國體護持總論
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昭和二十年八月

八月六日、午前八時十五分に、アメリカは、廣島に原爆を投下した。死者約十五萬人。

八日、ソ連は、ヤルタ密約により日ソ中立條約を不當に破棄して對日宣戰を通告し、ポツダム宣言に參加することを表明した。ソ連は、當初、八月十五日に對日參戰をすることになつてゐたが、原爆投下により我が國の降伏が早まり、參戰による領土奪取の機會を失ふことから、早期參戰に踏み切つた。

九日、午前十一時二分に、アメリカは、ソ連の參戰(同日午前零時)が早まつたこともあつて、今度は長崎に原爆を投下した。

十日、午前二時二十分からの御前會議において、國體護持などを條件としてポツダム宣言の受諾を決定し、中立國スウェーデン、スイスを通じて連合國へポツダム宣言受諾を打診した。つまり、『ポツダム宣言受諾に關する八月十日附日本國政府申入』を行ひ、ポツダム宣言發表後に日ソ中立條約違反のソ連がその聲明に加はつたことの背信を指摘して異議を唱へつつ、「天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」ることを申し入れた。これらについて、NHKの海外放送を通じて、我が國政府がポツダム宣言の受諾を決めたことが發信され、海外で知られることになつた。

同日、下村宏情報局總裁は、「正しく國體を護持し、民族の名譽を保持せんとする最後の一線を守るため、政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億國民にありても國體のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する」との談話を發表し、阿南惟幾陸相も「決戰覺悟」の談話として全將兵に向けて斷固抗戰の訓示を發表し、それが翌十一日の新聞各紙において下村、阿南の兩談話を同時に掲載された。

十一日、ソ連第二極東軍部隊は、國境を侵犯し南樺太を侵略。

十二日、政府は、ポツダム宣言受諾に對するバーンズ米國務長官から連合國を代表した回答としての、いはゆる『バーンズ回答』(前述)を受け取つた。

十三日、B29が東京一帶に我が國が無條件降伏した旨の宣傳ビラを散布する。

十四日、政府内が「subject to」問題などによつて混亂してゐることに對處するため、午前十時に御前會議が開かれた。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言受諾の經緯を報告したが、全閣僚一致での受諾ではなく、阿南陸相、豐田軍令部總長、梅津參謀長は、天皇と國體護持の確約がないままの降伏に反對を主張して本土決戰を提唱する。このままで閣議の評決をすれば、贊成三、反對三の同票で、鈴木首相が贊成票を投じれば、これまで通りの贊成の評決となるところ、鈴木首相は、あへて天皇陛下に御聖斷を仰いだ。そして、午前十一時、陛下の文武叡聖なる御聖斷がなされ、ポツダム宣言を受諾することが再確認された。このときの大御歌(おほみうた)は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」である。そして、政府は、中立國スウェーデン・スイスを通じて連合國へポツダム宣言受諾を正式に申入れ、『戰爭終結の詔書』が發布される。それを公布するため、翌十五日正午に、いはゆる玉音放送をすることとなり、ラジオ放送用の録音がなされた。また、「今や國民の齊しく嚮ふべき所は國體の護持にあり」とする内閣告諭がなされた。

同日、ソ華友好同盟條約締結。滿洲の關東軍は、蒋介石の國民黨軍ではなく、ソ連軍に對し降伏すると取り決められてゐた。

十五日、第一章で觸れたとほり、一部の陸軍將校などによるポツダム宣言受諾阻止、玉音放送阻止、聖戰完遂のためのクーデター未遂事件(宮城事件)が前日未明から起こり、宮城が占據されるに至るが、間もなく鎭壓され、正午には玉音放送がなされ、鈴木貫太郎内閣は總辭職となつた。

同日、樞密院御前會議が開かれ、東郷外相は、ポツダム宣言は我が國體を人民投票によつて決すべきことを求めてはゐないことを報告した。

同日、降伏について、支那派遣軍と南方軍はこれに抗議した。

同日、文部大臣訓令『終戰ニ關スル件』(訓令第五號)が發令され、「國體護持ノ一念ニ徹シ教育ニ從事スル者ヲシテ克ク學徒ヲ薫化啓動シ・・・國力ヲ焦土ノ上ニ復興シテ以テ深遠ナル聖慮ニ應ヘ奉ランコトヲ期スベシ」とされた。

