國體護持總論
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著書紹介

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自存自衞

大東亞戰爭は、まさに「思想戰爭」である。我が國は『ポツダム宣言』(資料二十三)を受諾して停戰したものの、昭和二十年六月八日、御前會議においてなされた、「聖戰完遂」、「國體護持」、「皇土保衞」の國策決定は未だ取り消されてはゐない。大東亞戰爭は聖戰であり、その聖戰を完遂するについて、ひとまづは停戰したのである。そして、昭和二十六年九月八日にサン・フランシスコ(桑港)において調印し、同二十七年四月二十八日の發效によつて我が國が獨立を回復した最終の講和條約である「桑港條約」(『日本國との平和條約』資料三十六)によつて、「戰爭状態」を終結させたものの、聖戰完遂のための再戰を放棄したのではない。つまり、我々は、火器が使用されてはゐないが、捏造情報の喧傳などの手法による攻撃を受け續けてをり、情報戰爭の形態で未だに大東亞戰爭が繼續してゐるといふ認識に立たねばならない。

大東亞戰爭が侵略戰爭であつたとする謬説は、この情報戰爭において敵側の用ゐる情報戰術といふべきであつて、大東亞戰爭は、紛れもなく自衞と解放のための聖戰であり侵略戰爭ではない。その理由は多岐に亘るが、歴史的事實の檢證の詳細については多くの研究成果が發表されてゐるのでそれに讓る。本書では主に、これまでの戰爭の國際法的な觀點で述べてみることにする。

我が國は、明治三十四年九月、清との間で他の連合國とともに『義和團事變最終議定書』による條約に調印し、以後、この條約により諸外國とともに支那大陸に支那駐屯軍を置く「駐兵權」が承認された。昭和十二年七月、蘆溝橋で不法射撃を受けたのは、まさに我が國の支那駐屯軍だつた。この北支事變により、さらに戰火が擴大したのが支那事變である。戰略、戰術の巧拙は別としても、國際法上も違法な「侵略戰爭」ではありえないし、對米英戰爭は勿論のこと、全體としての大東亞戰爭は侵略戰爭ではない。

すなはち、我が國が昭和四年に締結した『戰爭抛棄ニ關スル條約』(パリ不戰條約)について、當時の國際法解釋によれば、戰爭は、「自衞戰爭」と「攻撃戰爭」(war of aggression)とに區分され、後者は、一般に、自國と平和状態にある國に向かつて、相手方の挑發的行爲を受けてゐないにもかかはらず先制的に武力攻撃を行ふことを意味し、それ以外は全て自衞戰爭としてゐたのである。そして、このwar of aggressionを、極東國際軍事裁判(以下「東京裁判」といふ。)において、連合國軍最高司令官總司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers 以下「GHQ/SCAP」又は單に「GHQ」といふ。)の指示によりこれを「侵略戰爭」と誤譯したことから、略取、掠奪の意味を含む一般的な「侵略」の概念との混同を生じたことが今日の混亂を招いてゐるが、いづれにせよ、自衞戰爭か侵略戰爭か、それがいづれの戰爭であるかの判斷については、各國に「自己解釋權」が與へられてをり、支那事變を含む大東亞戰爭は、まさに開戰詔書にもあるやうに「自存自衞」の戰爭であつた。

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