國體護持總論
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著書紹介

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男系男子の皇統

國體における最重要の内容の一つに、前に述べた男系男子の皇統がある。  このことに關連して、近年、DNA論で皇統を語る言説が多くなつてゐることが問題である。しかも、男系男子の傳統を擁護する者の中には、神武天皇Y染色體論を持ち出す者も多く、また、女系を容認する者の中には、天照大御神が女性神であるから女系が許されるなどとする天照大御神X染色體論(女性神論)を持ち出す者も出てきてゐる。

男系男子の皇統の規範的根據として、『養老令』にある『繼嗣令』の「皇兄弟皇子。皆爲親王。女帝子亦同。」といふ規定がある。この解釋について、女系容認論(高森明勅)は、「女帝の子また同じ」とし、否定論(中川八洋)は「女(皇女)は帝(天皇)の子また同じ」と解するのであるが、後者が正しいことは多言を要しない。正確には、「女帝子」を「女帝の子」(女系容認論)と解するのではなく、「女の帝子」、つまり皇女(内親王)と解するのであつて、「女帝の子」論は爲にする國體破壞の言説である。

しかし、男系男子の皇統を護持しなければならないのは當然であつても、このやうに、皇統をDNA論で語ることが皇統を護持することについて如何に有害であるかについての警鐘を鳴らしたい。

まづ、はつきりさせておきたいことは、生物學や遺傳學において、このDNAの意味するものは、これが「死」と「性差」の起源であるといふことである。

性の區別(性差)があるものは、交合生殖によつて種族保存を實現するために、例外なくDNAを持ち、そして必ず個體は死に至るといふ宿命がある。DNAを持つことは死の宿命であることの十分條件(sufficient condition)であるといふことである。もし、神に性差があるとすれば、それはDNAを持つ存在となり、壽命の長短はあつても、いづれは死を迎へるのであつて、「神は死んだ」と叫んだニーチェの言葉が正しかつたことが證明されることになる。

はたして、神に死があることを認める信仰が世界にあるのか。古事記上卷と日本書紀卷第一神代上及び第二神代下を素直に讀めば、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)とはそれぞれ「男性神」と「女性神」であり、それゆゑにイザナミノミトコは死んで(神避りましき)黄泉國へ行つたとされてゐる。しかし、イザナギノミコトはどうして死なないのか、イザナギノミコトが禊祓して「左の御目を洗ひたまふ時に」、その男性神からどうして天照大御神が生まれるのか、どうして急にイザナギノミコトは女性神となつたのか、そのときの男性神は誰なのか、などといふ粗野ではあるが素朴な疑問に對峙するとき、このやうな解釋で果たしてよいのかと戸惑ふことになる。

つまり、この神話は何らかの寓意であつて、神の世界では、死といふものはなく、黄泉國も死後の世界を意味しない。また、性の區別もなく、その「作用」があるだけである。前に述べたとほり、「禮之用、和爲貴」(禮の用は和を貴しと爲す。論語)や、「能に體、用(ゆう)の事を知るべし。體は花、用は匂いの如し。」(至花道)といふやうに、物事の本質や本源を「體」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」として區別すれば、神には、性別の「體」はなく「用」があるのみである。

つまり、イザナミノミコトや天照大御神は「女用神」であつて、「女體神」ではない。また、イザナギノミコトや建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)は、「男用神」であつて「男體神」ではない。神に性差を認めることは、そのDNAを認めて死を宿命付けることとなり、神道としては成り立たない。

それゆゑ、神武天皇Y染色體論から必然的に生まれるものは、その神武天皇のY染色體はどこから由來したのかといふ疑問であり、その探求をして行くと、ついにはイザナギノミコトY染色體論へと辿り着くことになる。そして、その過程で生まれるのが、天照大御神X染色體論である。ここまで來れば、神武天皇の神格どころか、天照大御神の神格を否定し、ついには神世七代と別天つ神五柱のうち「身を隱したまひき」とある神々について、これを「死」と解釋してこれらの神格をも否定するに至る必然性を持つてゐる。

そもそも、神武天皇Y染色體論とは、「男系男子の皇統」といふことを表現する手段として、未解明な遺傳學のDNA論の流行に便乘し、「男系男子の皇統」といふ傳統的な言葉を「神武天皇Y染色體の繼承」といふ新しい言葉に置き換へれば、解らない者も解つたやうな氣分に浸れるといふ外連味(けれんみ)の效果を狙つた小賢しい言説であつて、決して「男系男子の皇統」であるべき根據を示すものではなく、何ら深みのある見識ではない。それどころか、その説明の手段として用ゐたDNA論が却つて皇統を辱めることになるのである。

このやうに、ミトコンドリア・イヴやY染色體アダムなどの議論に振り回されるDNA論から派生して、神武天皇Y染色體とか、天照大御神X染色體(女性神)とかの議論を以て皇統を語ることが許し難い誤りであることの大きな理由が、まさにここにある。


そして、さらに、DNA論には、もう一つ大きな誤謬がある。

それは、DNA論は紛れもなく「唯物論」であるといふ點である。天皇の血統といふこと自體が唯物論であるが、皇統にとつて最も重要なものは、血統とともに、皇靈(すめらみたま)を繼承する靈統なのであり、その核心に宮中祭祀と神宮祭祀とによる天皇祭祀がある。

