國體護持總論
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著書紹介

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ヤルタ・ポツダム體制

フランス、アメリカ、中共などの覇權主義と戰つて獨立と統一を勝ち得たベトナム戰爭が物語るやうに、その後の世界は、我が國を含めその殆どがヤルタ・ポツダム體制、連合國體制(國連體制)による支配を受け、米ソの東西冷戰構造の枠組みに組み込まれてしまつた。そのため、東亞諸國などは、獨自の文化圈や經濟共榮圈を形成できなかつた。

昭和二十年(1945+660)二月十一日の『ヤルタ密約』と同年七月二十六日の『ポツダム宣言』を踏まへ、『国際連合憲章』(資料二十二)によつて、第二次世界大戰終結後における戰勝國の世界支配基本體制が確立した。つまり、連合國だけが安全保障理事會の常任理事國として拒否權を持ち、加盟國は安全保障理事會の決議に服從させるといふ極めて非民主的な制度(國連憲章第二十五條)の國連體制を構築したのである。これを「ヤルタ・ポツダム體制」といふ。

大東亞戰爭後においても歐米の植民地支配は繼續し、各地で植民地解放戰爭は續く。四百年間に亘つて植民地支配を續けたオランダが、インドネシアの獨立を目指す人民軍と停戰協定を結んだのは、昭和二十四年のことであつた。フランスの植民地であつたベトナムでは、ホー・チ・ミン率ゐる民族解放軍との間で戰爭が繼續し、昭和二十九年の「ディエン・ビエン・フー」の大包圍作戰の結果フランスが大敗するまで、フランスはベトナムの「再侵略」を諦めなかつた。そして、フランスの後釜に座つて「ベトナム戰爭」(昭和三十五年~昭和五十年)を再開したのがアメリカであつた。

敗戰後の我が國は、アメリカの傘下で經濟發展を遂げたが、それは獨自性のないアメリカの追随經濟・寄生經濟であり、西側經濟圈の一員として、東亞諸國を初め世界各國を西側經濟圈へと組み入れるための先驅的役割を演じたにすぎず、著しい經濟格差の現状とそれに伴ふ諸問題、即ち、「南北問題」等を、より深刻化させる最大の國際貢獻を果してきた。

南北問題とは、主に北半球に存在する少數の經濟豐國(先進國)と、主に南半球に存在する多數の經濟貧國(發展途上國、開發途上國)との經濟格差の擴大等に關する地球規模の政治的經濟的諸問題をいふ。そもそも、「先進國」といふ確乎たる發展史觀を示す用語を用ゐる反面、これの反對語である「後進國」といふ用語を避けて「發展途上國」とか「開發途上國」といふ用語を用ゐて糊塗してゐること自體に根源的な差別觀念が存在してをり、この問題の根深さを象徴してゐる。それは、歴史觀において、共産主義思想の唯物史觀に代表されるやうに、人類の歴史は政治・經濟・文化・教育など總ての領域において限り無く進歩發展し後退することがないとの人類中心の「進歩思想」・「發展史觀」に由來するからである。何を以て「進歩」とか「發展」といふのか。進歩、發展ではなく、「後退」と「頽廢」ではないのかといふ素朴な疑問を全く受け付けない傲慢さがここにある。

歐洲での東西冷戰構造が崩壞する過程とその後にも、南北問題は解消されず、むしろ、國際金融資本主義といふグローバリズムが世界を席卷し、より深刻な事態となつてゐる。

さらに、これに加へて、民族間紛爭や宗教對立が激化し、灣岸戰爭などの思想戰爭も勃發した。

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