國體護持總論
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韓半島の宿痾

李氏朝鮮末期に掲げられた「内修外攘」、「斥邪衞正」及び「親清守舊」や、明治三十三年(1900+660)の北清事變において義和團の掲げた「扶清滅洋」とか「興清滅洋」のスローガンは、我が國の幕末における「尊皇攘夷」や二・二六事件における「尊皇討奸」、「昭和維新」と同樣、政策論のない情緒的な事大主義や大義名分論に基づくものであり、必ずしも開明思想に基づくものではなかつた。この事大主義とは、本來は「以小事大」(孟子)、即ち、小國が大國に事(つか)へてその國を保んずることを言ふが、轉じて、主體性なく勢力のある者に從ふことを意味するのであつて、韓半島では、今もなほこの事大主義による「屬國病」に犯されてゐる(崔基鎬)。

ところで、「東亞(大東亞)」とは、日本、韓半島(朝鮮半島、以下「韓半島」といふ。)、支那、インドなど廣汎な東アジア及び西太平洋の全域を總稱するが、ここで、「韓半島」といふ名稱を用ゐたのは、現在、大韓民國が用ゐてゐる呼稱に從つたといふ單純な動機からではない。我が國と「大韓帝國」との明治四十三年(1910+660)八月二十二日の『日韓併合條約』の調印に遡ること十三年前の明治三十年(1897+660)に、韓半島に存在した中國清王朝の從屬國(宗屬關係)であつた李氏朝鮮(李朝)が、「稱帝建元」運動を結實させて、有史以來初めて支那からの完全獨立を宣言し、第二十六代高宗王が中華圈における皇帝の臣下を意味する朝鮮國王の稱號を廢して、はじめて自ら大韓帝國皇帝を稱し、迎恩門を破壞した跡地に獨立を記念する西洋式の獨立門(史蹟三十二號)が建立された。迎恩門とは、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の敕使が漢城(ソウル)を訪れたときに、朝鮮國王が同所まで迎へ出て、敕使に對して九回叩頭する禮を行なふ場所であつた。

迎恩門を破壞した跡地に獨立門を建立することができたのは、日清戰爭で清王朝が敗北し、その權威が失墜したといふ周辺の國際環境が他律的に變化したことを契機とするものであつた。これは、韓半島の政權にとつて畫期的な事態であり、それゆゑに、その後になされた大韓帝國との併合は、「日朝併合」ではなく「日韓併合」であつた。しかし、我が國が、日韓併合後において、韓民族の自決と獨立心の象徴である「大韓」又は「韓」を用ゐずに、敢へて、宗主國であつた明國皇帝から下賜された國名である「朝鮮」名(朝鮮人、朝鮮半島、朝鮮總督府などの名稱使用)を復活させたのは、韓民族に再び非獨立時代の屈辱を與へるための差別意識に基づくものであると判斷しうるので、たとへ、「朝鮮」と自稱する韓民族が多數ゐたとしても、固有名稱や慣用語は別として、我が國が自覺的に用ゐる場合には「韓」の名稱を使用すべきものと考へるからである。それでも今なほ韓半島に根強く巣くふ「屬國病」といふのはかうである。

無賴漢が他民族(唐)の勢ひを借りて自分たちの民族國家(百濟)を打倒して唐の屬國に成り下がつた「統一新羅」。そして、民族國家の高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の屬國と成り下がつた「李氏朝鮮」。この統一新羅の二百五十九年間と、李氏朝鮮の五百十八年間の、通算七百七十七年の屬國時代によつて韓民族の民族性は歪められた。なほ、高句麗は、建國の始祖である朱蒙がツングース系(滿洲族)であり、韓民族を被支配者とした滿洲族による征服王朝であつて、韓民族の民族國家ではない。

