國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第三巻】第三章 皇室典範と憲法 > 第七節:無效論の樣相

著書紹介

前頁へ

押し付け憲法論

似非改憲論は、これまで「押し付け憲法」といふ言葉を使つてきた。「押し付け」が直ちに「無效」とはならず、あくまでも「有效」であるとしながら、引かれ者の小唄として、押し付けられたことの愚癡と怨み節である。

ポツダム宣言の受諾に始まる占領統治は、ローマ時代における對カルタゴ戰爭や對コリント戰爭におけるデヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」ではなく、押し付ける側と押し付けられる側の雙方が存在したことから、占領憲法制定の現象について、押し付けといふ言葉を用ゐるのは決して不自然なことではない。しかも、押し付け憲法といふ言葉は、押し付けを歡迎する立場とこれを拒否する立場の雙方にとつて便利な言葉でもある。押し付けを歡迎する立場からは、よくぞ押し付けてくださつたといふ利得意識が濳在的にある言葉でもある。たとへば、帝國憲法と占領憲法とを比較して「よい憲法」の方を支持するといふ「強い者には卷かれろ」式の迎合的な御都合主義の見解(愛敬浩二)などは、「よい生活」が保障されるのなら拉致被害者も文句を言ふな、といふやうな非人道的な惡臭が漂ふ。これは、アメリカに「よい憲法」を押し付けていただいたと感謝感激して絶贊する見解である。アメリカとは、人を人とも思はない奴隷制度について、獨立宣言では否定し、連邦憲法では肯定するといふ二枚舌の差別國家であり、原爆投下といふ無差別殺戮を恥じない國であるにもかかはらず、このやうな見解は、アメリカが「自由のたいまつ」であるとか「自由の砦」とかいふやうな政治的プロパガンダを眞に受けてゐるのである。

この「よい憲法論」の感覺は、概ね、似非改正論(改正贊成護憲論)と似非護憲論(改正反對護憲論)といふ二つの似非護憲論に共通したものとして蔓延してゐる。それは、主として、占領憲法が帝國憲法よりも人權保障規定が充實し、國民主權を謳つてゐることにあると思はれる。しかし、これは大いなる錯覺である。國民主權の誤謬についてはすでに述べた。また、人權保障規定關関しては、第五章の「法律の留保」のところで詳述するが、結論を言へば、「法律の留保」による帝國憲法の規定の方が臣民の權利保護がより十全となるのであつて、帝國憲法の方が「よい憲法」なのである。

ところで、押し付けられた占領憲法の根幹部分は何かと云へば、それは、第一條と第九條である。この第一條と第九条とは、不可分一體の抱き合はせの關係にあり、その占領憲法の制定は、早期獨立の實現(Go Home Quickly)のためであり、占領憲法の制定と桑港條約の早期締結とも不可分一體の抱き合はせの關係であり、未だに、この二重の抱き合はせ構造を固定強化するために「日米同盟」といふやうな條約上も根據のないプロパガンダによつて、占領體制を固定化する政治的陰謀を受け入れようとするのが、この「よい憲法論」なのである。  そして、このやうな複雜な押し付け感覺が嵩ずると、「帝國憲法も押し付け憲法である」とか、「所詮はどんな憲法でも押し付けである」といふやうなシニシズムやニヒリズムの如き妄言で揶揄されてしまふ。そして、ヘンリー・ソローの『市民の反抗』(岩波文庫)にあるやうに、「市民的不服從」、「正當暴力」などの概念を打ち立て、それが實際には「特定暴力の正當化」といふ意味であつて、それ自體が特定の概念の押し付けであることの自覺すらない見解も出てくる始末である。

また、この押し付け憲法論に對して、さらに逆手にとるが如く、「國民には押し付けられてゐない。」として反對する有效論の見解もある。たとへば、「司令部案が日本政府に文字通り押しつけられました。『押しつけられた憲法』という言葉は、その意味ではまさに正確であります。日本の當時の政治指導者たちにとっては、まさに押しつけられた憲法でした。」(樋口陽一)などの「政府限定の押し付け憲法論」がその典型である。占領憲法第九十九條は、占領憲法の尊重擁護義務を定めてゐるが、その義務主體に「國民」は含まれてゐないので、その意味では、占領憲法は「國民」には押し付けられてゐないと言ふこともできるからである。

しかし、押し付けられてゐないと感じるのは、その押し付けに迎合する一部の者だけであつて、大部分の臣民に對して押し付けられた事實を直視しなければならない。多くの者に對して公職追放、選擧干渉、人事干渉、言論彈壓、全面檢閲、勞働運動彈壓などがなされたが、これに異議を唱へられなかつた。しかも、帝國議會の憲法改正の審議は一切公開せず臣民に知らせなかつたのに、この手續と同時竝行的に行はれた東京裁判の審理は公開され、しかもその内容は都合の惡い部分は除いて、臣民に萎縮效果を與へるやうに報道されて、全臣民に對してこの占領憲法を押し付けたのである。

押し付けに迎合する自由はあるが、異議を唱へたり反對する自由はない。暴力的權力はこれに迎合する者には寛容である。迎合した一部の者に寛容であることを以て押し付けられてゐないといふのは、北朝鮮において獨裁者に迎合してこれを支持する極一部の者にだけには「自由」があるから、北朝鮮は自由な國であると云つて、いかがはしい腦天氣な議論をしてゐるに等しい。學者としてだけではなく人として恥を知るべきである。

