國體護持總論
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無效理由その三 軍事占領下における典憲改正の無效性

ポツダム宣言では、「全日本國軍隊の無條件降伏」(第十三項)を要求し、その目的のために「聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし」(第七項)としてゐた。これは、我が軍の武裝解除などの目的のために、我が國の一部の地域を占領し、その地域内における統治權を制限することを限度とする「一部占領」の趣旨であり、國土全部を占領し、統治權自體の全部の制限、即ち、「全部占領」を意味するものではなかつた。また、第二章で明らかなとほり、その占領態樣は、降伏文書に調印した翌日(昭和二十年九月三日)に「間接統治」とされたものの、その實質は、占領典憲制定の強制、東京裁判の強行、徹底した檢閲と言論統制、メディア支配、公職追放、レッドパージ、内閣と政府の人事に對する直接干渉と指令、選擧干渉、議會審議干渉、法案制定指示、財閥解體、宮家皇籍剥奪、裁判干渉、二・一ゼネスト中止命令など、國内統治の全事象に亙つてその主要事項については「直接統治」となつてゐた。

つまり、降伏文書によれば、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とされ、ポツダム宣言第七項に違反して「全部占領」を行つたのである。ポツダム宣言受諾後に武裝解除が進み、一切の抵抗ができなかつた状況で、「日本軍の無條件降伏」から「日本國の無條件降伏」への大胆なすり替へである。

しかし、それでも、第二章で述べたとほり、これが無條件降伏であるか有條件降伏であるかについては見解が分かれるのは、嚴密には、ポツダム宣言の受諾が「有條件降伏申入の無條件承諾」といふ態樣に起因するものである。しかし、さうであるとしても、GHQの占領統治は、デヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」ではなかつたので、「無條件降伏」の意味や、バーンズ回答と降伏文書にある「subject to(隷屬)」の意味をどのやうに理解したとしても、日韓併合における大韓帝國の消滅のやうな場合ではなかつたことだけは明らかである。それゆゑ、我が國は、獨立は喪失したものの連合國の「被保護國」の地位にある國家として講和條約を締結しうる當事國能力は降伏後も存續したのである。

このやうな状況で、我が國は、その全土が連合國の軍事占領下に置かれたが、統治權が全面的に制限されることを受忍してポツダム宣言を受諾したのではないから、その後になされたデベラチオ(直接統治)に近い完全軍事占領は國際法上も違法である。

第二章で述べたとほり、立法に對しては、昭和二十一年五月四日に鳩山一郎(日本自由黨總裁、衆議院議員)、同二十一年五月十七日に石橋湛山(日本自由黨、衆議院議員)及び同二十三年一月十三日に平野力三(日本社會黨、衆議院議員)をそれぞれ公職追放した「三大政治パージ」をはじめ、何百人もの政治家、國會議員を排除した。また、行政(内閣)に對しては、萩原徹外務省條約局長の更迭(昭和二十年九月十五日)、内務大臣山崎巖の罷免要求(昭和二十年十月四日)、それによる東久邇宮稔彦内閣が總辭職(同月五日)、農林大臣平野力三の罷免要求(昭和二十二年一月四日)、閣僚中五名の公職追放該當者がゐたことによる幣原喜重郎内閣の改造人事と松本烝治國務大臣の暫定的特免の申請(昭和二十一年一月十三日)などがなされ、占領憲法施行後においても大蔵大臣石橋湛山の公職追放(昭和二十二年五月十七日)などがなされた。さらに、占領憲法施行後において、司法に對しては、東京地方裁判所が昭和二十三年二月二日になした平野力三に對する公職追放指定の效力發生停止の假處分決定に干渉して取消させ、國民に對しても、占領憲法制定後において、二・一ゼネストの中止命令(昭和二十二年一月三十一日)を發令したのである。それ以外にも、選擧干渉、議會審議干渉、法案制定指示、財閥解體、宮家皇籍剥奪などについて直接に指令するなど、皇室、立法、行政、司法のみならず、民生に對してまで、ありとあらゆる事象において、實質的にはデベラチオ(直接統治)を實施してきたのである。

從つて、このやうな態樣による完全軍事占領下で、連合國が帝國憲法と明治典範の改正作業を命令して、一部始終に關與すること自體がポツダム宣言と降伏文書に違反する。

そもそも、完全軍事占領下といふのは、自由意志のない繼續的な強迫状態に置かれてゐるといふことである。この状態下においては、成立の外觀において任意性があるかのやうな樣相があつても、實質は國家の自由な意志は否定されてゐる。ポツダム宣言の結語に「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」と言明され、原爆投下によつてジェノサイドの危機に追ひ込まれた強迫状態において、さらに、皇室を廢絶するといふ強迫も加はつた状態が繼續する中で、なだめられたり、すかされたり、再び脅かされたりを繰り返され、お爲ごかしに優しく説得された擧げ句、後に述べるやうな「蚤の曲藝」の調教が完成し、遂に抵抗を諦めて、占領典範と占領憲法を承諾したのである。銃口を突きつけられて自己の墓穴を掘らさせられた上で殺害されたことを自殺と評價することはできないのである。これは、意思主義の理論からしても、このやうな絶對強制下では自由で任意の意志はなく、占領典範も占領憲法も本來無效であることは多言を要しないところである。

國際法においても、ヘーグ條約によらずとも、外國軍隊の占領中の憲法改正は當然に禁止され、これを事後に否定した例もある。ナチスの占領終了とともに占領法規は破棄され、ベルギー、オーストリアは舊憲法を復活させ、フランスは新憲法を制定し、東歐のソ連傀儡政權の憲法もソ連崩壞とともに破棄されたのである。昭和十五年(1940+660)、フランスはナチス・ドイツの攻撃で敗れて降伏し、休戰協定を經て、パリを含むフランス北部と東部がドイツの占領下に置かれた。そして、ペタン元帥を首班とするナチス・ドイツの傀儡政權が南フランスのヴィシーに誕生し(ヴィシー政權)、七月十日にはペタンの授權獨裁を容認する新憲法が制定された(ペタン憲法)。そのため、ナチス・ドイツの占領から解放されるとペタン憲法は破棄され、その後に制定された『フランス一九四六年憲法』第九十四條には、「本土の全部もしくは一部が外國軍隊によって占領されている場合は、いかなる改正手續も、着手され、または遂行されることはできない。」と規定されてをり、これは國際慣習法としても定着した國際系の法理として、明文規定がないとしても、我が國の法制(國内系)にも妥當する普遍の法理と考へられる。

我が國の占領憲法は、このペタン憲法と同じである。米軍基地が容認され北方領土が侵奪されてゐるなどの情況が繼續してゐる戰後體制は、未だにGHQの實質的占領下にあることと同じである。それゆゑ、占領憲法とそれによる戰後體制を容認するこれまでの占領憲法政權は、ヴィシー政權と同じである。このフランスの歴史的教訓は、占領憲法と占領憲法政權を打倒することの正統性、正当性の根據を示してゐるのである。

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