DNA論では、この皇靈を全く説明できないし、なによりも、これ自體を否定するものである。このことは、決してDNA論自體の學問的價値を否定してゐるのではない。DNA論といふ唯物論を振りかざして、皇統を語ることの危險を指摘してゐるのである。靈統を核とする皇統を唯物論であるDNA論で語ることの無理を指摘してゐるのである。ところが、專門バカか、バカ專門かは知らないが、皇統の何たるかを知らないDNA論者が未だに一知半解の議論を繰り返してゐるのは、反皇統の謀略としか考へられない。

思ふに、そもそも、男系男子の皇統が傳統として守られてきた根據は、主に次の三點である。①女人禁制の宮中祭祀が存在すること、②天皇は大元帥の地位にあること、③閨閥による皇位簒奪の危機を回避すること、である。

男系男子の皇統は國體を構成する傳統的要素であつて決して理屈ではない。これは最高規範たる規範國體そのものである。皇統は、皇祖皇宗の血統の器に皇祖皇宗の皇靈(すめらみたま)を受け繼ぐ靈統を意味するものであつて、その血統と靈統の證を核心付けるものが宮中祭祀であり、この宮中祭祀のうち、天皇御親ら行ふ祭典(大祭)には、春季皇靈祭や秋期皇靈祭などのやうに女人禁制の儀式がある。

また、肇國以來、天皇は躬ら大伴物部の兵(つはもの)どもを率ゐた大元帥であり、常在戰場の激務であることから、生理的、體力的な理由からして男子でなければならない。大化改新後の多難時に百濟救援の皇軍を統帥された斉明天皇の場合は例外であるが、これはあくまでも唯一の例外である。神功皇后の例は例外とは言へない。前に述べたとほり、明治政府においても、明治十一年に參謀本部が設置され(參謀本部條例)、翌十二年に「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ」との布告が出され、明治十五年には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」との軍人敕諭が完成してゐる。つまり、「統帥」は、主に「國務」を規律した明治二十二年の帝國憲法よりも早く完成してをり、これが統帥權の獨立といふ過度な政治的主張の根據ともなるのであるが、いづれにせよ、ここにも、大元帥は男子天皇でなければならないとする傳統の明徴が見られる。

そして、蘇我氏、藤原氏、平氏などの君側が勢力を伸長するのは、常に天皇との外戚となつて閨閥を強化する過程を辿り、これにより閨閥政治が行はれて私物化されてきた歴史がある。中臣鎌足は、天智天皇から藤原の姓を賜つたとき、藤は自ら天を突く巨木にならないがその強靱な蔓によつて天皇といふ巨木に絡まつて生きるであらう、と賜姓の思惑を一族の者に語つたと傳へられてゐるやうに、環境によつては、蔓によつて巨木が逼塞することもあり、實際にも幾度となくその危險はあつた。もし、男系男子の皇統を護持しなかつたならば、閨閥による皇位の簒奪が繰り返されることになつたはずである。これは、閨閥が君側の奸となる可能性が一番大きいといふことを意味する。そもそも、君側の奸を除くといふことは、安祿山が、唐の玄宗皇帝の后となつた楊貴妃の又從兄弟として宰相李林甫を凌ぐ權力を握つた楊國忠を除くために擧兵した際に掲げた言葉であつた。それゆゑ、このやうな混亂と危險から皇統の安泰を圖り、閨閥や外戚による皇位簒奪の危機から皇統を護持し續けるための叡智として、閨閥と外戚などの相互牽制による動的平衡を保つて男系男子の皇統を守り續けたものであつて、これが規範國體となつたのである。

このやうに、この男系男子の皇統の根據は、これらの理由によつて續けられてきたその「傳統」といふ國體規範に求めるられるものであつて、決して神武天皇Y染色體論といふ輕薄なものを根據とするものではない。この神武天皇Y染色體論に與して男系男子の皇統護持を主張することは、皇統を唯物的、生物學的なものとして蔑む元凶となり、天照大御神X染色體論(女性神論)に對して全く反駁できずに完敗する。

警戒すべきことは、皇統を辱め、皇統斷絶をさせる明確な意圖を持つて、あへて神武天皇Y染色體論を唱へ、これが天照大御神X染色體論(女性神論)に敗北することを論理的、科學的に必然であることを明確に想定してゐる者の集團が居ることである。そして、その集團の言説に引き摺られ、多くの無明の者が騙されて、この神武天皇Y染色體論に同調してゐるのが現状である。まさに後に述べる「ハーメルンの笛吹き男」と、これに惑はされたネズミの大群と多くの子供たちである。

この天照大御神X染色體論(女性神論)に對する反駁は、DNA論ではその敗北は必至であり、今まで述べてきた「傳統論」、「國體論」でなければ不可能である。それは、これまでの理由に加へて、以下のやうに反駁すべきものである。

假に、天照大御神からの皇統の源流が、初めは女系から出發したものであるとしても、それは一回的な「先例」であつて反復繼續した「傳統」ではない。歴史的に見ても、一回的な「先例」は單なる例外であつて、今日まで反復繼續して守られてきた「傳統」といふ大原則を改變する力はない。女系容認は、「先例」と「傳統」とを完全に混同し、意圖的にすり替へるものである、と。

また、嚴密に云へば、假に、天照大御神を「女用神」ではなく「女性神」とし、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)とはそれぞれ「男性神」と「女性神」であるとして、あたかも神格に性差を認める暴論に立つたとしても、伊邪那岐命から神武天皇に至る神格の繼承は、建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)を經由した「男神系」で貫かれてをり、皇統は天照大御神を始源とするものではない。よつて、天照大御神X染色體論(女性神論)を根據とする女系容認論は完全に破綻してゐる。男系男子の皇統は、規範國體なのである。

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