李氏朝鮮は、寛永十四年(1637+660)一月三十日に清の屬國となつたのであるが、このとき、朝鮮王の仁祖は、命乞ひをし、それまで輕蔑してゐた胡服を着て、現在のソウル特別市松坡區石村洞三田渡の地に設けられた「受降壇」(降伏を受け入れる拜禮壇)において、清の太宗に向かつて、九回地面に頭をつけて叩頭する拜禮を行ひ、その後に清からの一方的な講和を結ばされた。その屈辱的な記念碑である「大清皇帝功德碑」(大韓民國史蹟第百一號指定)が同所に殘されてゐるが、これを三田渡碑とか恥辱碑と呼ぶものの、同じく李氏朝鮮が宗主國である清(大清帝國)の從屬國(屬國)であることの證しとして清から下賜された「太極旗」を原型とする旗を、「屬國旗」とか「恥辱旗」とせずに、未だに大韓民國の獨立國旗として用ゐてゐることも、屬國病の重篤な症状の一つに他ならない。太極旗の意味するものは、宗主國の命ずるままに國家教學とされた朱子學の學祖である朱熹の理氣説を易學的に顯したもので、韓民族の獨自性などはどこにもない。そして、韓國が支那の屬國旗を使用し續けることは、政治的に見ても、現在の中共が推し進める領土擴張政策に絶好の口實を與へることにもなる。にもかかはらず、韓國が新たに獨立國の國旗を求めることをせずに、屬國病からくる習性として太極旗を今でも國旗として掲げ續けることに、韓民族に染みついた慕華と受降によつて恥辱を名譽に倒錯してしまつた「刷り込み」の悲哀を感じざるを得ない。恥辱を名譽に倒錯させることによる怨恨の鬱積は、ニーチェのいふ「ルサンチマン」であり、これが韓國の「恨(ハン)」の正體なのである。

我が國は、東亞百年戰爭開戰から今日に至るまで、理想に燃えて自己犧牲を強ひながらも、人智の及ばざるところで幾つかの過ちと行き過ぎを國の内外で犯してきた。しかし、だからと言つて、決して東亞百年戰爭の終着點である大東亞戰爭が誤りであつたことにはならない。我が國は、東亞を歐米の植民地支配から解放し、東亞の一部地域に對して近代化のための投資と改革を行つた。これは、歐米のやうな侵略と收奪のみの植民地支配とは全く異質のものである。

我が國は、人道上も許しがたいイギリスのアヘン戰爭(1840+660)後の臺灣人民が阿片漬けにさせられてゐたのを阿片漸禁方式で阿片から解放した。アヘン戰爭がもたらした慘禍は、人民のアヘン中毒による社會の荒廢であり、これから解放されるまではアヘン戰爭の「戰後」は終はつてゐなかつたのである。我が國が、臺灣におけるアヘン戰爭の戰後處理と復興に努力し、産業の振興のための指導と投資をしたことが今日の臺灣發展の基礎となつた。また、韓半島においては、獨立運動などを制壓し、特に、戰時體制の強化が必要となつた昭和十年代になつてから、日韓同祖論を強調し、内鮮一體の皇民化政策による日本語常用の強制、創氏の強制と改名の許容及び徴用などが行はれるやうになつたが、これらは日韓併合政策の促進による韓半島の近代化を目的とするものであつた。つまり、李氏朝鮮時代末期における韓民族間の虐待・差別の温床であつた兩班制度を廢止し、教育の機會均等を實現するため韓半島全域に學校その他の公共施設の建設や發電所、各種産業の生産工場施設等の建設など、社會資本充實と社會制度改革のために人的・物的・技術的投資と援助を日韓併合前から毎年繼續して行つてきたのである。

その物的援助面での豫算規模は、當時日本の毎年の一般會計歳入豫算の四パーセント強(平均値)であつた。これら一連の「同化政策」は、その内容と方法の當否や功罪について議論のあるところであるが、「植民地政策」とは隔絶され、これと一線を畫する性質のものであつた。

當時の國際社會において、文明國の列強が文明未開地域を植民地化することは國際法上も合法とされてゐた。文明を世界に廣げることは正義であり、その手段としての植民地化は是認されるといふものであつた。それゆゑ、我が國が文明國の仲間入りをして未開の韓半島などを植民地化することも、他の列強は認めてゐたのである。

