國體護持總論
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無效論と似非改憲論と似非護憲論

このやうに、無效論は辯證法的に進展してきたが、一般には、似非改憲論(改正贊成護憲論)の仲間といふか、その脇役ないしは助つ人ぐらいしか認識されて來なかつた。その理由は、これまで無效論自體の理論的な完成度が未熟であつたことを率直に認めたとしても、それでも無效論を取り卷く環境が、餘りにも嚴しいものであつたことによる。それは、政治的には、占領憲法の似非護憲論(改正反對護憲論)と似非改憲論(改正贊成護憲論)の對立構造の中に埋没し、學問的にも、無效論は現在の教育制度から完全に放逐された。といふか、初めから相手にされずに閉め出されてきた。

敗戰利得者になるためには、「戰前」といふ踏み繪を踏んでこれに唾棄し、有效論に鞍替へした者だけが政界、官界、教育界などに受け入れられた。そして、それが惰性的に踏襲されて今日に至つてゐる。占領憲法の「解釋業者」である憲法學者としては、學理の追求よりも保身が優先し、占領憲法が無效であると主張することは勿論のこと、その效力論に言及することさへタブーであり、失職する原因になる。

このやうにして、占領憲法有效説派(占領憲法眞理教)が我が國の國家教學(司法試驗制度、裁判制度)となり、德川幕府の官學であつた朱子學、または、李氏朝鮮で國家教學であつた朱子學に比肩される存在となり、有效性に異議を唱へ、あるいは疑問を持つことは、「寛政異學の禁」以上に陰濕な方法でパージーされる。

無效論と似非改憲論(改正贊成護憲論)と似非護憲論(改正反對護憲論)との三つ巴の關係は、まさに、皇軍と國民黨軍(蒋介石)と八路軍(毛澤東)との關係と相似してゐる。蒋介石の率ゐる國民黨軍(似非改憲論)は、皇軍(無效論)に對して侮日工作と抗日闘爭(無效論に對する執拗なデマ攻撃)を繼續し、歐米の援助を受けつつ(日米の政権與黨間の協調による秘密資金の供與を受けつつ)、支那事變を擴大(細川内閣、村山内閣などの容共的反日政權を樹立)させる。毛澤東の率ゐる八路軍(似非護憲論)は、皇軍(無效論)とも戰ひつつ、共産主義(國民主權論)を鞏固に抱いてゐる者を國民黨軍(似非改憲論)に送り込んで國民黨軍と皇軍(國體論)とを闘はせ、ついには國共合作(占領憲法の有效性に固執する似非改憲論と似非護憲論との大同團結)を實現させる。そして、ポツダム宣言受諾後になると、蒋介石(似非改憲論者)は、「恨みに報ゆるに德を以てす」(老子)などとお爲ごかしに叫び、戰爭による損害賠償の放棄をしたといふ虚名に隱れて、その實は、邦人が臺灣につぎ込んだ在外資産を全て没収して、桁違ひに莫大なる戰爭利得を我が物にしたのである。これは、似非改憲論者がこれまで虐げられてきた被害者であり敗戰利得者ではないとの虚名に隱れて、その實はこの戰後體制における最大の敗戰利得者であることを隱し續けてゐる姿と重なつてゐる。

ともあれ、このやうな情況の中で、これまで、占領憲法については、似非護憲論と似非改憲論との論爭しか目立たなかつた。しかし、これは「立法論」である。これに對し、有效論と無效論との論爭は、「立法論」ではなく「解釋論」(效力論)であつて、これらの論爭を混同してはならない。あくまでも、似非護憲論と似非改憲論とは、「有效論」を前提とする立法論なのである。別言すれば、似非護憲か似非改憲かは「政治論」であり、有效か無效かは「法律論」であつて、議論の性質を異にするのである。このことは、占領典範についても同樣である。

