽出しうるのであらうか。

このやうな場合、純粹の實證法學の立場であれば、根本規範の抽出を斷念することになり、憲法改正無限界説に歸着することになるのであらうが、一般には、「何か」を手掛りに根本規範を抽出しようとする。その「何か」とは、成文憲法の上諭、告文、敕語、前文、さらに制定過程、立法者の意志など、成文憲法本文以外のものである。これは、結果的に、成文憲法以外の「規範」をもつて成文憲法の規範の序列を決定することになり、實定法の效力の優勢順位を客觀的に決定しようとした法段階説では説明しえない矛盾を引き起こす。つまり、これを許容するのならば、成文憲法よりも、その告文や前文などの方を上位規範(根本規範)とすることになるからである。成文憲法の全規範の内から、改廢制限條項や優先價値條項である根本規範を抽出することは、解釋法規や補充法規としての機能ではなく、規範定立の機能であるから、「法の創造」であつて「法の解釋」ではない。從つて、屋上屋を重ねるが如き、根本規範よりも上位規範の實定法を發見できなければ、實證法學による説明は不可能となる。

この實證法學は、ドイツにおいて發展成熟し、我が國においても戰前戰後を通じて、憲法典(近代憲法としての條文の體をなしたもの)である帝國憲法の制定を契機として展開され、我が國の國法學及び憲法學の主流を形成するに至つた。しかし、その政治思想的な意義としては、實證法學が國家法人説や國家主權説と連携して發展することによつて、自由主義思想が堕落し、法治國家の思想が形式化して、結果的にナチズムの臺頭を許すに至つたドイツにおける場合と同樣、左右の全體主義が釀成する温床となつたことを直視しなければならない。

さらに、根本規範をめぐる實證法學の矛盾は、次の諸點にも存在する。

先づ第一に、ある法規が「實質的意味の憲法」であるか否かを決定するについては、その法規の内容が「國家の統治體制の基礎を定めてゐる根本法」(固有の意味の憲法)であるか否かによるものであつて、その法規名稱に「憲法」とか「根本法」とか「基礎法」などといふ名前が付されてゐるか否かによることなく判斷されるとする點である。さうであるならば、帝國憲法公布施行の前後において成文化された『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)及び『教育ニ關スル敕語』(資料十三)なども實質的意味の憲法の存在形式として評價されるはずである。

ところが、いつの間にか何の根據も示さずに、憲法典である『帝國憲法』のみを實質的意味の憲法とするやうになつたのである。これは、成立に至る歴史的經緯と、國家統治の基礎を定めた内容からして、當然に實質的意味の憲法の一つに過ぎないとされるべきであるのに、その他のものをこれに含まないとして否定することは論理的整合性を缺いてゐる。さらに、聖德太子の『憲法十七條』については、官吏の執務心得を説いたものに過ぎないので「憲法」ではないとする。しかし、官吏の執務心得に關する規定も國家の統治體制の基礎を形成する重要規範の一つであり、現に、占領憲法には、その第十五條第二項、第六十六條第三項、第七十六條第三項及び第九十九條などの公務員に關する規定があり、今日においては、これらの規定の存在意義は益々重要となつてゐるものである。ところが、これが憲法であるとしたら、どうして憲法十七條は憲法でないのかについても論理的な説明がなされてゐないのである。

