國體護持總論
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國際法優位説と條約優位説

國内法と國際法といふ別個の法體系が存在するが、いづれも影響し合ふことから、前に述べたとほり、この兩者の關係を一元的に捉へるとすれば、いづれの法體系が優位(上位)となるのかといふ議論になる。國内法優位説と國際法優位説である。そして、國際法が國家間の關係を規律する機能がある限りは、國際法は國内法に對して優位であるとするのが、國際法優位説の論據とされる。しかし、實際の國際司法裁判所での國際判例においても、國内法と國際法とが衝突した事例について、國際法の優位を認めた場合であつても、これに牴觸する國内法を無效とする事例は皆無に等しい。それゆゑ、國際法優位説には實效性がないといふことで、國内法優位説も根強く主張される。また、國内法優位説とか國際法優位説とかの對立は、これら二つの法體系を一元的に捉へることが前提であつて、二元説によれば、どちらが優位といふことはない。相互に影響する場合もあるが、原則として雙方が關與せず、その守備範圍も異にする二元的な存在とする二元説の方には説得力がある。

この國内法と國際法との全體的な關係については次章で詳細に述べることとして、まづは、個別的に、國内法の憲法と國際法への廣がりを持つ條約とではどちらが效力において優位であるかといふ點について、再度述べてみたい。

これについて、全ての條約が憲法に優位するといふ極端な條約優位説は少ない。しかし、通常は憲法の方が優位するが、特別の條約、たとへば「確立された國際法規」については憲法に優位するといふ見解がある(橋本公亘、樋口陽一)。また、占領憲法第九十八條第二項は、國際法優位の一元論の根據となるとの見解も根強い。

しかし、「確立された國際法規」の概念は、極めて不明確であり、それが國家意思や國情に適合しないものであつても遵守しなければならないとする結果となつたり、そのやうなものを嚴格な通常の憲法律より優位に置くことに無理がある。また、一般の「條約」は、その締結手續が通常の憲法律の改正よりも簡易であることから、憲法より優位する地位に置くことはできないのである。そもそも、この見解では、どのやうな條約が憲法に優位するかといふ基準が明確ではない。しかも、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ講和條約は、「確立された國際法規」とは到底云へない。もし、それが肯定されるのであれば、桑港條約もまた「確立された國際法規」として、帝國憲法や占領憲法よりも優位となる。このやうな見解によれば、講和條約は帝國憲法に基づいてその締約を授權されて締結されたはずなのに、戰爭に負けると、あたかも制裁措置を受けるかのやうに、講和條約が締結されると同時に帝國憲法と講和大權との授權關係及び效力關係が突然に逆轉し、帝國憲法の講和大權に基づいて締結された講和條約が帝國憲法や占領憲法よりも優位になるといふのである。「山より大きな猪が出た」といふことである。しかも、これは敗戰國だけに起こるもので、戰勝國にはそのやうなことは起きないといふ奇妙な現象である。このやうな現象もまた「確立された國際法規」といふことになる。しかし、このやうな見解は、單なる暴力禮贊、暴力迎合、暴力信奉といふ暴力至上主義の産物であつて、國際法と國内法の立憲的見地からも到底容認できるものではない。

そもそも、ポツダム宣言と降伏文書には、帝國憲法と全面的に牴觸する條項はなかつた。單に、ポツダム宣言第十項後段に、「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」とあつただけで、これをもつて基本的人權の充實について帝國憲法の改正變更を義務付けたものと理解したとしても、それ以外の帝國憲法の條項は一切牴觸するものがないのである。さうであれば、假に、條約が優位であつても、憲法と牴觸は起こらないので帝國憲法が無效となつたり破棄される根據はどこにもない。

また、ポツダム宣言の受諾及び降伏文書の調印の時點では、少なくともこのような條約優位説は我が國には存在しなかつたものであり、このやうに解釋される餘地は全くあり得ず、これは「後出しのジャンケン」に他ならない。

さらに、この見解の亞流として、條約優位説と憲法改正無限界説との結びつきを深めて生き延びようとする試みがあるが、いづれにしても帝國憲法の解釋において成り立ち得ない見解である。

ところで、最高裁判所は、條約優位説に立つてゐるのではないかとの見解もある。それは、いはゆる「砂川事件」の大法廷判決(昭和三十四年十二月十六日)において、統治行爲論を採用したことを根據とするものである。これによると、日米安全保障條約は「主權國としてのわが國の存立の基礎に極めて重大な關係をもつ高度の政治性を有する」もので、「一見極めて明白に違憲無效であると認められない限り」司法審査權の範圍外にあるものと判斷したのである。

また、占領憲法第九十八條第一項は、「この憲法は、國の最高法規であつて、その條規に反する法律、命令、詔敕及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その效力を有しない。」とし、同第二項は、「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」と規定されてをり、第二項では「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」には無條件で遵守義務を規定するものの、第一項には、この「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」が含まれてをらず、憲法體系の枠外にあるのではないかとの解釋が成り立つことから、最高裁判所は、占領憲法と「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」との相互關係において、條約を含む國際法規が優位であると解釋するがゆゑに、統治行爲論を採用したのではないかと考へられるからである。ましてや、日米安全保障條約(舊安保條約)は、桑港條約と同時に締結され、同時に發效した講和條約であるから尚更のことである。

これは、國家主權を連合國の制約下に置くといふ意味に解釋できる可能性がある規定であり、昭和四十三年八月のチェコ事件において、ソ連の軍事介入を正當化するために主張された「ブレジネフ・ドクトリン」といふ「制限主權論」と同樣の構成である。

しかし、最高裁判所は、前掲昭和二十八年判決において、國家の「自然權」を認めてをり、その自然權の意味が他國に從屬したり條約に拘束されるものであるとする「不自然な解釋」がなされるとは到底考へられない。おそらく、統治行為論は、占領憲法第八十一條の違憲審査權の對象に形式上は「條約」が含まれてゐないことからくる司法消極主義によるものと解釋されるのである。

さうであれば、占領憲法は講和條約の下位規範となるものの、その講和條約は帝國憲法の講和大權の授權によるものであるから、帝國憲法を凌駕する地位に位置することはありえないことから、最高裁判所は、①帝國憲法、②講和條約を含む「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」、③占領憲法、といふ階層序列を肯定したこととなり、前述した眞正護憲論(新無效論)の階層序列の不等式とは若干異なるものの、帝國憲法、講和條約、占領憲法の順の階層序列となつてゐる點は一致することになるのである。

ところで、占領憲法が憲法ではなく講和條約であることを前提とすれば、前に述べたとほり、「確立された國際法規」については占領憲法に優位するといふ見解(橋本公亘、樋口陽一)や、占領憲法第九十八條第二項を根據として國際法優位の一元論を主張する見解は、當然のことを述べたまでであり、講和条約説と整合性があるものとなり、これを補強することになつても、決して講和条約説と矛盾することはないのである。

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