國體護持總論
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バーンズ回答

降伏文書の「subject to(隷屬)條項」の源流とされたバーンズ回答の問題點については、ここでまとめて詳細に述べておく必要がある。

まづ、このバーンズ回答といふのは、次のとほり第一段落から第六段落までで構成されてゐる(便宜的に、その冒頭に括弧書きで段落番號を付した。)。

(一) ポツダム宣言ノ條項ハ之ヲ受諾スルモ右宣言ハ天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ヲ併セ述ベタル日本國政府ノ通報ニ關シ吾等ノ立場ハ左記ノ通リナリ
(二) 降伏ノ時ヨリ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ降伏條項ノ實施ノ爲其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
(三) 天皇ハ日本國政府及日本帝國大本營ニ對シポツダム宣言ノ諸條項ヲ實施スル爲必要ナル降伏條項署名ノ權限ヲ與ヘ且之ヲ保障スルコトヲ要請セラレ又天皇ハ一切ノ日本國陸・海・空軍官憲及何レノ地域ニ在ルヲ問ハズ右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ對シ戰闘行爲ヲ終止シ武器ヲ引渡シ及降伏條項實施ノ爲最高司令官ノ要求スルコトアルベキ命令ヲ發スルコトヲ命ズベキモノトス
(四) 日本國政府ハ降伏直後ニ俘虜及被抑留者ヲ連合國船舶ニ速ヤカニ乘船セシメ得ベキ安全ナル地域ニ移送スベキモノトス
(五) 最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス
(六) 連合國軍隊ハポツダム宣言ニ掲ゲラレタル諸目的ガ完遂セラルル迄日本國内ニ留マルベシ

この回答の第一段落では、「天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」といふ「ポツダム宣言受諾に關する八月十日附日本國政府申入」があつたことを前提としながら、第二段落から第六段落には、これに對する明確な回答がなされてゐないのであつた。明確な回答が回避されたことについて、それが申入の承諾なのか拒否なのかについて政府内で議論が分かれ混亂した。

そして、この議論が、後になつて、占領憲法の效力に關連して、國體護持の申入に對する回答の回避がその「承諾」であると理解して國體の變更を求めたものではないとする見解と、逆に、回答の回避は申し入れの無視であり申入の「拒否」であるとして國體の變更を求めたものであるとする見解とが對立する原型となつた。しかし、バーンズ回答は、國際法體系に屬する規範であるポツダム宣言の解釋資料に過ぎず、この解釋如何によつて國内法體系に屬する規範である國體(規範國體)の變更があつたか否かといふ議論に決着を付けられるはずもなく、このやうな議論の立て方自體が學問的にも極めて輕薄である。國體の變更がなされたか否かを理解するには、帝國憲法の性質と、特に、ポツダム宣言を受諾した權限的根據である帝國憲法第十三條前段の講和大權の性質から考察しなければならないのである。

ところで、バーンズ回答の第五段落を「最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」と翻譯されてゐるが、この「最終的ノ日本國政府ノ形態」といふ部分は、

The ultimate form of goverment of Japan

の譯語である。そして、この「ultimate」を「究極的」と解するか、「最終的」と解するかで見解の相違があるが、この點は、そもそもバーンズ回答を外務省が翻譯して政府内で決定し發表した上でポツダム宣言を受諾してゐることからして、國内的には「最終的」であることが確定してゐる。

しかも、これは、獨立を失ふ寸前のものではあるが、いやしくも獨立を保つてゐたときの政府見解であるから自己解釋權によつて確定した解釋であり、國内法體系の解釋においてこれに異議を唱へることはできないのである。

なほ、この「最終的ノ日本國政府ノ形態」といふ譯文に關して、外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文書集 一卷』(昭和二十四年)十六頁によれば、これが「日本國ノ最終的ノ政治形態」となつてゐるが、昭和二十年九月四日に第八十八回帝國議會で配布された『帝國議會に對する終戰經緯報告書』によれば、この部分は、「最終的の日本國政府の形態」(平假名書き)となつてをり、また、外務省の『終戰史録』によれば、昭和二十年八月二十七日作成の『ポツダム宣言受諾に關する往復文書の説明』には、「最終的ノ日本國政府ノ形態」としてゐる。「政治形態」と「政府形態」とは、その意味が明らかに異なるのである。このやうに政府文書の譯文に齟齬があるが、帝國議會で配布された譯文表現は少なくとも正式なものであつて、これは外務省が當初に翻譯した譯文のはずである。前掲外務省資料が占領憲法制定後の昭和二十四年の編纂であることからして、占領憲法制定の根據を補強するために、外務省が事後的に、「政府形態」とあるのを「政治形態」へと意圖的に改竄した可能性が大きい。それは、後述するとほり、「subject to」を「隷屬」と約さずに「制限の下におかれる」と意圖的に誤譯した外務省の前科からして、そのやうに斷言できる。

また、獨立を奪はれ、GHQの占領下であつた昭和二十一年三月五日の『憲法改正案を指示された敕語』によれば、「朕曩ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本國政治ノ最終ノ形態ハ日本國民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキナルニ顧ミ・・・憲法ニ根本的ノ改正ヲ加へ以テ國家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ・・・」とし、獨立時に確定した「最終的ノ日本國『政府』ノ形態」を「日本國『政治』ノ最終ノ形態」と曲筆し、さらに「根本的ノ改正」との表現が附加されてゐる。

