國體護持總論
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著書紹介

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昭和二十二年一月

一日(元旦)、マッカーサーが、國民に試練突破を強調する聲明を出す。

 同日、吉田茂首相は、年頭の辭をラジオで放送し、大規模なゼネストを指向する勞働運動の左派指導部に關して、「一般に勞働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の增強以外にないのであります。然るに、この時にあたり、勞働爭議、ストライキ、ゼネストを頻發せしめ、市中にデモを行ひ、人心を刺激し、社會不安を激發せしめ、敢へて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が國民中に多數あるとは信じませぬ。」といふやうな發言をした。この「不逞の輩」發言が非難されて問題化し、來るべき二・一ゼネストへの發火點となる。

 三日、マッカーサーが吉田茂宛に更なる憲法改正についての書簡を送る。

 「施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに國會の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合國は決定した。もし、日本人民がその時點で憲法改正を必要と考へるならば、彼らはこの點に關する自らの意見を直接に確認するため、國民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであらう。」といふ内容のもの。

 これは、極東委員會(FEC)が昭和二十一年三月二十日に採擇した『日本憲法に關する政策』において、マッカーサーによる憲法制定手續がポツダム宣言に定める「日本國國民の自由に表明せる意思」に反するとしてそれ以後はマッカーサーと對立してゐたことを反映するものであるが、マッカーサーは、この決定を極東委員會(FEC)の決定とせずに、連合國の決定と表記した。

 四日、公職追放令を改正し、對象を三親等・言論界・地方公職などに擴大。(第二次公職追放)。

 六日、産別會議と國鐵總連は、吉田首相の元旦における「不逞の輩」發言の取り消しと謝罪を求める抗議文を發表。

 同日、日本共産黨第二回全國協議會において、德田球一は、「ゼネストを敢行せんとする全官公勞働大衆諸君の闘爭こそは、民族的危機をますます深めた吉田亡國内閣を打倒し、民主人民政權を樹立する全人民闘爭への口火である。」と吠えた。

 七日、GHQは、支那からの百五十萬人の引揚げ計畫を完了と發表。
 九日、全官公廳共闘の擴大闘爭委員會がスト戰術對策委員會を運輸省内で開催し、ゼネスト決行の期日を二月一日とすることを決定。

 十一日、全官公廳勞組共闘委員會(組合員二百六十萬人)が「スト態勢確立大會」を宮城前廣場で開催し、委員長伊井彌四郎がゼネスト決行宣言を行ふ。その後、四萬人の參加者が宮城前から首相官邸に向けてデモ行進。

 十五日、二・一ゼネスト計畫のために、産別會議、總同盟、全官公廳共闘など三十組合によつて全國勞働組合共同闘爭委員會が結成(四百萬人)。
 十六日、GHQは、占領軍將兵の日本人家庭訪問時限を午後十一時までと指令。

 同日、占領典範、皇室經濟法、内閣法が各公布。

 十七日、憲法普及會の常任理事會が首相官邸で開催され、GHQ民政局員のハッシーとエラマンが出席。全國を十區域(東京、關東、北陸、關西、東海、中國、四國、九州、東北、北海道)に分け、各地區で四日ないし五日間の日程で講師による中堅公務員の研修を實施することを決定。

 十八日、全官公廳勞組擴大共闘委員會委員長伊井彌四郎が、二月一日午前零時を以て無期限ゼネストに突入することを發表。

 二十四日、東京裁判の檢事側立證が終了。

 二十五日、中央勞働委員會が第一回政勞交渉の斡旋を實施するが、吉田首相は風邪を理由に缺席し、斡旋が實施されず。

 二十八日、宮城前廣場で「吉田内閣打倒 危機突破國民大會」が開催。中勞委による政勞交渉の第二回斡旋が實施されるが、斡旋案を共闘側が拒否。共産黨と社會黨が祕密連絡會議を開催し、このとき、德田球一は、「たとへ米軍の機關銃の前に死のうとも斷じてゼネストを決行する」と強い決意表明をしたとされる。

 二十九日、吉田首相は、社會黨に對し、連立政權を打診。社會黨はこれを拒否。

 三十日、中勞委の仲介により、政府と共闘側との直接交渉がなされるが、交渉決裂。

 三十一日、德田球一は、共産黨本部前で、「ゼネストを先頭とする、この大闘爭こそが生産增強のムチとなり、同時に反動勢力を一掃する強力な力を結集することになるのである。全人民が、この點を見失はざることを望むと同時に、この勞働者の一大闘爭に合流し、自己の一切の要求をかけて、闘爭されんことを望むものである。」との聲明を發表。

 同日、午後四時、マッカーサーは、連合國最高司令官權限に基づき「二・一ゼネスト」の中止命令を發令。これを受けて、全官公廳勞組擴大共闘委員會伊井彌四郎議長は、GHQに出頭を命ぜられ、全組合員に對し、NHKラジオを通じてゼネスト中止を表明するやうに強制され、この命令を受け入れた。そして、「聲が涸れてゐてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですから、よく聞いてください。私は今、マッカーサー連合國最高司令官の命により、ラジオを以て親愛なる全國の官吏、公吏、教員の皆樣に、明日のゼネスト中止をお傳へいたしますが、實に、實に斷腸の思ひで組合員諸君に語ることを御諒解願ひます。敗戰後日本は連合國から多くの物質的援助を受けてゐますことは、日本の勞働者として感謝してゐます。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。一歩後退二歩前進。」と涙ながらにNHKラジオで中止の呼びかけを行ふ。この「一歩後退二歩前進」といふのは、レーニンの著作である「一歩前進二歩後退」を捩つた言葉である。この放送を行ふことを最後まで迷つた伊井は、NHKの放送室に向かふ狹い廊下で何故か德田球一と出會ふ。そして、この時、伊井は、德田球一から、「ストをやめると放送しなくてはダメですよ。」と説得されたといふ。そして、共闘委員會解散。後に、伊井は占領政策違反で逮捕され、懲役二年が言渡される。

 このやうに、占領憲法の制定から施行に至るまでの經緯は、この二・一ゼネストの中止命令に至るまでの勞働運動の經過と、東京裁判の起訴から判決に至るまでの經過とが三つ巴となつて、これらを包攝した占領統治のうねりの中で同時進行的に推移したものと云へる。

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