また、現在の論壇にあつて、無效論と呼ばれるものは、概ね「舊無效論」であつて、「眞正護憲論(新無效論)」ではない。正確に言へば、眞正護憲論(新無效論)は、帝國憲法の改正としての占領憲法について、憲法としては絶對無效であるが、帝國憲法の下位に位置する「東京條約」(占領憲法條約)として、國際系の「桑港條約」と同列の講和條約として轉換されたものの、時際法的處理が未だになされてゐないことから、正式に國内系への編入はなされてゐないが、事實上運用されてゐることから、それが憲法的慣習(事實たる慣習)ないしは憲法的慣習法(法たる慣習)として存在することになるといふものである。それゆゑ、現存する帝國憲法の護憲論であるといふ意味で「眞正護憲論」に分類されることになる。

そして、眞正護憲論(新無效論)以外の「有效論」が行ふ批判の矛先は、專ら舊無效論に向けられ、特に、舊無效論が法的安定性を著しく無視する見解であるとの點に批判は集中してゐる。そして、このことが、一般の人々をして無效論に懸念を抱いてしまふ元凶となつてゐたのである。確かに、舊無效論には、重大な歴史的意義と使命があつた。しかし、このやうな先驅的價値はあつたが、今では理論的價値はない。私もこれに觸發された一人であるが、今では舊無效論の弊害が目立ち、我が國の再生にとつて舊無效論はむしろ有害であり、歴史的な意義をもたらした名譽を維持しつつ速やかに退場すべきときが來てゐる。

今、憲法改正といふことが公然と叫ばれるやうになつたが、少し前と比較すれば、まさに今昔の感がある。昔は、政府首腦が憲法改正を唱へれば、教條的似非護憲論者が大勢を占める政治状況では確實に「政局」になつたはずである。ところが、小泉内閣において、小泉純一郎首相が、「自衞隊は軍隊である」と答辯しても、全く政局にもならないほど、開き直りと諦めが國會を覆つてゐる。

また、似非改憲論者からは、占領憲法は「賞味期限が切れた」とか、「古くなつた」といふやうな遵法心のない不謹愼な發言も平氣でなされる。憲法を生鮮食料品に擬へることの無分別さにも呆れるが、「古い」といふことを嫌惡する者には、歴史や傳統、それに國體のことを到底理解する資質があるとは思へない。

ここで、繰り返してでも明確にする必要があるのは、似非改憲論といふのは、「有效論」であり、占領憲法護憲論の仲間であるといふことである。この似非護憲論には、改憲反對と改憲贊成とがあるだけであつて、この兩者は、いづれもマッカーサーの掌で踊る「蚤」であり、「蚤の曲藝」における蚤の意識から脱却できないでゐる者たちである。そして、多くの人は、現在の閉塞的な政治情況の中で、これまでの似非改憲論と似非護憲論との對立情況では、改憲も不可能であり、解釋改憲にも限界があつて、國家有事のときに對應できないことを知つてゐるが、それでも「蚤の曲藝」をし續けてゐる。

とりわけ、この似非改憲論と似非護憲論の對立は、それが占領典範の問題に舞臺を移すと、次のやうな捻れ現象になる。つまり、女性天皇、女系天皇を認めるか否かといふ議論について、似非改憲論者は、概ね占領典範の改正に反對し、似非護憲論者は、概ねその改正に贊成する。つまり、概ね、似非改憲論は「似非護典論」、似非護憲論は「似非改典論」となるのである。そして、いづれも占領典範有效論であることに變はりはなく、占領典範といふ皇室彈壓(皇室の自治否定)を續ける反國體論者である。これらの主張は、單に「立法論」であり、いはば趣味の世界に埋没してゐるのであつて、何ら根本問題を理解してゐない。

また、似非改憲論者の中には、「自主憲法」といふことを叫ぶ者がゐる。この意味の詳細は不明なことが多いが、これを「國家の自主憲法」とするか「國民の自主憲法」とするか、つまり、自主性の主體は誰かといふことによつて大きく別れる。前者は帝國憲法復元の意味につながるが、後者は國民主權主義に毒された言説に過ぎない。ましてや「自主憲法制定」といふ言葉に至つては、明らかに國民主權主義者であると斷言できる。帝國憲法は既に「制定」されてゐるし、國體規範は、そもそも初めから存在するものであるからである。ましてや、「改正」も覺束ない政治状況であるのに、改正の極地である「制定」など夢のまた夢である。そして、その論理すら提示しえない敗北主義に陷つてしまふのである。