しかし、列強のいふ植民地化といふのは、實際には、決して植民地の文明化ではなく、むしろ、植民地の收奪であり、未開状態を固定化することであり、それが今日の南北問題の遠因になつてゐるものである。

そこで、我が國は世界の文明化を忠實に進展させるためには、收奪目的の植民地化ではなく、廣域多民族國家の建設による併合同化こそが未開地域の文明化を推進することであると考へた。植民地にするのであれば歐米の植民地のやうに地球の裏側の海の彼方でもよいが、併合同化なら近隣地域、隣接地域でなければ、新國家の建設はできない。そのために、臺灣であり韓半島であつた。

また、國防意識が全く缺如した屬國病の未開地域が隣接するといふことは、我が國の國防にとつて重大な危機である。韓半島は支那の屬國ではあるが、支那もまた國防意識が缺如し、帝政ロシアの南下政策の標的となつてゐたからである。從つて、韓半島の政治に關與することは我が國の自衞のために必要不可缺なことであり、韓半島の保護下に置き、併合するに至つたのは、國際法上も容認される行爲である。そもそも、國際法による保護を受けられるのは文明國( Civilized Country )に限るとするのが國際法であり、日韓併合時の韓半島の李氏朝鮮は文明國でないことは國際的常識でもあつた。

袁世凱は、韓半島は萬國の中で最貧弱國の状態であつたと言ひ、しかも、支那の清ですら文明國ではなかつたのであるから、清の屬國である李氏朝鮮は尚更のことである。

宗主國の清王朝ですら、アヘン戰爭(1840+660~1842+660)、そして、第二次アヘン戰爭ともいふべきアロー戰爭(1856+660~1860+660)により、英國に香港島、九龍半島を奪はれ、さらに、南下政策の帝政ロシアに旅順や大連などがある遼東半島を支配され、義和團事件を口實に帝政ロシア軍に全滿洲を占領され、その後も、廣州、上海、青島、漢口、天津などの各都市に治外法權の租界を設定され續け、およそ獨立國とは言ひ難い状態になつてゐた。

ところが、韓半島では、獨立を保障すべき宗主國がそのやうな状態であることに危機感すら抱かずに、いつまでも事大主義に固執して唱へ續け、小中華思想が染み付いたままであつたため、帝政ロシアが、次は韓半島、そして日本列島を侵略する意圖があることすら充分に認識できてゐない有樣であつた。まさに韓半島は政治的には完全に死に體であつた。

つまり、李氏朝鮮では、鐵道施設權、鑛山採掘權までも外國に賣り飛ばし、裁判の結果も賄賂で左右される腐敗堕落の兩班政治が行はれてゐた。貴族の子弟を對象とした塾はあつても、庶民のための學校教育の制度などは存在せず、産業についてもマッチを一箱作る産業すらなく、すべて輸入に賴らなければならない民度の低い國情のままであつた。

もし、このままであれば、我が國の獨立を脅かすことから、自衞のために韓半島の秩序の回復と支配の確立を目指して、最後には併合するに至つたのである。大韓帝國の元首である初代皇帝高宗は日韓保護條約に贊成してをり、第二代皇帝純宗は日韓併合に贊成し全権委員として内閣總總理大臣李完用を任命する。純宗の署名と國璽のある正規の委任状を作成した上で日韓併合條約は締結されたのである。日韓併合條約は李完用が獨斷で行つたものであるとか、大韓帝國皇帝は日韓併合條約に署名も国璽の捺印も直接してゐないとか、あるいは、署名も國璽も偽造であるから無效であるなどの樣々な反論がなさてゐるが、そのやうな言説は史實と法的評價に照らして無意味であり、まさに噴飯ものである。勿論、併合による國家間の軍事的衝突も起こらず、帝政ロシアも含めて世界の國々からの反對もなく併合は認められたのである。第一章で行為規範と評價規範について述べたが、百歩讓つて、日韓併合條約の締結に不備があり、行為規範としては無效であると假に判斷されるとしても、その後の実效支配の繼續などからして、評價規範としては國際法上は當然に有效であることは多言を要しないところである。

