國體護持總論
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原状回復論

また、追認がなされるためには、原状回復がなされた上でなければならない。これは、民法第百二十四條第一項にあるやうに、「原因タル情況(状況)」が終了した後でなければ追認できないとする規定に現れてゐるとほり、追認の要件と時期において當然に認められた法理である。つまり、暴力によつて形成された法秩序から解放され、原状に回復してから新たに出發しなければならないのである。ここでいふ「暴力」とは、大東亞戰爭遂行における「戰爭行爲」を指すのではなく、その後になされた軍事的な「占領行爲」を指す。完全武裝解除によつて丸裸にされたことを奇貨として、完全軍事占領下でなされた様々な有形無形の暴力と強迫によつて、天皇と臣民全體が拉致され、捕虜となり、身體的、精神的、文化的、政治的、經濟的などの虐待がなされたことを意味する。しかも、占領状態が事實面において終了したとしても、法律面においては、占領下に強制された法制度が未だに效力を有してゐる限り、その法制度に拘束されてゐる状況が繼續してゐるので、「原因タル情況(状況)」が終了したことにはならない。「事實的占領状態」は終了しても、「法的占領状態」は繼續してゐるのである。その暴力が集約された最も鞏固なものが、占領典範と占領憲法なのである。  この原状回復といふ原則は、まさに北朝鮮による拉致事件でも適用された。

 北朝鮮の國家的犯罪である拉致事件は、民間諸團體の忍耐強い活動が結實し、賣國奴の巣くう我が政府やマスメディアも漸くその重い腰を上げるに至つた。この問題の眞の解決は、金正日體制の打倒による北朝鮮人民の解放と新たな民主政體の樹立による北朝鮮人民の救濟と自立といふ根元的解決なくして實現できず、その道のりは限りなく遠い。しかし、今までのやうな無明下での絶望的な彷徨と、これから始まるであらう一筋の光明へ向かふ行進とでは雲泥の差がある。

ところが、金正日體制やその走狗となつた内外の賣國奴は、惡魔のささやきとして次のやうな「拉致繼續論」とでもいふべき便宜主義を唱へる。それは、早期解決のためには、理不盡ながらも北朝鮮の犯罪行爲を一旦は黙認して拉致被害者を現政權下の北朝鮮へ戻して拉致状態を繼續し、その状況下で彼らの自由意思で永住歸國をするか否かを決斷させるべきである、と。

しかし、これに從へば、拉致の事實關係が完全に迷宮入りしてこの問題が永久に解決不能となることが必至である。これは、そのことが全ての拉致被害者の救出にとつて絶望的な事態になることを知りながら、輕薄な人權論などを振り回し、眞相を知らない素振りをする私曲の言説である。

そもそも、拉致は犯罪であるから、拉致被害者を奪還した後に再び犯罪地(拉致監禁場所)へと戻すといふ行爲は、再度犯罪を繼續させることであつて到底認めることはできない。假に、拉致被害者が強くそのことを望んでも、二十數年間にわたつて強迫觀念を植ゑ付けられた拉致被害者の「自由意思」なるものは單なる「幻想」に過ぎず、拉致被害者の出國を拒否し、拉致状態の繼續を否定することは拉致被害者らの自由を制限したり否定したことには絶對にならない。それを眞に受けて現政權下の北朝鮮へ戻すことは、我が政府が現政權下の北朝鮮による犯罪行爲を承認して加擔するといふ新たな棄民的犯罪を自ら犯すことになるからであつて、たとへ道のりは遠くとも、この問題が解決へ向かふ第一歩は、いはゆる「原状回復」しかないのである。筋を通すことであり、拉致被害者とその家族が無條件で我が國に永住歸國して生活すること以外にはない。

