國體護持總論
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革命有效説

改正無限界説でなければ、改正限界説となる。つまり、憲法改正には一定の限界があるとするのである。その限界が何であるかについては樣々な見解がありうるが、改正を許さない規範(部分)を「根本規範」として認識し、それを超える改正は無效であるとするのである。帝國憲法下の學説においては、主權國體の概念も影響して、少なくとも第一條から第四條までは改正不許とするのである。しかし、法實證主義的に形式的な條項に限定することなく、規範國體に牴觸することができないとするのが本來である。いづれにせよ、帝國憲法下は勿論のこと、占領憲法下の學説においても、改正限界説が通説である。

その意味からすれば、占領憲法下の學説において改正限界説をとる見解は、帝國憲法の改正法としての占領憲法がその限界を超えたことを理由に無效であると主張しなければ學説としての整合性はなくなる。しかし、占領憲法の改正限界説に立ちながら、占領憲法を有效とする支離滅裂の學者が殆どであり、曲學阿世、魑魅魍魎の極みである。

もし、改正限界説に立ちながら、占領憲法を有效といふのであれば、帝國憲法には限界はなく、どうして占領憲法には限界があるのかといふ二重基準の矛盾について釋明しなければならないのである。

ともあれ、帝國憲法下において、改正限界説が通説であつたにもかかはらず、占領憲法時には突如として學説的な異變が起こつた。それは、改正限界説に立つた革命有效説(宮澤俊義)の登場である。俗に、「八月革命説」と呼ばれ、昭和二十年八月に法律學的な意味での「革命」が起こつたといふフィクションを打ち立て、當時は多くの贊同者を得たものである。いまではこれも學説的には否定的に淘汰されたのであるが、この革命有效説が制定時において政治的に占領憲法の制定を推進させた原動力となつたもので、その及ぼした影響は極めて大きいものがある。

宮澤俊義とその師である美濃部達吉は、いづれも東大學派として、改正限界説に立つてゐた。そしてまた、占領直後までは、憲法改正は不要であるとしてゐたのである。つまり、美濃部達吉は、「私はいはゆる『憲法の民主主義化』を實現するためには、形式的な憲法改正は、必ずしも絶對の必要ではなく、現在の憲法の條文の下においても、議院法、貴族院令、衆議院議員選擧法、官制、地方自治制その他の法令の改正及びその運用によりこれを實現することが十分可能であることを信ずるものである。」と主張し、宮澤俊義も、これまで昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞などで、内大臣府が憲法改正作業をすること自體を批判し、「この憲法における立憲主義の實現を妨げた障害の排除といふことは、わが憲法の有する彈力性といふことと關連して、憲法の條項の改正を待たずとも相當な範圍において可能だといふことを注意することを要する。」などと主張してゐたのに、一夜にして變節したのである。

つまり、宮澤俊義は、昭和二十一年二月十三日に提示されたGHQ草案を見るや否や、直ちに變節し、「このたびの憲法改正の理念は一言でいへば平和國家の建設といふことであらうとおもふ。・・・日本は永久に全く軍備をもたぬ國家ーそれのみが眞の平和國家であるーとして立つて行くのだといふ大方針を確立する覺悟が必要ではないかとおもふ。いちばんいけないことは、眞に平和國家を建設するといふ高い理想をもたず、ポツダム宣言履行のためやむなくある程度の憲法改正を行つてこの場を糊塗しようと考へることである。かういふ考へ方はしばしば『官僚的』と形容せられる。事實官僚はかういふ考へをとりやすい。しかし、それではいけない。日本は丸裸かになつて出直すべき秋である。」(「憲法改正について」、雜誌『改造』昭和二十一年三月號所収)として、GHQ草案の戰爭放棄を全面的に受け入れた憲法改正を積極的に支持したのである。これが變節學者の面目躍如たる由縁である。