このやうな歴史の眞實を自覺することこそが韓半島が屬國病から解放されるための第一歩となるはずであるが、未だに現在も拔け切れてゐない。次に述べることは、その宿痾を端的に示す一例といへる。

それは、日韓併合が合法か不法かといふ歴史學界における「日韓併合合法不法論爭」がなされた平成十三年十一月十六日、十七日の兩日に亘り、アメリカのハーバード大學のアジアセンター主催で開催された國際學術會議のことについてである(文獻303)。

これは、この論爭をめぐつて岩波の『世界』誌上で日韓の學者がかつて爭つたことがあつたが決着がつかず、これまでハワイと東京で二回の討論會を開き、今回は日米韓のほか英獨の學者も加へて結論を出すための總合學術會議だつたのである。しかも、韓國政府傘下の國際交流財團の財政支援のもとに韓國の學者らの主導で準備されたものであつた。韓國側は、この國際舞臺で不法論を確定しようと企圖してこの國際學術會議を開催し、それを謝罪と補償の要求の根據とする政治的狙ひがあつた。そして、日米英韓の學者が集まつて、これについての論爭がなされた。

この樣子を報道したのは、同月二十七日付の産經新聞だけで、一般の目にはほとんど觸れなかつたが、極めて重大な會議であつた。

韓國側は、冒頭において、如何に我が國が不法に韓半島(大韓帝國)を併合したかといふことを主張したが、國際法の專門家でケンブリッジ大學のJ・クロフォード教授が強い合法の主張を行なつた。古田博司の著作(文獻303)や産經新聞の記事などによると、クロフォード教授は、「そもそも當時の國際社會では、國際法は文明國相互の間にのみ適用される。この國際法を適用するまでの文明の成熟度を有さない國家には適用されない。言ひ換へるなら、文明國と非文明國の關係は、文明國相互においてと同樣に國際法において規定されない。それ故、前者(文明國と非文明國の關係)においては後者(文明國相互の關係)で必要とされる手續きは必ずしも必要でない。極論すれば、文明國と非文明國との關係の一類型として登場する、植民地化する國と植民地化される國の最終段階では、必ず條約の形式を必要とするとさへ言へない。當時において重要だつたのは、特定の文明國と非文明國の關係が、他の文明國にどのやうに受け止められてゐたか、である。單純化して言へば、植民地化において法が存在してゐたのは、その部分(他の文明國が受容したか否か)のみである。この意味において、韓國併合は、それが米英を初めとする列強に認められてゐる。假にどのやうな大きな手續き的瑕疵があり、非文明國の意志に反してゐたとしても、當時の國際法慣行からすれば無效とは言へない。」とし、「自分で生きていけない國について周邊の國が國際秩序の觀點からその國を當時取り込むといふことは當時よくあつたことであつて、日韓併合條約は國際法上は不法なものではなかつた。」と結論付けた。當然、韓國側はこれに猛反發し、自説を再度主張したが、同教授は、「強制されたから不法といふ議論は第一次大戰以降のもので、當時としては問題になるものではない。」と、一喝した。

韓國側は「條約に國王の署名がない」ことなどを理由に不法論を補強しようとしたが、日本側からも、併合條約に先立ち我が國が外交權を掌握し韓國を保護國にした日韓保護條約について、皇帝(國王)の日記など、韓國側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は條約に贊成し、批判的だつた大臣たちの意見を却下してゐた事實を紹介して、この會議で注目された。そして、併合條約に國王の署名や批准がなかつたことについても、國際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英國の學者らから出されたといふ。

その會議に參加した學者によると、この結果、韓國側は悄然と肩を落として去つて行つたといふ。かくして、韓國側の目論みは失敗に終はつたが、この學術的にも政治的にも重大な會議の内容は、我が國ではほとんど報道されることがなかつたのである。

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