國體護持總論
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防衞論

このやうに、中華思想の支那、事大主義の韓半島などの陋習により、不運にも、我が國以外の東亞の各國及び各地域では、いづれも舊習派勢力に押されて、開明派による國論統一と政權奪取による獨立の維持は必ずしも成功を納められなかつた。そのため、我が國内では、東亞における歐米列強の植民地支配に對して、あくまでも東亞全域の連帶によつて對抗すべきか、我が國が單獨あるいは盟主となつて對抗して東亞全域の解放を行ふべきか、などの國防上の思想的葛藤が當初から生じてゐたのである。

歐米列強の侵略から我が國の獨立を守るため、我が國において觀念的に存在した防衞に關する理念としては、①「受動防衞論」、②「能動防衞論」、③「領土擴張論」、④「東亞解放論」の四つが考へられた。

先づ、①の「受動防衞論」とは、我が國一國だけで富國強兵政策を推進し、歐米列強による植民地化を防ぎ軍事的に防衞して獨立を堅持しようとする考へ方である。これは、過去の「攘夷論」の延長線上にはあるが、薩英戰爭(文久三年1863+660)と翌年の馬關戰爭(下關戰爭)などで得た教訓により、當時の世界情勢では、鎖國をして攘夷を行ふといふ鎖國攘夷論では實現困難であるとして、開國をして防衞力を增強した上で攘夷を行ふといふ開國攘夷論へと應變した。しかし、前章で述べたとほり、林櫻園は、明治新政府に對し、このまま開國を續けば尊皇敬神の傳統は朽ち果てることを強調して、直ちに歐米と國交を斷交し、それによつて諸外國が攻めて來ても、我が國は敵を内部に引き入れてゲリラ戰で對抗すれば、必ずや勝利し獨立を保持できる旨を説いてゐた。つまり、我が國には、當時の自給自足體制による國力の強みがあり、侵略軍には海上經由による兵站の限界があることから、侵略軍が持久戦に耐えることができないために我が國が必ず勝利できると説いたのである。これは、元寇のときも同じ状況であり、まことに卓越した見解であつたが、新政府の理解を得られなかつたのである。これは、當時としては可能であつても、自給自足體制が崩壞した我が國の現状においては全く不可能なこととなつてしまつた。いづれにせよ、現代においてもこの受動防衞論の系譜に屬するものとしては、「專守防衞論」、「非同盟中立論」及び「食料安全保障論」などがある。

また、②の「能動防衞論」とは、未だ歐米列強の植民地となつてゐない韓半島や支那大陸などの隣國地域の政治的・軍事的安定が我が國の防衞と獨立に重大な影響を及ぼすとの認識から、同地域との經濟的・軍事的連帶を強固にして自國及び同地域の獨立を堅持しようとする考へ方である(勝海舟)。これは現代で言へば地域的集團安全保障の方向である。しかし、當時、理念としては存在しえても實際はこれが實現しうる環境にはなく、滿洲國との同盟關係が現實の限界點であつた。これら①と②の防衞論は、いづれも自國防衞のライフライン(生命線、松岡洋右の言葉)がどこの領域にあるのかの視點が相違してゐた。

次に、③の「領土擴張論」とは、日本の國益推進(食料、資源、エネルギーの確保)のためには自國に隣接した地域を固有の領土として擴張し人民を同化して一體とすべしとする考へ方である(佐藤信淵、吉田松陰)。當時は「大アジア主義」とも呼ばれた。しかし、これはあくまでも「領土主義」であつて歐米の「植民地主義」とは異なる。前者は、廣域の多民族國家を前提として領土の本國化と人民の同化を推進して投資と改革を行ふのに對し、後者は、植民地を本國化させず、收奪のみを目的とするからである。殊にそれは、教育政策について顯著である。前者は、「一般教育」を徹底し、教育の機會均等を實現するのに對し、後者は、本國に協力する者のみを養成するための「差別教育」を實施したからである。これらの相違を無視して全てを「植民地主義」ないしは「植民地」と表現するのは用語上も正確ではない。我が國の臺灣と韓半島に對する統治方針は、前者に屬するものであり、廣域他民族國家を前提として、それを段階的に廣域單一民族國家へと移行させるものであつた。「日韓併合」といふ領土擴張論は、右の理念に加へて、「日韓同祖論」といふ思想によつても補強されてゐた。當時、伊藤博文は、これに反對し、韓半島の獨立による能動防衞論を主張してゐた。しかし、同じく日韓併合に反對してゐた獨立原理主義者で著しい政治オンチである「安重根」が伊藤博文を暗殺(未遂)したことにより、皮肉にも、能動防衞論は急速に退潮し、領土擴張論による日韓併合へと加速したのである。また、日露戰爭は、假にその目的が領土擴張論に基づくものであつたとしても、その效果は、歐米列強の一員である帝政ロシアといふ大國に勝つたことにより、「白人不敗神話」を崩壞させ、東亞解放論への序曲となつた畫期的な戰爭であつた。

