國體護持總論
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著書紹介

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昭和二十一年三月

一日、『勞働組合法』が施行される。

二日、政府は、GHQ草案の翻譯を基礎として『帝國憲法改正草案要綱』(いはゆる「三月二日案」)を作成する。

三日、『物價統制令』が公布される(このときの消費者米價は、一石=二百五十圓)。

四日、松本大臣と佐藤達夫法制局部長は、午前十時、「三月二日案」をGHQに持參して提出し、外務省の翻譯擔當とGHQ側とで、これの英譯を始める。そして、午後四時ころまでに英譯が完成する。しかし、それまでの刻々と翻譯がなされてゐる間に、松本大臣とケーディスとの論爭が始まる。それは、「三月二日案」(マツモト・ドラフト)は前文がGHQ草案通りでないとする點や、第三條前段(天皇ノ國事ニ關スル一切ノ行爲ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス)の「輔弼」の言葉には「consent」(同意)に該當するものが缺落してゐるなどのGHQ側の不滿が出された。これに松本大臣が反論すると、ケーディスは興奮し議論が激化したことから、松本大臣は、他日の妥協の餘地を減殺してしまふことを恐れ、佐藤達夫に後事を託して、經濟閣僚懇談會に出席する豫定であるとの用務に藉口して、午後二時半ころに歸つた。午後六時すぎころ、GHQ側は、佐藤達夫に對し、突然、「今晩中に確定案を作ることになつた。ホイットニー准將は十二時まで待つ。もし、それまでにできなければ明朝六時まで待つ、と云つてゐる。」と申し入れてきた。そして、それから逐條審議に入り、それから約二十二時間後の翌五日午後四時ころに司令部での確定案の作成作業が完了した。

五日、司令部での前日から強行された確定案の作成作業で順次纏まつた案が送られてくるのを踏まへ、朝から閣議が開かれてゐた。このやうな強引な手法で確定案が作成されたことに、最早抗することができないとして、閣議で『GHQ修正草案』の採擇を決定した。これが政府の『確定草案』(三月五日案)となり、若干の字句の訂正を經て、『帝國憲法改正草案要綱』を作成し、マッカーサーの承認を得た。

同日、帝國憲法改正私案としての『憲法懇談會案』發表。

同日、チャーチル元イギリス首相は、アメリカのフルトンで「鐵のカーテン」演説を行ふ(冷戰の始まり)。

六日、幣原首相は、樞密院の諮詢を要する案件である改正草案について、その諮詢前に發表することは憲法慣例上の問題があつたため、司令部との關係で緊急に發表しなければならない事情を説明して樞密院の了解を求め、『帝國憲法改正草案要綱』を發表(いはゆる「三月六日案」)。そして、マッカーサーは、『帝國憲法改正草案要綱』を全面的に承認する旨の聲明を出し、統制下に置かれてゐるメディア各社は、これに呼應して擧つて『帝國憲法改正案要綱』に全面的に贊意を表明する。

同日、『憲法改正に關する敕語』が公布される。それは、「朕曩ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本國政治ノ最終ノ形態ハ日本國民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本國民ガ正義ノ自覺ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戰爭ヲ放棄シテ誼ヲ萬邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ國民ノ總意ヲ基調トシ人格ノ基本的權利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ國家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ政府當局其レ克ク朕ノ意ヲ體シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」といふものであつた。

十日、極東委員會(FEC)は、憲法草案の政策決定を行ふ。

十二日、ソ連軍は、蒋介石の駐留要請を斷つて、瀋陽から撤退を開始し、五月三日には旅順と大連に一部を殘し、滿洲から撤退した。

十三日、スターリンは、「鐵のカーテン」演説をしたチャーチル元英國首相を戰爭挑發者と非難する。

十四日、衆議院は、國政選擧で初めての「政見放送」を實施する。

十五日、GHQは、政府提出の農地改革計畫を不承認。

十六日、GHQは、『引き揚げに關する覺書』を公布し、在外邦人約八百萬人の引き揚げを指令する。

十八日、外務省は、『憲法草案要綱に關する内外の反響(その一)』を發表。

二十日、幣原首相は、樞密院會議において、帝國憲法改正草案要綱を發表するに至つたこれまでの經緯について、「極東委員會ト云フノハ極東問題處理ニ關シテハ其ノ方針政策ヲ決定スル一種ノ立法機關デアツテ、其第一回ノ會議ハ二月二十六日ワシントンニ開催サレ其ノ際日本憲法改正問題ニ關スル論議ガアリ、日本皇室ヲ護持セムトスルマ司令官ノ方針ニ對シ容喙ノ形勢ガ見エタノデハナイカト想像セラル。マ司令官ハ之ニ先ンジテ既成ノ事實ヲ作リ上ゲムガ爲ニ急ニ憲法草案ノ發表ヲ急グコトニナツタモノノ如ク、マ司令官ハ極メテ秘密裡ニ此ノ草案ノ取纏メガ進行シ全ク外部ニ洩レルコトナク成案ヲ發表シ得ルニ至ツタコトヲ非常ニ喜ンデ居ル旨ヲ聞イタ。此等ノ状勢ヲ考ヘルト今日此ノ如キ草案ガ成立ヲ見タコトハ日本ノ爲ニ喜ブベキコトデ、若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル」と報告する。

これは、マッカーサーが天皇を人質にした強迫と詐術に幣原首相が屈服かつ信じて樞密院に報告し、樞密院もこの論法に騙されたといふことである。

同日、極東委員會(FEC)は、『日本憲法に關する政策』を採擇し、マッカーサーに通告。その骨子は、日本憲法問題に關して、①極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること、②最高司令官は草案の推移について絶へず極東委員會に報告すべきこと、③草案の内容はポツダム宣言に適合するものであるべきこと、④しかもそれは日本國民の自由な意思の表明の保障の下に採擇されるものであること、などである。

二十二日、日本政府の行政區域が對馬、種子島、伊豆諸島までに限られる(北緯三十度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。

同日、米第八軍司令官は、米兵が日本女性に「公然と愛情表現」を行ふことを禁止する旨の指令を出す。

二十四日、初の「カリフォルニア米」輸入船が橫濱に入港。

二十五日、占領軍兵士からタバコなどを購入した四十一人が檢擧される。

二十六日、金森德次郎は、内閣囑託を受任する。

二十七日、GHQ覺書により對占領軍慰安所が閉鎖される。

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