この「政府限定押し付け憲法論」は、似非護憲論から唱へられることが多いが、通常は戰勝國が敗戰國の政府に押し付けるのは講和條約(押し付け講和條約)であつて、この議論は對日講和を押し付けたことと矛盾するものではなく、押し付けられた占領憲法が講和條約であるとする講和條約説を補強することにもなるのである。つまり、「押し付け」といふ言葉には、講和條約の「押し付け」を暗示するものがあり、勇氣と知性を持つて、もう一歩踏み出せば講和條約説になるのであるが、怯懦と保身がそれを妨げてゐるのである。

そして、この「政府限定押し付け憲法論」がさらに進めば、「押し付け幻想論」(小西豐治)に至る。コミンテルンの工作員であつた鈴木安蔵らによつて組織された「憲法研究會」の草案を含め數多くの民間の憲法草案の中にGHQ草案に近似したものがあるとか、GHQが參考にした民間草案があるなどと根據の少ない事柄を竝べ立てて、押し付けがなかつたといふのである。しかし、假に、これを推認しうる事實があつたとしても、その民間草案が政府に押し付けられたのではなく、あくまでもGHQ草案が押し付けられたのであるから、押し付けが幻想であるとすることこそが幻想に過ぎないし、憲法學的にはそのやうな事實は無意味である。

また、「占領憲法の押し付け」といふ前に、「帝國憲法の強奪」といふ觀點が缺けてゐることも問題である。つまり、假に、百歩讓つて、帝國憲法も押し付けであつたとしても、それ以前の我が國の法制が外國の暴力によつて奪はれたといふことは全くなかつた。しかし、占領憲法の場合は、歴然とそれがあつたといふことであり、それが帝國憲法の場合とは決定的に異なる點である。つまり、占領憲法の場合は、それが押し付けられる前提として、帝國憲法が力盡くで奪はれたといふ點こそが問題である。また、帝國憲法と占領憲法の場合とでは、獨立時と非獨立時といふ決定的な違ひがあることも認識しなければならない。

ともあれ、この「押し付け」憲法論の主張は、制定過程の好ましくない事情があつたといふ程度で使ふだけで、これを無效性の根據とはしない。また、押し付けに迎合する見解ではなく、押し付けを批判する見解によると、占領憲法の規定にある樣々な缺陷や不備、解釋上の矛盾などをやたらに揶揄した擧げ句、こんな押し付けられた缺陷憲法なんかは守らなくてもよい、といふような情緒的な反感を煽るだけである。無效とは云はないのであるから、自衞隊の存在が占領憲法第九條違反であることは明らかなのに、黑い烏を白いとする稀代の詭辯をもつて合憲と主張するなど特異な解釋論を展開する。これは遵法心を減殺する結果を招く不道德な思想であり、規範國體を蔑ろにするものである。この主張は、喩へて言ふならば、仲が極めて惡いが、さりとて離婚する氣持ちもない夫婦が、喧嘩するときは二人の出會ひの時に交はした甘言の約束を守つたかどうかといふやうな、いつも昔の同じ愚癡を言つて罵り合ふにも似た醜い姿を曝してゐる。占領憲法を無效として否定する知惠も勇氣もないのに、未練たらしくいつまでもいつまでも負け犬の遠吠えのやうに同じ愚癡をこぼし續けた擧げ句の果てに、遵法心を投げ捨てて法を輕んじる態度は、誠にもつて見苦しい限りである。法の支配と法治主義の理念からして許されるものではない。

そもそも、憲法を守らない嘘つきの大人に、子供に躾をしたり教育する資格はない。たとへ成立過程に問題があつても、結果的にそれを有效と判斷するのであれば、占領憲法を輕んじてはならない。規範國體の表現形式の一つである教育敕語にも、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」とあることからしても、そのやうなことは、我が國の傳統的な美風と相容れないものであり、このやうな風潮こそが、我が國の道義の退廢と教育の荒廢の元凶でもある。

そして、この押し付け憲法論は、概ね似非改憲論との結びつくことが多く、押し付けられたから改憲すべきであるとするのである。これは、先ほどの夫婦の癡話喧嘩と同樣の醜い言説である。我が國と國交斷絶をするほどの覺悟も襟度もない中韓が過去の歴史問題を持ち出して我が國に謝罪を求め續ける醜さと同じである。しかも、この押し付け憲法論による似非改憲論が國連中心主義、國際貢獻論、日米同盟論、對米從屬肯定論との結びつきを深めるに至ることによつて、その矛盾は增幅される。制定の押し付けを非難しながら、その押し付け勢力の力を借りて改正しようとするからである。

押し付けには、「制定時」の押し付けと「改正時」の押し付けがある。平成十六年九月、小泉首相(當時)の國連總會での演説において、我が國が國連安保理の常任理事國入りの決意表明をした。我が國を敵國であるとして成立した國際連合に我が國が加入すること自體が異常なことである。これは、あたかも、過去において、ソ連がNATO(北大西洋條約機構)に加入するが如きである。そして、さらに、我が國が國連安保理常任理事國入りといふのは、驚天動地の自家撞着である。これは、強盜團に犯された被害者が、その強盜團に加入して行動を共にするに等しいものであるが、案の定、この決意表明に對して、パウエル國務長官(當時)ら米國ブッシュ政權擔當者が「占領憲法第九條の改正がその前提となる」として、占領憲法の「追認」と「改正」の押し付けをしてゐるのである。

続きを読む