ところで、この「現状回復」といふ論理は、なにも拉致事件だけのものではなく、暴力的に眞意とは異なる状況に置かれた全ての事象について適用される論理なのである。それゆゑ、「占領典範」と「占領憲法」の見直しについても、この「原状回復」の論理は當然に適用されるべきである。占領典憲などによる法的占領状態が繼續してゐることは、拉致状態が繼續してゐることと同じなのである。この拉致状態から解放されて初めて、我が國の眞姿を見つめ直すことができる。

日本國憲法といふ名の占領憲法の見直しについては樣々な見解があるが、その中でも「似非改憲論」といふのは、前にも述べたが、その前提として占領憲法を「有效」とした上でその改正を行ふといふのである。拉致事件で例へれば、拉致被害者を一旦は現政權下の北朝鮮へ戻せといふ賣國奴の拉致繼續論と同じ論法である。

ところが、拉致問題については原状回復論を主張する者でも、占領憲法の扱ひについては原状回復論を否定し、拉致繼續論と同樣の「似非改憲論」主張をする者が餘りにも多い。つまり、個々の國民については原状回復論で救濟するだけの保護が與へられるべきであるが、國家については原状回復論による保護は與へられないとする二重基準(ダブル・スタンダード)であり、何ら論理性も一貫性もないのである。

つまり、占領憲法の似非改憲論者は、理不盡ながらも一旦は占領憲法を「有效」であると認め、その制定時の不都合を治癒させようとする考へであつて、それがいかに實現不可能なものであることを知らない。否、知つてゐるはずなのに知らない素振りをしてゐる敗北主義に外ならない。

似非改憲論の論理は、占領憲法を當然「有效」とし、これを金科玉條として絶對に改正すべきではないとする頑な「似非護憲論」と本質的に同じ仲間である。つまり、いづれも「似非護憲論」であり、その條項の一部を改正すべきか否かの方向付けにおいて相違があるに過ぎず、「無效論」とは水と油の關係にある。

そして、その似非改憲論者(改正贊成護憲論者)は、無效論者に對して、その論理的な反論を行はずに、專ら、衆參兩議院で無效宣言を多數決で行ふといふ無效論の方法は政治的には著しく非現實的と批判する。

しかし、ならば似非改憲論者に問ひたい。そもそも、占領憲法第九十六條の改正條項に基づき、各議院の總議員の三分の二以上の贊成と國民の過半數の贊成といふ状況が今まであり得たのか。そして、これから以後もあり得るのか、と。

また、國民の贊否を問ふ國民投票手續を定める法律が制定されたものの、その法律の運用に關しても根強い反對がある。そして、現在では、各政黨の支持率が一律に低下し、與黨政權は、今までのやうな一黨支配ではなく、多黨連立政權とならざるを得ない状況で、與黨内部でどの條項を改正すべきかを選定することだけでも困難である上に、それをどのやうに改正するかについての改正案をまとめること自體が不可能に近い。

それゆゑ、本音においては、改正は不可能であることを認識しながら、建前だけの改正運動を續けることにどれだけの意味があるのか。無效論が「非現實的である」といふ似非改憲論者の批判は、そのまま熨斗を付けて似非改憲論者へお返ししたい。

むしろ、「原状回復論」といふ筋の通つた論理で國民や議員を説得し、衆參兩議院の多數決で無效宣言決議をさせることの方がより現實的であり、今後、必ず實現しうる勝算はある。困難な拉致事件ですら、解決への光明は一日で差した。これが、憲法問題において起こり得ないといふことはない。現在の憲法問題における閉塞状況からして、これを根本的に解決したいといふ國民意識の地殻變動が起こる可能性は充分ある。この地殻變動は、似非改憲論の軟弱な論理では起こすことはできない。聞こえのよい似非改憲論や教育改革論では我が國は絶對救へない。これは、拉致問題も同樣である。占領憲法では拉致問題は永久に根本的な解決はできないのである。

これから突入するであらう憲法激動期には、吉田松蔭のいふ「狂夫の言」にこそ正統性と正當性が與へられる。在り來たりで袋小路に入つた憲法論や教育論に惑はされることなく、透徹した論理と卓拔した勇氣が必要である。

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