國體護持總論
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極東國際軍事裁判

これまでの國際慣習法によれば、國際的に法人格を認められた國家に關しては、他の同じ國家と國際社會において同格であるとする「主權平等の原則」がある。つまり、國家はそれぞれ對等の立場で外交をなすものであつて、武器を用ゐた外交である戰爭となつた場合でも、それが終了すれば再び外交によつて講和條約を締結するのであつて、戰勝國が敗戰國を裁くといふことはできない。身近な例で云へば、國家機關である裁判所(裁判官)が人を裁くことはあつても、裁判官でもない對等な私人同士で、一方が他方を「裁く」といふのは、私刑(リンチ)か裁判ゴッコでしかありえないのと同じである。

第一章で述べた國家連合ないしは連邦國家のやうに、連合體や連邦體に包攝される單位國家間に起こつた紛爭を、これらの單位國家を包攝し上位に位置する連合體政府ないし連邦政府が設置した裁判機關で審判することはありうる。『行政事件訴訟法』第六條に、「国又は公共団体の機関相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟」(機關訴訟)の規定があるが、そのやうな制度が連合國家や連邦にあつても不思議ではない。つまり、複數の國家が連合關係ないしは連邦關係となつて統一組織の團體を結成し、その裁判機關が豫め設置されてゐる場合であれば、その團體を構成する單位國家間の紛爭を裁き、いづれかの國家の行動を正義であると判斷することはありうる。だが、現在の國連は、國家連合でも連邦でもなく、特定の國家自體を裁く制度は備へてゐないのである。國際連合の總會で行ふ非難決議などは「裁判」ではなく、政治的意思表明にすぎないのであつて、「國家は國家を裁けない」といふのが國際慣習法の鐵則なのである。戰勝國が敗戰國を「裁く」と云つても、それはそのやうな「儀式」を「講和條件」として受け入れさせたといふだけである。國際連合における國際司法裁判所といふのも、「裁判所」ではない。國際連合は連合國家でも連邦でもなく、國際司法裁判所といふのも、本來の意味での裁判所ではない。國際司法裁判所の「裁判」に委ねるといふのは、国際連合憲章といふ一般條約に加盟する條約(國連加盟條約)によつて、國際紛爭を解決する方法として、当事國の同意があれば「仲裁人」が「仲裁判斷」により解決することができるといふ「仲裁合意」に基づく制度なのである(『仲裁法』參照)。條約といふのは、國家間の合意であり、その法律的性質は「契約」であり、仲裁合意もまた契約である。つまり、國際司法裁判所といふのは「仲裁人の合議體組織」に過ぎないのである。

ましてや、東京裁判を行つた極東國際軍事裁判所なるものは、國際司法裁判所でもなければ、我が國がこの裁判(仲裁判斷)に服するとの合意もない。ポツダム宣言には、極東國際軍事裁判所といふ名の事後に設置される「仲裁人組織」によつて、これまでの國際法にはなく、新たに創設する手續によつて刑罰を課し、これを執行することができるといふやうな條項がない。從つて、そのやうな仲裁合意(講和條件の承諾)はなかつたのである。つまり、東京裁判は、大東亞戰爭といふ思想戰爭の報復措置としてなされた「國際政治ショー」であつて、外觀上は公正さを裝つて連合國に戰爭の大義があることを演出したものにすぎない。しかも、その演出の眞の目的は、「國家が國家を裁く」ことにあつた。形式は、わが國自體を被告人としたものではないし、そのやうなことは國際慣習法からして不可能であることを連合國も解つてゐた。しかし、國際世論を喚起するプロパガンダとしては、わが國の國家機關である國家首腦部に屬する個々の構成員を被告人として裁くことによつて、限りなく「國家」を裁くことに近づけたのが東京裁判であつた。それゆゑ、昨今巷において、「パール判決書」を引き合ひに出して「日本無罪論」とか「日本有罪論」などと、あたかも我が國自體が被告人の地位にあつたかのやうな喧しい論爭が繰り廣げられてゐるが、これは、國際慣習法と裁判制度の基本を知らない一知半解の者どもによる「猿の尻笑ひ」騷動に過ぎない。そもそも、國家法人説と代位責任説によれば、國家機關に屬する者の國家行爲は、國家自體の行爲であるから、その行爲責任は國家(法人)に歸屬するものであるが、これをあへて國家を被告人とすることなく、その國家機關に屬する者の個人責任(自己責任)として起訴したことに致命的な矛盾がある。國家首腦のなした國策遂行行爲に責任があるとすれば、それは國家自體に責任があるのであつて、個人としての自己責任はない。このことからだけでも、個人責任として起訴されたすべての被告人は無罪なのである。そして、我が國自體は、もちろん起訴されてゐないのであるから、「起訴なければ審判なし」といふ「不告不理の原則」からして、我が國自體に對して、有罪、無罪といふ實體判決をなすべき審理と審判を爲しえないのは自明のことである。つまり、「日本無罪」でも「日本有罪」でも、そのいづれでもなく、嚴密には「日本不起訴」なのであつて、起訴されない者(我が國)の有罪無罪を論ずることは、起訴され「たら」とか、起訴され「れば」といふ、「たられば」の假定の世界であつて全く無意味である。