つまり、この點に關する譯文は、「最終的ノ日本國政府ノ形態」(昭和二十年八月十二日)、「最終的ノ日本國政府ノ形態」(同月二十七日)、「最終的の日本國政府の形態」(同年九月四日)とされてゐたものが、「日本國政治ノ最終ノ形態」(昭和二十一年三月五日)、「日本國ノ最終的ノ政治形態」(昭和二十四年)と變遷したことになるが、これらの表現の各時期と變遷の經緯を比較檢討すれば、當初の「最終的ノ日本國政府ノ形態」がポツダム宣言受諾時に我が政府が確定させた譯文であることになる。

また、『英米共同宣言』(大西洋憲章)では、國民に「政體」を選擇する權利を認めるのであつて、國民には「國體」を選擇する權利がないことを踏まへて、東郷外相は、昭和二十年八月十五日の樞密院御前會議において、ポツダム宣言は我が國體を人民投票によつて決すべきことを求めてはゐないことを報告し、確認されてゐることからしても、政府は、バーンズ回答の「The ultimate form of goverment of japan」を、國體の變更を受容するかの如き「日本國ノ最終的ノ政治形態」と解釋したのではなく、あくまでも「政體」の變更ないしは「内閣」の變更を受容した意味において「最終的ノ日本國政府ノ形態」として認識したことは確かである。

そもそも、この點に關するバーンズ回答は、ポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立」の意味を解釋補充する趣旨であり、ここにも「政府」とあることから、「政治」ではないことは明らかである。

ところで、前出の非獨立時の占領下における昭和二十一年三月五日の敕語には、これまでの主權國家であつた時點での解釋を變更しうるだけの法的效力はない。この曲筆に關しては、自由黨憲法調査會の特別資料に掲載されてゐる當時の入江敏郎内閣法制局長官の告白により、GHQの壓力とそれに迎合した政府の迎合的な對應による結果であることが明らかとなつてゐる。

また、帝國憲法の規定からしても、この敕語の法令解釋部分には有權解釋としての效力はない。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定する帝國憲法第三條は、二種の意味を宣明したものであり、一は國體的觀念にして一は法理的觀念である。このうち、法理的觀念においては、天皇に對しては何人も總ての法規の適用を迫ることができないといふ法律的無答責かつ政治的無答責を意味するのである(清水澄)。從つて、この敕語において特定の法令解釋がなされたと見られる部分があるからといつて、これを以て、天皇が法規の適用に關する有權的な特定の法的解釋を爲したとして、その效力の有無と優劣を論ずることは、綸言の法的效力の有無を論ふこととなり、帝國憲法第三條に違反することになる。敕語によつて示される御叡意は、その趣旨こそがいのちであり、爭ひのある事項について、特定の者が政治利用のために曲筆することがあつても、その政爭と論爭から聖上をお守りするのが「無答責」の法理的意味なのである。また、假に、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、「國政に關する權能を有しない」(占領憲法第四條第一項後段)ことからして、敕語は法令解釋といふ國政に關する有權解釋としての適格がないといふことになる。それゆゑ、占領憲法有效論が占領憲法に關する昭和二十一年三月五日の敕語や占領憲法發布の敕語の内容と表現を以て占領憲法が有效であることの根據とすることは甚だしい自家撞着に陷ることになるのである。

ところで、バーンズ回答において、最大の問題點は、第二段落にあつた。

ポツダム宣言第七項には、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本國の戰爭遂行能力が破碎せられたることの確證あるに至る迄は、聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし。」とあり、同第十三項には、「全日本國軍隊の無條件降伏」(unconditional surrender of all the Japanese armed forces)とあつたことから、その占領態樣を政府が照會したところ、その回答(バーンズ回答)の第二段落には、

From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.

とあつた。

ところが、これを外務省は、

「降伏ノ時ヨリ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ降伏條項ノ實施ノ爲其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」

と意圖的に誤譯した。

つまり、「subject to」は、「從屬」、「隷屬」、「服從」の意味であつて、「制限の下におかれる」ことではなかつたのである。

そして、それが昭和二十年九月二日の降伏文書に受け繼がれ、

(英文)
The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.

(邦文)
天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」

となつただけであつて、意圖的な誤譯による我が國政府の致命的なオウン・ゴールにも似た事態へと追ひ込んだ。

「subject to」を外務省ではポツダム宣言の受諾を推し進めて軍部の抵抗を和らげるために殊更に「制限の下」と誤譯し、軍部はこれを「隷屬する」と正確に理解したことから、政府内部の混亂を招いたのである。

しかし、結果的には、占領態樣は、まさに一貫して文字通り「subject to(隷屬)」であり、我が國の自由意志なるものは全くなかつたのである。

しかして、ポツダム宣言の本文では、「有條件降伏」であり、「軍隊の無條件降伏」であつたが、ポツダム宣言の第八項で引用する『カイロ宣言』には「日本國の無條件降伏」となつてゐた。このやうに、不明確なものであつたことから、有條件降伏を求めたポツダム宣言の「無條件承諾」と「subject to(隷屬)」の受容により、「日本國の無條件降伏」へとすり替はつたことになるのである。

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