この革命有效説が制定時に贊同者を增やしたのは、當時の國際情勢、社會情勢、政治情勢などの背景があるが、學説にも衝撃的な影響を及ぼした理由は、先に述べたとほり、この革命有效説が帝國憲法の學説において主流であつた改正限界説から生まれた點にある。つまり、革命有效説は、帝國憲法の改正としては「絶對無效」であるが、「革命憲法」としては「有效」であるとする點にある。それゆゑ、帝國憲法の改正法としては無效であるとする點においては、無效論の範疇に入る。これが改正限界説の他の學者の心を搖るがし、形式的には變節せずに實質的には變節を果たすといふ學者の保身に寄與した。變節しなければ、帝國大學などの大學教授の地位が危ぶまれたといふ保身が最大の理由である。保身のために國を賣つた賣國奴である。つまるところ、この革命有效説は、形式的には「改正限界説」に立ちつつ、「革命」といふものを媒介させれば、實質的には「改正無限界説」へと變節するための方便とトリックを編み出した。それは、要約すれば、ポツダム宣言の受諾により帝國憲法の根本規範に變更が生じ、「天皇制の根據が神權主義から國民主權主義に」變化して「革命」が起こつたとするのである(宮澤俊義「八月革命の憲法史的意味」、雜誌『世界文化』昭和二十一年五月號所収)。

しかし、ポツダム宣言を受諾した途端に革命が起こつたとするのはフィクションであり、「主權喪失國家の國民主權」といふ致命的な矛盾を糊塗するために、濳在主權とか、濳在革命とか、難解でいかがはしい概念を驅使して言葉の遊びをしてゐる舞文曲筆の言説に過ぎない。そもそも革命は「立憲制」の枠外の現象であるのに、GHQによる「外からの革命」の根據を「立憲制」の枠内で見つけようとすること自體に根本的な矛盾がある。

なほ、革命有效説が矛盾に滿ちてゐることの證左として、その論旨自體が混亂してゐる點があり、それを示すものとして次のやうな記述がある。

それは、宮澤俊義が「降伏によつて、かように、明治憲法の豫想しない變革や、その容認しない變革が行われた以上、明治憲法も、その條項の改正ということは行われなくとも、その影響を受けないわけにはいかない。もちろん、降伏によつて明治憲法が全面的に廢棄されたわけではない。それは、引きつづいてその效力をもつていた。」と主張してゐる點である。これでは、帝國憲法のどの部分が破棄され、どの部分が引き續いて效力を持つてゐたのかが不明であり、少なくとも帝國憲法を引き繼いだ部分があるといふやうな不明確な法律状態を以て、なにゆゑにそれが革命的變革であり、その妥當性を根據付けるものは一體何なのかが明らかでない。

ポツダム宣言の受諾は、帝國憲法第十三條の講和大權に基づくものであつて、明らかに帝國憲法による統治行爲であつて、この時點で根本規範の變更はありえない。終戰の詔書にも「茲ニ國體ヲ護持シ得テ」とあり、ポツダム宣言においても根本規範の變更を求めてゐなかつたのである。

そもそも、「神權主義」(宮澤俊義)といふ概念は不明確であり、假にこれが「國體論」を意味するものとしても、それが何ゆゑに「主權論」へと變化するのか。しかも、帝國憲法の性質について「天皇主權説」を否定して「天皇機關説」を主張してきた者が、占領憲法の有效性を導くために、帝國憲法が天皇主權であつたと牽強附會の強辯をなし、天皇から國民へと「主權委讓」されたとも説明するのである。一體、天皇機關説といふ天皇主權否定説から、どうして一足飛びに「國民主權」なのかといふ點において餘りにも著しい論理の飛躍がある。

「天皇主權の帝國憲法から国民主權の占領憲法へと改正された」といふ虚僞の説明は、この革命有效説だけでなく、前述の改正無限界説でも「国民主権主義を採る現行憲法が天皇主権主義を採る明治憲法の改正手続によって成立した」(小森義峯、文獻70)と説明したり、革命有效説なのか否かは不明であるが「神聖不可侵な天皇主権主義から国民主権主義へと憲法が根本的な転換をとげた」(古関彰一、文獻354)などと輕々しく説明する見解もあるやうに、多くの論者が殊更に虚僞の説明をまき散らし、學者としての良心そのものが疑はれてゐるのである。

その最たるものが革命有效説の論者である。この革命有效説は、「根本規範の變更を規定する憲法が有效たりうるのは、『革命』によつてである。」とする命題を示したが、これを踏まへて、「革命」とは何か、との問ひに對し、それは「根本規範の變更をもたらすもの」と答へ、ならば「根本規範の變更をもたらすもの」とは何か、との問に對しても、それは「革命」と答へるのである。これは循環論法であつて、論理破綻の典型であると指摘されてゐる(相原良一)。