ともあれ、このやうな裁判ショーを仕組んだのは、昭和二十年六月、米、英、佛、ソ連の四國によるロンドンでの會議においてである。ここにおいて、今後の戰爭裁判の方針(ロンドン協定)を決め、その戰犯裁判においては連合國の行爲は決して問題とされてはならず、あくまでも日獨伊の樞軸國の過去を裁くことにし、連合國の犯罪行爲を棚上げにして、正義と文明の名といふ名目により、思想戰爭の敗者に對する復讐心を滿足させるものであつた。

このやうな經緯により、東京裁判がドイツのニュルンベルグで設置された國際軍事裁判所の戰爭裁判と同じ手法と構造でなされたことはよく知られてゐるところである。東京裁判では、ナチスのホロコーストに對應するものとして、昭和十二年十二月十三日、我が皇軍が國民黨政府の首都南京を攻略した際に多數の支那人を虐殺したとされる、いはゆる「南京虐殺」なるものを對置させたが、これは、プロパガンダの産物であり、事實として存在せず全くの虚構であつたことが今日までの研究成果によつて完全に證明されてゐる。その意味では、東京裁判が假に有效に成立したとしても、有罪か無罪かの實體判決を爲すについて、南京虐殺の事實に關しては、事實の證明がないとして無罪となるものである。

そこで、南京虐殺の虚構性については、これまでの優れた研究に委ねて省略することとして、以下においては、專ら東京裁判の法的觀點からその不當性及び無效性の要點を述べることとする。


まづ、第一の無效理由としては、當時においても國際法で確立してゐた「罪刑法定主義」の派生原則である「遡及處罰の禁止」(當時は違法とされてゐない行爲を事後に制定した法を以て處罰することを禁止すること)に違反する點である。當時は、「平和に對する罪」とか「人道に對する罪」などはなかつたのに、これを昭和二十一年一月十九日に『極東國際軍事裁判所條例(憲章)』を制定して處罰した點であつて、これだけでも東京裁判の不當性は明らかである。連合軍は、これに先だつて、ナチス・ドイツに對し、昭和二十年八月八日、これと同じ内容の『國際軍事裁判所條例』を制定し、ドイツ・ニュルンベルグで世界史上初の戰爭犯罪裁判を行つたが、これも罪刑法定主義に反することは同樣の理由によるものである。これまでの戰時法規によつて處斷することは充分可能であつたのに、あへてこのやうな國際法違反の手法を用ゐたのである。