十六日、昭和天皇は即時停戰を下命し、大本營は陸海軍に自衞の爲の戰闘行動を除き陸海軍全部隊の即時停戰を命ず(大陸命第千三百八十二號、大海令第四十八號)。

同日、ソ連軍がヤルタ密約に基づいて南樺太と滿洲へ侵略を開始し、皇軍が自衞抗戰。支那大陸では九月半ばまで自衞の爲の戰闘が繼續する。

同日、東久邇宮稔彦王に組閣の大命降下がなされる。

同日、トルーマンは聲明を出し、アメリカが單獨で占領統治を行ふことを言明した。

十七日、東久邇宮稔彦内閣が成立し、初閣議がなされる。「進駐軍特殊慰安施設(RAA)」の設置を決定。

同日、「光榮アル我國體護持ノ爲朕ハ爰ニ米英蘇竝ニ重慶ト和ヲ媾セントス」、「千辛萬苦ニ克チ忍ヒ難キヲ忍ヒテ國家永年ノ礎ヲ遺サムコトヲ期セヨ」とする「陸海軍人へ敕語」が渙發せられた。

同日、インドネシアがオランダから獨立することを宣言(獨立戰爭。昭和二十四年まで)。

十八日、ソ連第一極東軍部隊がカムチャッカ半島から南下して千島列島の侵略を開始し、三十一日までに得撫島以北の北千島を占領。占守島で皇軍が自衞交戰(二十一日に停戰命令が出る)。

同日、滿洲國皇帝が退位して滿洲國は消滅した。

十九日、關東軍とソ連極東軍が停戰交渉開始。フィリピンに停戰命令が屆く。河邊虎四郎參謀次長と米サザランド參謀長による降伏手續打合せの會合が翌二十日までマニラで行はれる(マニラ會談)。

二十二日、尊攘同志會の十二名が東京の愛宕山で集團自決。各地で自決が相次ぐ。

二十四日、皇國義勇軍四十八名が松江市で降伏反對を訴へて縣廳、新聞社を襲撃。

二十五日、ソ連第二極東軍部隊が南樺太を占領。

二十六日、敕令第四百九十六號(終戰連絡中央事務局官制)により、『終戰連絡事務局』が設置される。このころ、滿洲での戰闘は終了。

二十八日、連合國軍の一部(テンチ米陸軍大佐以下百五十名)が厚木飛行場に到着し、橫濱に連合軍本部を設置。その後、全國で人員と物資の上陸が相次ぎ、占領兵力は最大で四十三萬人となる。

同日、支那大陸で蒋介石らと毛澤東、周恩來が會談する(十月十日に雙十協定が成立)。

同日、ソ連が、擇捉、國後、色丹島の侵略を開始し、九月一日までに占領。

同日、東久邇内閣では、集會・結社の規制緩和を閣議決定し、結社については許可制を廢止し屆出制を復活させた。これは、降伏文書の調印前(獨立喪失前)に、ポツダム宣言第十項後段の「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」との條項に基づいて、自主的にその先履行に着手したことを意味する。

同日、東久邇總理大臣の記者會見がなされ、「國體護持は皇國最後の一線であるが、現在において國體を護持する最上の道は連合國との全面的協調にあり、連合國側の提案を確實に履行することにある」、「國體護持といふことは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である、祖先傳來われわれの血液に流れてゐる一種の信仰である。」とした上で、「この際私は軍官民、國民全體が徹底的に反省し、懺悔しなければならぬと思ふ、全國民總懺悔することがわが國再建の第一歩であり、わが國内團結の第一歩と信ずる。」と述べられた。これが同月三十日に新聞各紙が報道し、讀賣新聞は、これを「一億總懺悔」と表現した。

この「懺悔」といふ言葉の意味が、キリスト教用語の「ざんげ」なのか、佛教用語の「さんげ」なのかは不明であるが、本來であれば、「みそぎ」(禊ぎ)といふ言葉を用ゐるべきであつた。

三十日、マッカーサーが厚木飛行場に到着し、橫濱(横濱税關ビル)に入つてGHQ/USAFPACが設置される。

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