國體護持總論
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後發的有效論

では、初めに、先に後發的有效論について檢討する。この見解は、制定時または施行時には無效であるとする點で、無效論を前提として立論されてゐるため、その後の事情がどのやうに效力的に影響するのかについて檢討すればよく、それが否定されれば、そのことはむしろ無效論の補強となるといふ關係にあるからである。

まづ、後發的有效論の代表的な見解として、民法第百二十四條第一項にあるやうに、無效とされる「原因タル情況(状況)」が終了した時期(追認をなしうる時期)以後に、憲法制定行爲と同樣の要件に基づいて立法的追認がなされることを契機として有效になるとする見解(追認有效説)がある。また、この變形として、民法第百二十五條の法定追認の規定を借用し、立法的追認がなされなくとも、追認をなしうる時期以後に、占領憲法が存在してゐることを前提として、それを踏まへた更なる立法行爲や行政行爲などの國家の行爲がなされたときは、追認したものと看做すといふ見解(法定追認有效説)もある。

しかし、「無效行爲の追認」(無效規範の追認)については法定追認の制度自體がないので、法定追認有效説(長尾龍一、大石眞など)では、「取消うべき行爲の追認」(瑕疵はあるが無效ではない規範の追認)の場合に限定されることになると思はれるが、追認有效説と法定追認有效説では、「取消うべき行爲の追認」とするのか「無效行爲の追認」とするのかについて明確ではない。

いづれにしても、これらの見解の骨子としては、占領憲法が憲法として無效であつても、將來に向かつて憲法としての適格性があることを前提として追認又はこれに準ずる行爲がなされれば、以後は憲法として有效となるとする論理であり、これについては、前にその批判の概要を述べたが、これらの見解とこれに類似する言説の矛盾についてさらに敷衍する。

この追認有效説とその變形した類似的な見解は多く、六十年も占領憲法が施行されてきたから、假に無效であつても、その後に占領憲法に基づく法律が制定されてきたといふ「既成事實」が形成され、その事實を以て有效の根據とする見解(既成事實有效説)、世論調査などからして占領憲法が國民の意識の中に國民の憲法として「定着」したことを有效の根據とする見解(定着有效説)、さらには、前にで述べた「時效の國體」を逆手にとつた烏滸(おこ)の至りともいふべき「似非時效」を根據とする見解(時效有效説)などがある。

これらの見解は、占領憲法は始源的(制定時)には瑕疵(無效を含む)はあつたが、後發的(事後的)には確定的に有效となつたとするものであつて、その意味では後發的有效論であり、ポツダム宣言の受諾を以て革命と評價しそれに有效性の根據を求める見解(革命有效説)、「承詔必謹」により先帝陛下の上諭による「公布」を有效の根據とする見解(承詔必謹説)などの始源的有效論とは異なるものの、これら後發的有效論に共通するものは、その裏付けとして、イェリネックの「事實の規範力」の理論を援用する點にある。

しかし、「事實の規範力」とは、法が守備範圍としてゐなかつた領域において、當初から違法性の意識がなく形成された「事實たる慣習」が「法たる慣習」(慣習法)へと昇格する成立過程の説明には適しても、それ以外の異質な事象と領域について適用させることは、甚だ無理があり單なる虚構にすぎない。前述したとほり、法の「效力要件」における「妥當性」と「實效性」の二つの要素において、そもそも違法に行使された實力(暴力)が反復繼續してきたとする「事實」は、假に、事實的要素としての「實效性」を滿たしたとしても、價値的要素としての「妥當性」を滿たすものではなく、その「效力」としては常に無效である。違法な實力の行使による事實の反復繼續に法創造の原動力を認めることは、事實と規範、存在と當爲を混同し、「暴力は正義なり」を認めることとなり、社會全體の規範意識を消失させて法秩序は破壞される。つまるところ、後發的有效論といふのは、「追認」とか「時效」とかの巧みな言葉を驅使して、結論的には「革命」と言ひ換へた「暴力」を受け入れて禮贊することに他ならない。