假に、マッカーサーが制定したこの裁判所條例が有效であるとしても、それは國際法規を越えたり、國際法規を排除できないので、これに牴觸しない限度でのみ有效となるにすぎない。マッカーサーには、國際法規を新たに作つたり、これを改廢できる權限は何もないのである。それゆゑ、この裁判所條例は、國際法規の下位に位置する規範であるから、やはり、これが國際法規に適合する限度でしか有效とはならない。それゆゑ、新たに作つた「平和に對する罪」、「人道に對する罪」は罪刑法定主義といふ國際法規に違反して無效であるといふことになる。

この罪刑法定主義の派生原則である「遡及處罰の禁止」といふのは、事前の法律の規定によらなければ、ある行爲が犯罪とされ、それに刑罰が科せられることはないとするイギリスの『マグナ・カルタ』(1215+660)をその思想的起源とする原則であり、フォイエルバッハ以來、一般には「法律なければ刑罰なし」とか「法律なければ犯罪なし」といふ表現で集約されてゐる普遍的な大原則であつた。この理念は、トマス・ジェファソンが起草し、十三州の代表者による會議で全會一致で可決した『アメリカ獨立宣言』(1776+660)やフランスの『人及び市民の權利の宣言』(1789+660)にも、そして、帝國憲法第二十三條にも規定されてゐたものであつた。

そして、なによりも、ポツダム宣言には、事後法適用の根據となる規定が存在してゐないことが『國際軍事裁判所條例』を無效とする理由になるのである。


第二の無效理由としては、第一の理由に派生して、連合國には、この裁判を行ふことのできる「裁判權」ないしは「裁判管轄權」がない點がある。


さらに、第三の無效理由としては、この裁判自體が「不公正な裁判」である點であり、その理由は多岐に亘るので、以下その主な點を列擧する。
① 裁判官の構成については、戰爭當事國を代表する裁判官などで裁判所が構成されてをり、スイスなどの中立國を代表する裁判官で構成されてゐなかつた點がある。
② 次に、除斥事由(缺格事由)のある裁判官が東京裁判に關與した點である。つまり、フィリピン代表のハラーニョ判事は、バターンの死の行進の生存者であり、ウエッブ裁判長は、それまではオーストラリアがニューギニアで開廷した軍事裁判で、皇軍將兵に對する戰爭犯罪の訴追業務(檢察)に關與してゐたのである。インチキ裁判のことを英語では、Kangaroo Court(カンガルー裁判)といふが、カンガルーの國であるオーストラリアのウエッブが裁判長として法廷を指揮した東京裁判は、やはりカンガルー裁判であつた。
③ さらに、戰勝國の犯罪が裁かれない點である。アメリカの原爆投下、都市空襲による一般人の大量虐殺、ポツダム宣言受諾後のソ連による皇軍將兵のシベリア強制連行などは訴追されなかつたからである。
④ また、僞證罪處罰の規定がない點がある。これによつて、證人の證言の信用性は制度的に否定されるのである。
⑤ そして、證據の採用基準、つまり採證法則が國際法に全く準據してゐない點である。その不當性は甚だしいものがあつた。反對尋問ができない傳聞證據を無條件に採用したり、嚴格な證明は不要で、宣誓なしの證言も採用され、原本が無い文書のコピーを無條件で採用したりしたのである。
⑥ 判決をなすについて、裁判官全員による合議をしたことが一度もなかつたといふ點もある。オランダ代表判事のレーリンクによれば、十一箇國の代表判事が全員集まつて判決について討議する機會は一度もなかつたといふことである。判決については七人の判事(米、英、中、ソ、ニュージーランド、フィリピン、カナダ)が内密に判決文を書き、それを既成事實として他の四人(フランス、オランダ、オーストラリア、インド)にその結果を渡した。フランス代表のベルナール判事によれば、裁判を構成する十一名の裁判官が、判決の一部または全部を口頭で討議するために、會合することを求められたことは一度もなかつたといふのである。ベルナールが多數判決の判決書に署名したのは、裁判所の評議の通例の形式を尊重することを承認したものであつて、判決自體を承認したものではないと述べてゐる。
⑦ 日本語での法廷通譯が恣意的に中斷され、裁判の公開原則が實質的には保障されなかつた點もある。被告人全員が日本人であり、その辯護人と傍聽人の多くが日本人であることから、東京裁判の法廷における全て發言は、すべて日本語に通譯されなければならないが、そのやうにはされなかつた。昭和二十一年五月十三日に辯護側が裁判管轄權を爭ふ動議を提出したが、その動議を巡る論爭の中で「原爆投下問題」に關するアメリカ人辯護人の發言内容が、突然日本語に通譯されなくなり、その後も、恣意的に通譯の中斷は繰り返され、通譯の要求や異議を全く受け付けなかつた。日本語の裁判速記録によれば、これらの部分は「以下通譯なし」と記録されたのである。