最後に、④の「東亞解放論」とは、第一章でも述べたやうに、アジア解放のための解放戰爭權の行使(思想戰爭)を肯定する考へ方である。③の「領土擴張論」には軍事費的にも限界があることから、②の「能動防衞論」によるとしても、アジア地域の殆どが歐米列強の植民地となつてをり、防衞的見地から連携しうる地域が獨立してゐなければならず、そのためには、まづはアジア全域を解放獨立させることが防衞上の先決課題であるとの認識によるものである。これは、我が國の國力の增強に伴つて登場してきた考へ方である。

ともあれ、當時の我が國において、現實の國際情勢からすれば、地理的・軍事的に韓半島の政治的安定が我が國の獨立維持にとつて重大な影響を及ぼすとの認識から、積極的な防衞論が主流を占め、結果的には、日清戰爭、日露戰爭を通じて、我が國は、獨立を維持するため、韓半島及び支那大陸に堡塁を築くに至つた。

振り返れば、我が國と韓半島及び支那の三地域間は、歴史の總體としては、平和な文化交流が行はれてきた關係であつたといへるが、斷續的には、この三地域間で相互に侵攻しあつたといふ歴史的事實がある。支那と韓半島との相互侵略については、現在の國境を基準とすれば、兩地域の地理的・政治的要因から、相互に、とりわけ支那から韓半島に對して頻繁に侵略が行はれた。また、我が國の韓半島への侵攻は、豐臣秀吉の文祿・慶長の役(1592+660~1598+660)がある。文祿の役では約十五萬人、慶長の役では約十四萬人といふ規模の戰爭であつた。さらに、我が國の韓半島及び支那に對する侵攻は、明治維新以後にも行はれた。しかし、これに先立つて、韓半島及び支那による日本への侵攻があつたことも忘れてはならない。即ち、支那の元(フビライ・ハン)及び韓半島の高麗(元宗及び忠烈王)との連合軍が行つた我が國に對する侵攻は、文永の役(1274+660)と弘安の役(1281+660)の二回である。文永の役では、蒙漢軍一萬五千人、高麗軍一萬四千七百人(梢工水手を含む)であり、弘安の役では、蒙漢軍一萬五千人、高麗軍二萬七千人(梢工水手を含む)、南宋軍十萬人であつた。

文祿・慶長の役や文永・弘安の役といふやうに、この「役」の意味は、爲政者が人民に對して兵役・苦役を課して徴發するといふことであり、それは、侵攻する側も侵攻される側も、常に苦役を負ふのは雙方の人民であるからである。

相互侵攻の歴史の評價に必要なことは、進攻の先後、回數、軍隊の規模、被害の程度などの各事實ごとに微視的かつ詳細な檢討もさることながら、日支韓の三地域の地理的、政治的情勢とそれを取り卷く世界政治情勢を總合して巨視的な「世界史」の視點からの檢討が重要である。一般的に、他地域間の交流は、正常時は文化を育み、異常時には破壞をもたらす。日支韓の三地域も例外ではなく、文化的に密接な關係があつたことと相互侵攻とは無關係ではなく、表裏の關係である。

近年における我が國の韓半島と支那への侵攻は、結果的には歐米列強の東亞支配に對する大東亞戰爭への布石ではあつたが、必ずしもその目的は明確ではなかつた。その原因は、前に述べたやうな防衞理念の區別が完全になされず、第一章で引用した北一輝の『日本改造法案大綱』の拔粹部分の第二文、すなはち「國家ハ又國家自身ノ發達ノ結果他ニ不法ノ大領土ヲ獨占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者ニ對シテ戰爭ヲ開始スルノ權利ヲ有ス(即チ當面ノ現實問題トシテ豪洲又ハ極東西比利亞ヲ取得センガタメニ其ノ領有者ニ向テ開戰スル如キハ國家ノ權利ナリ)」の意味が、領土擴大、併合同化による自存のための自衞戰爭として肯定したものか、あるいは解放戰爭を根據付けたものかが思想的にも不明確であつたことなど、當時は國防の基本方針が確立してゐなかつたことによる。そのため、我が國の支那大陸への侵攻が、現實には、歐米のやうな植民地支配目的の侵略戰爭ではなく自衞戰爭であつたことは前述のとほりであつたとしても、東亞解放の目的による思想戰爭であると明確に位置付けられなかつた曖昧さは殘つた。それは、英米に對して窮鼠猫を噛むが如き自衞戰爭に、身を殺して仁を成すとの解放戰爭の大義を抱き合はせたことによるものである。しかし、その大義の存在こそがまさに「聖戰」であることの所以である。

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