この革命有效説の論理破綻は他にもある。この説は、帝國憲法の改正手續がなされたことについて、一方では改正の限界を超えたこと(改正限界説)を理由に「無效」としながら、他方ではこれが革命であることを理由に「有效」とするのであるから、「改正手續」を改正無效の根據にすると同時に革命有效の根據ともするといふ矛盾を犯してゐる。つまり、宮澤俊義の見解は、改正の限界を超えたことを改正限界説により「無效」とし、かつ、革命有效説により「有效」とするものである。これは、表現を變へて言へば、「帝國憲法の枠内で帝國憲法の枠外の憲法を制定した」ことを「革命」と名付けるといふことである。「憲法違反であるが、憲法違反ではない。」といふことである。このことは、形式論理學でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)に違反する典型例であつて、論理として全く成り立たないことは一目瞭然である。ちなみに、排中律ないし矛盾律は、法律學の場面でも適用があり、たとへば、有效か無效かといふ二者擇一の關係において、そのことが有效であり且つ同時に無效であるといふことは成り立たないとする論理學の基礎理論のことである。

いづれにせよ、根本規範の變更である「革命」がポツダム宣言の受諾といふ講和大權の行使によつてもたらされたと認めるのであれば、それは帝國憲法下の合法的な行爲でなければ保護されない。そもそも「憲法」と「革命」とは對立概念として用ゐられるのであつて、これを「革命」と呼稱するかは用語例の問題であるとしても、この「革命」が有效であるとされるためには、これが帝國憲法體制下の法秩序において合法的(合憲的)な行爲でなければならないことは當然のことである。しかし、通常の違憲行爲であつても無效であるとされるにもかかはらず、それ以上の違憲行爲である國體變更を目的としたこの「革命」が有效であるはずはないのである。

また、この「革命」の意味を政治的なものと法的なものとに區別し、法的な意味における占領憲法の「革命」とは、その根底にある國際的ないしは國内的な政治的情況とは無關係に、「主權が天皇から國民に委讓された」といふ現象であり、無效論による革命有效説への批判は、專ら政治的な意味におけるそれであつて、法的な意味の批判ではないと反論する見解がある。

しかし、この見解も次の二點において矛盾がある。第一に、帝國憲法は法的な意味において「天皇主權」ではないことから、この無效論批判は、その前提を缺いてゐるといふ點である。天皇機關説が法的な意味における通説であり、天皇主權は否定されてゐた。天皇は、統治權の總覽者(第四條)といふ「國家機關」なのである。それゆゑ、天皇主權説は、帝國憲法下では通用せず、それこそ政治的な意味しか持ち得なかつた。ところが、この見解は、占領憲法制定の消息を「主權の委讓」といふ政治的現象として捉へるのではなく、實際には、これまで法的な意味としては通用してゐなかつた天皇主權説といふ亡靈に依據して、法的現象としての「主權の委讓」を主張することになる。あくまでも政治的な意味に留まるとしながらも、これを根據なく飛躍させて、法的な意味としての「主權の委讓」であると詭辯を弄するのである。つまり、この「主權の委讓」といふ「革命」を主張したのは、天皇主權説を否定してゐた天皇機關説の學者(宮澤俊義ら)とその弟子たちであつて、そもそも「主權」概念そのものを否定してゐたのに、突然に天皇主權説に鞍替へし、その主權が國民に委讓されたなどと主張して完全に變節したのである。繪に描いたやうな論理破綻の典型例である。

これには、イラクでの米英によるイラク暫定占領當局(CPA)の「主權移讓」と同じ矛盾がある。つまり、ここで、「移讓」と「委讓」を區別して用ゐることとするが、權限の移轉が國際關係でなされるのが前者であり、國内關係でなされるのを後者とすると、この見解は、連合國から國民への主權移讓(國際的主權移轉)を主張してゐるのか、帝國憲法ないしは天皇から國民への主權委讓(國内的主權移轉)を主張してゐるのか、そのいづれなのかが不明である。おそらく、ここでいふ「主權」とは、對外的な意味での「獨立」を意味する「對外主權」と、國民主權や天皇主權などの主權論における「主權」を意味する「對内主權」の異なる二つの主權概念(主權概念の二義性)を混同してゐることに起因するのであらう。つまり、前者の対外主權(獨立)と後者の対内主權(國民主權)とを混同してゐるのである。

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