以上に述べたことから、占領憲法の似非護憲論(改正反對護憲論)は云ふに及ばず、似非改憲論(改正贊成護憲論)もまたこれに勝るとも劣らない、祖國再生を阻む勢力であることが解る。双方とも、マッカーサーの掌の上で、占領憲法を有效であると忠誠を誓つて保護を受けながら、似非護憲論同志の茶番論爭をし續ける反日兄弟であり、特に、似非改憲論者からすると、これまでの欺瞞と虚僞が眞正護憲論(新無效論)によつて白日に曝されることを恐れてゐる。

憲法として容認できないものを有效であるとし、それを改正すれば足りるといふのは、占領憲法を制定させた巨大なGHQの暴力を容認し、祖國への原状回復を否定する賣國行爲である。過去の巨大な外國の暴力を肯定しながら、現在の微小な國内の暴力を聲高に否定する。そして、憲法問題では原状回復論を放棄しながら、拉致問題では原状回復論を堅持する。このやうな致命的な自家撞着に氣付かずに似非改憲論を唱へる者が未だに居ることこそ、占領政策の洗腦がいかに徹底した凄まじいものであつたかを證明する現象でもある。

また、似非改憲論者は、眞正護憲論(新無效論)に對し、その内容を知らずに先入觀だけで眞正護憲論(新無效論)は非現實的であると批判する。しかし、その言葉は、そのまゝ熨斗を付けてお返しせねばならない。占領憲法第九十六條といふのは、改正規定ではなく、ここで規定されてゐる要件の嚴重さを見れば、これは「改正禁止規定」なのである。そして、現在の政治状況からして、いつまで經つても改正は不可能である。逆に、眞正護憲論(新無效論)による復元手續の方がはるかに現實的である。

現在の似非改憲論は、改正してまでこの占領體制を永久に繼續させようとする強固な反日思想に成り果ててゐる。そして、その役回りとしては、集團的自衞權は存在するが行使できないとする内閣法制局の解釋を變更させて、解釋改憲を完成させるための應援團を演じてゐるだけである。改憲は政治日程的にも無理であると諦めてゐる。本氣で改憲ができると信じてゐる者は居ない。それは、占領憲法が憲法として有效であると認めた上で自衛隊が合憲であると本氣で信じてゐる者が居ないのと同じである。そして、鐘や太鼓を鳴らして應援團の役割を演じ續けてゐれば、改憲議論が高まつてゐるといふ雰圍氣を釀成させることができる。ただ、それだけである。傳統保守の本流である眞正護憲論(新無效論)に辿り着くこともできず、保守的なノスタルジアに浸りながら保守風味の言動で滿足するマスターベーション的保守である。その上で、その雰圍氣に乘じて、エイヤーの掛け声で一氣に政府が解釋改憲をしてくれることを願ふこと以外に生き殘る道はないのである。エイヤーで解釋改憲をしてくれたら試合終了となり、應援團はその役目を終へて解散する運命にある。

この似非改憲論者の意識状態は、あたかも、不當違法に逮捕勾留されてゐる収容者が、原状回復を求めて早期の釋放を求めることはせずに、專ら留置場における待遇改善を求めてゐる姿と重なり合ふのである。そして、似非護憲論者は、「飯を喰へる保障があるからここにずつと居たい。なにも待遇改善を求めることもない。ここが天国だ。」とする意識と同じと云へる。どうして、無效論者のやうに、「不當逮捕勾留であるから直ちに釋放せよ。待遇改善といふ次元の問題ではない。」とどうして云へないのであらうか。

このやうに考察してくると、現在の政治における閉塞情況を打開できるのは、やはり眞正護憲論(新無效論)しかない。戰後空間においては、志ある政治家も、無效論を唱へることは、占領憲法で得た地位を自己否定することになることの逡巡もあつたはずである。しかし、眞正護憲論(新無效論)に立てば、この逡巡は完全に解消されるのである。

我々は、これらの謀略的言動に惑はされることなく、志と勇氣を持つて、無效論により祖國の原状回復を果たして再生させる「祓庭復憲」の王道を歩み、自立再生論によつて國體護持と世界平和を實現せねばならないのである。

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