東京裁判は、このやうなものであつたが、その中で、インド代表のラダ・ビノード・パル判事だけは、判事團では唯一人、被告人全員を無罪とする膨大な字數の判決書を作成して少數意見を殘した。無罪であることの理由は、多岐に亘る。平和に對する罪は事後法であり罪刑法定主義に違反すること、國家の行爲について個人が責任を問はれることはないこと、共同謀議がなかつたこと、侵略戰爭の定義が曖昧であること、假に侵略戰爭であり違法であつたとしてもこれを裁く國際法上の根據がないことなどを理由とするものであり、その最後には後世おいて有名になつた次の言葉で締めくくられてゐた。

「時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が虚僞からその假面を剥ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を變えることを要求するであろう。」


そして、その後、外交官の經歴を持ち英國法曹界の長老でもあつたハンキー卿やローマ法王も東京裁判の誤りを指摘し、昭和二十五年の朝鮮戰爭(韓國動亂)勃發後の同年十月十五日、ウエーキ島でトルーマン大統領(當時)と會談したマッカーサーもまた東京裁判の誤りを認めた。また、東京裁判においてオランダ代表判事として、今後の戰爭を抑止するといふ政策的意圖から有罪を認定したレーリンクも、東京裁判が戰勝國(連合國)の政治目的に利用され、これが戰爭再發の抑止力になるどころか、却つてその橫暴を容認する結果となつたことを示唆しつつ、その不公正さを認めたことなど、現在では、東京裁判の正當性を否定するのが世界と國内において大勢を占めてゐる。

しかし、このやうに東京裁判が不當なものであることは確かであつても、もつと根本的な問題が見落とされてゐるのではないだらうか。それは、このやうな東京裁判が、果たして「裁判」としての適格があるのか、といふ點である。裁判と名付けられたから裁判だと信じるのは世の人の陷穽である。これだけの理由があれば、これが裁判であると認めること自體を否定せねばならない。連合國によれば、東京裁判は、『ポツダム宣言』第十項中に「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。」とあることを根據としてゐるのであるが、これだけでは罪刑法定主義を無視した裁判をすることが可能であるとする法的な根據とはならない。これは從來までの戰時國際法に基づいて「處罰」を目的としたものに過ぎず、罪刑法定主義に違反した事後法での處罰を許容したものではない。しかし、あへてこれを行ひ、これを桑港條約第十一條において容認させたのも、これは、あくまで「講和の條件」として連合國が「戰爭犯罪人」であると認定する者を處罰できることを求めたものであつて、そのための手續である「裁判」までを保證したものではない。報復の目的を隱蔽し、公正さを裝ひながら、正義を實現するのは連合國であると世界を欺くための儀式として、「裁判もどき」を實施しただけである。このことは、後に述べるとほり、『日本國憲法』といふ名前であるから「憲法」であると誤解することと共通したものがある。つまり、名稱に引き摺られ、「東京裁判」を「裁判」と信じ、「日本國憲法」を「憲法」であると受け入れてしまつたのである。「憲法」ではない「占領憲法」と「裁判」ではない「東京裁判」の二つの刷り込みこそが占領政策の本質であることに一日も早く氣付かなければならないのである。

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