第二の矛盾は、實證法學によると、占領憲法が實質的意味の憲法であるか否か、また、そのうち根本規範は何であるかについての議論においても、占領憲法の敕語が帝國憲法第七十三條による改正であると表示し、前文が國民主權を表明してゐることを根據として、占領憲法が實質的意味の憲法であり、「國民主權主義」が根本規範であることを肯定してゐるとする點である。そもそも「國家の統治體制の基礎を定めてゐる根本法」(固有の意味の憲法、實質的意味の憲法)とか、「法秩序の始源的規範」(根本規範)といふ概念の定義自體が抽象的であり、實定法だけを法と認める實證法學らしからぬ定義である。また、このやうな抽象的な定義から、具體的にどれが根本規範に該當するのかを一義的に判斷することは實證法學の立場からでは到底できない。しかも、前文に書かれてゐることが根本規範であるとすることは前文にも明記されてゐないので、根本規範が何であるかを斷定できる決め手がない。前文と本文とを形式的に比較すれば、本文の方が規範としては優先的かつ確定的な效力があるはずである。確かに、一般的には、前文には、制定の趣旨や基本原則を規定する場合も多く、占領憲法の前文もそのやうな性質であることは認められる。しかし、さうであるからと云つて、それでは、どの部分が基本原則であり、改正不許なのかは判別しえないのである。しかも、占領憲法は、GHQによる完全軍事占領下の非獨立時代に成立したものであり、GHQの強制的關與によつて占領憲法が成立したといふ政治的な時代背景と立法趣旨、そして立法事實を考慮しなければ、實質的な判斷はなしえない。立法事實とは、その立法行爲の正當性、必要性を支へる立法政策上の基礎的事實のことであるが、非獨立の被占領状態での立法事實と獨立状態での立法事實とが同じであるはずはないので、占領憲法の立法事實を獨立後のそれと同視することは到底できない。さうすると、占領憲法について云へば、これが「實質的意味の憲法」に該當するのか、その「根本規範」は何なのかといふ價値判斷は、實證法學が判斷の対象外とする國際政治的要素のある立法事實に左右されることになるために、實證法學では定義付けられないといふ根本矛盾が生じてしまふ。つまり、實證法學では、存在する「規範」のみを対象とし、占領憲法が占領統治下において制定されたといふ極めて政治的な要素を含む「立法趣旨」と「立法事實」を対象とはしないからである。經驗的な事實のみを法認識の対象とする實證法學では、政治的要素を考慮することを拒否するのであるから、「被占領状態」での立法であつたといふ、この極めて政治的要素の強い立法趣旨と立法事實を対象外とせざるをえなくなるのである。つまり、實證法學からすると、占領憲法がGHQの軍事占領下における非獨立時代の所産であるとする重大な政治的要素を捨象することになるので、占領もされず完全な獨立状態で制定された憲法と、被占領下の非獨立状態で制定された憲法とを同視することになる。そして、「占領憲法」は「自主憲法」であると認識し、占領憲法は憲法として有效であるとの結論に至る。占領憲法を憲法として始源的に有效であるとするすべての見解は、多かれ少なかれ、この實證法學の馬鹿げた論理に毒されてゐる點において共通してゐるのである。

以上からすると、自然法を否定して實定法のみを認識對象とし、法を形式論理的に考察する實證法學(法實證主義)の立場は、國家の本質を究明することに無力である。實證法學は、文化國體を經驗的な事實としては捉へず、經驗的な事實を超えた自然法の領域とするのである。そのために、國家の本質を否定又は無視し、あるいは國家の本質を究明することを放棄してゐる。しかし、文化國體とは、現存してゐる經驗的な事實なのであつて、決して超經驗的なものではない。反復繼續して現存してゐる經驗的な事實であるがゆゑに「文化國體」なのであつて、これが經驗的な事實として認識しえないといふことは大きな誤りである。しかし、いづれにせよ、このやうな體たらくの實證法學では、國家の本質を究明する能力が全くないので、この究明のためには、どうしても自然法學的視座が必要となつてくる。その場合、法段階説的見地は、實質的意味の憲法や根本規範の意義を明確にする意味において、實證法學よりも、むしろ自然法學において有用な見解となつてくるのである。

そして、實證法學と自然法學とがそれぞれ科學性をさらに追求して行けば、兩者は融合して最後には「國體論」へと収斂する。

そこで、後に詳述するとほり、ある法規の法規名稱が「憲法」その他最高規範を意味する名稱であることから直ちにそれが成文憲法(形式的意味の憲法)であるとするのではなく、また、そのやうな法規名稱でないものについても、名稱の如何を問はず、その實質的内容が規範國體を構成する國家統治の基本原理と制度等に關する始源的規範を含むものである限り、それを實質的意味の憲法の法源と評價すべきことになる。さうすると、『帝國憲法』(資料十二)及び『皇室典範(明治典範)』(資料十一)のみならず、『天津神の御神敕(修理固成)』(資料一)、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗)』(資料二1、2、3)、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』(資料三)、聖德太子の『憲法十七條』(資料四)、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』(資料五)、『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)及び『教育ニ關スル敕語』(資料十三)なども實質的意味の憲法の存在形式(正統憲法法源)と認められるが、占領憲法は實質的意味の憲法ではあり得ないことになる。そして、これら實質的意味の憲法とは、文化國體(傳統總體)などから紡ぎ出された規範的側面の一部であつて、これらの規範の中から、さらに、國家、皇統及び臣民などに關して萬古不易なものとして抽出された規範事項が「規範國體」であつて、それがまさしく「根本規範」と呼ばれるものなのである。