古今東西を問はず古來から殺人、賣春、賄賂、政府權力による人權彈壓などの不正行爲は繼續反復されて存在してきたし、不幸なことに將來も反復繼續するであらう。しかし、この反復繼續する「事實」を以て法創造の規範力を認め、殺人、賣春、賄賂、政府權力による人權彈壓などを正當であると許容する「法」が創造されたとして合法化することは法の自己否定となる。「赤信號、みんなで渡れば怖くない。」といふ諧謔があるが、これは「怖い」といふ「違法性の意識」を群集心理で鈍麻させようとする「不道德」を説くものであつて、「赤信號、みんなで渡れば青(信號)になる。」といふ「違法性の消滅」を意味するものではない。ところが、有效論の説く「事實の規範力」の援用は、その本來の守備範圍を逸脱して「違法性の消滅」を説き、法の破壞につながる牽強附會の禁じ手を用ゐたことになる。これは法律學の自殺行爲であり、これを主張するものは法律學者としての資質を疑はざるを得ない。

そもそも、「事實の規範力」の理論といふのは、法定追認有效説の亞流にすぎない不完全な假説である。效力要件要素のうち、妥當性を輕視(無視)して、實效性だけで效力論を組み立てたものであり、事實の集積だけで實效性が具備することにより、法の效力が認められるとするのである。

つまり、ここには、どのやうな事實の集積があれば、どのやうな規範性を持つのかといふ分析がない。追認しうる適格があるのか、追認をなす權限を有する機關がどこなのか、追認しうる時期がいつなのか、といふ區分とその分析もなく、事實が集積すれば單純に規範となるといふやうな亂暴な論理に陷り、法の破壞を招くことになる。

ともあれ、後發的有效論のうち、追認有效説及び法定追認有效説以外の見解は、時間の經過などの「事實」を主な根據とするのに對し、追認有效説及び法定追認有效説は、追認又はこれに準ずるなんらかの國家行爲ないしは立法行爲の存在を根據とする點に相違があるので、追認有效説と法定追認有效説について、もう一度整理して述べてみたい。

前述したとほり、そもそも、占領憲法の追認がなされたといふためには、改めて天皇の改正發議と同樣に追認のための發議がなされることから始まつて、帝國憲法の改正手續に準じて「天皇」、「樞密院」及び「帝國議會」その他の國家機關が、その改正手續と同樣の手續と要件に基づいて、發議、審議、議決、公布が適正になされることが必要である。しかし、少なくとも樞密院や帝國議會が缺損状態で機能停止してゐる状況下では、帝國憲法下の帝國議會とはその存在根據を異にし、かつ、帝國議會とは利害相反關係となる占領憲法下の「國會」がそのまま帝國議會の代用機關とはなりえない。假に、國會が獨自に事後承認(追認)の議決をしたとしても、帝國憲法第七十三條に準じた手續とはほど遠いもので、これを以て立法的追認とすることは到底できないのである。

平易に言へば、泥棒の被害者がその泥棒が盜んだ品物を返還しなくてもよいとして事後に所有權を讓渡して宥恕することによつて泥棒はその品物を正式に自己の所有とすることができるが、被害者は何も言はないのに、泥棒自身が「これは俺の物だ」と勝手に宣言したとしても、決してその品物は泥棒の所有とはならないことは誰でも解る。この「泥棒」が占領憲法下の「國會」であり、その「被害者」が帝國憲法下の「天皇」と「帝國議會」などである。この泥棒の國會については、占領憲法第四十一條により「國會は、國權の最高機關」であるとして自畫自贊するものの、未だに氣恥ずかしいのか、泥棒の國會において、改正手續と同樣の審理を經た上で「占領憲法は有效である」との有效確認決議(泥棒の所有宣言)すら現在に至るも未だになされてゐない。つまり、追認有效説が有效の根據とする立法的追認ないしはそれに準じた立法行爲それ自體が存在しないので、この説はそもそも成り立ちえないのである。

また、「公序良俗」に違反する行爲を追認することはできない。なぜならば、これの追認を認めることは公序良俗違反を無效とした意味がなくなり、結果的には、公序良俗違反を許してしまふことになるからである。これと同じやうに、公序良俗違反以上の違法性がある帝國憲法違反の行爲を追認しえないことは當然のことであつて、追認有效説は論理において當初から破綻してゐる。

これらのことは、法定追認有效説についても同樣であり、しかも、法定追認有效説の場合は、一體どのやうな事實を以て法定追認と判斷しうるかといふ要件論において行き詰まる。これは、「事實の規範力論」や「憲法の變遷論」と同類の見解であり、法定追認と云ひうるための要件の構築、それに該當しうる事實の認定、評價の基準などについて百家爭鳴の隘路に迷ひ込み、擧げ句の果てに結論に到達できない慘めな代物なのである。

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