國體護持總論
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二・一ゼネスト問題と五十年問題

このやうに、占領憲法が憲法として有效であるとする見解は樣々であるが、その中でも、革命有效説と正當性説とは、帝國憲法とは隔絶したところで占領憲法の有效性の根據を導こうとするものである。革命有效説は、帝國憲法と占領憲法との間に「革命」の楔を打ち込み、これが帝國憲法の息の根を止めて無效化する根據とするのに對し、正當性説は、「革命」を契機とすることなく、占領憲法の内容などからその正當性を見出そうとするのである。しかし、そのやうな相違があるとしても、占領憲法が有效である根據は、いづれも「國民主權」であるとすることにある。

革命有效説も正當性説も、占領憲法は帝國憲法の改正法ではないとして、帝國憲法と占領憲法とは法的連續性がないとするのであるから、昭和二十一年六月二十三日の「帝國憲法との完全な法的連續性を保障すること」とするマッカーサー聲明は、完全に虚僞であつて國家と臣民の全體を欺いたことを認めることになる。それでも革命があつたとか正當性があつたといふことになるとすれば、詐欺にかかつた主權者が憲法を制定したといふ滑稽なことになつてしまふ。

このやうな見解について、そのいづれの論據にも説得力がないことはこれまで述べてきたとほりであるが、假に、これらの見解に立つとすれば、一體、いつから國民主權を根據とする占領憲法が最高規範としての憲法となつたとするのであらうか。換言すれば、いつから國民主權になつたのかといふ疑問が生まれる。

そもそも、革命有效説も正當性説も、占領憲法を帝國憲法の改正法として認めないのであるから、占領憲法がその手續に基づいて發效する時期とされる「施行時」が占領憲法の發效時とすることの必然性はなくなる。むしろ、その制定過程自體が國民主權に基づくものとして認識するのであるから、遲くとも「制定時」には、占領憲法の制憲權(國民主權)が發動されたといふことになる。革命有效説では、その時期がポツダム宣言受諾時にまで遡ることになるのであらう。

いづれにせよ、遲くとも占領憲法制定時には國民主權が確立したとすることになる。さうすると、制定以後に發生した政治現象が國民主權で説明できなければならないことになる。そこで、特に、我が國が獨立前に經驗した次の注目すべき二つの政治問題については、果たして國民主權の立場からはどのやうに説明できるのか、そして、占領憲法に憲法としての實效性が備はつてゐたのか、さらにまた、占領憲法が最高法規となつてゐたのか、といふことについて檢討してみたい。

その注目すべき二つの政治問題とは、昭和二十二年二月一日午前零時を期して全國全産業の勞働者が統一的に計畫してゐたゼネラル・ストライキ(總罷業、ゼネスト)がマッカーサーの直接命令によつて中止されるに至つた「二・一ゼネスト問題」と、昭和二十五年一月六日にスターリンの率ゐるコミンフォルムがその機關紙を通じて日本共産黨の野坂參三が唱へた「占領下平和革命論」を名指しで批判することにより日本共産黨に對し武裝革命方針をとることを直接命令したことから、これに反發する所感派とこれを支持する國際派との對立情況が生じた「五十年問題」のことである。

これらの事件の詳細は、第二章で述べたが、いづれも占領憲法制定後の占領下において、我が國で結成された「結社」が外國勢力の直接干渉を受けた政治問題である點において共通する。そして、「二・一ゼネスト問題」は占領憲法制定後施行前のものであり、「五十年問題」は、占領憲法施行後のものであつて、いづれも獨立前の占領下のものであつた。

そして、結論を言へば、この二つの政治問題は、國民主權論の試金石となるもので、その當時の、憲法論としての「八月革命説」と、政治論としての「占領下平和革命論」で説明することができる。すなはち、宮澤俊義の提唱した憲法理論としての八月革命説の内容については既に述べたので省略するが、この八月革命説の誕生に先だつて、野坂參三の提唱した政治理論としての「占領下平和革命論」が誕生してをり、これらが車の兩輪の如く、憲法論と政治論の兩面において國民主權論を支へる理論となつてゐたのである。

つまり、野坂參三は、昭和二十一年一月十二日に歸國した直後から、「愛される共産黨」といふスローガンを掲げ、同年二月二十四日の日本共産黨第五回黨大會において、一番の中心問題は暴力革命を避けることであるとし、平和的・民主的な方法で民主主義革命を成し遂げ、さらに議會的な方法で政權を獲得して社會主義革命を實現しうる可能性が生まれたとする「占領下平和革命論」を提唱した。そして、この政治論が後に憲法論として誕生する宮澤俊義の八月革命説の誕生に決定的な影響を與へたはずである。宮澤俊義は、野坂理論を憲法論に應用して、ポツダム宣言の受諾から占領憲法の制定過程を通じて前倒し的に「占領下平和革命」が實現したものと捉へたことになる。いはば、憲法論としての宮澤俊義の八月革命説(宮澤理論)は、政治論としての野坂の占領下平和革命論(野坂理論)を憲法論に模樣替へした、いはば「パクリ」である。

ともあれ、二・一ゼネストが直接統治態樣のGHQ指令によつて直接に中止されたことは、「國民主權」の胎動を否定されたことを意味するのであつて、この二・一ゼネストの決行準備過程と占領憲法制定過程とは同時進行的に重なることからしても、占領憲法は「國民主權」によるものではなかつたことが明らかとなつてくる。つまり、占領下平和革命論(野坂理論)は、まさに國民主權論であつて、それが政治的に流産したことは、とりもなほさず、憲法的にも流産したことを意味するのである。

厳密に言へば、野坂理論(占領下平和革命論)は、「二段階革命論」であつた。第一段階は「民主主義革命」であり、それを踏まへて第二段階である「社會主義革命」に至るとするものである。そして、二・一ゼネストは、まさにこの第一段階である民主主義革命と位置づけられた。ところが、この「國民主權」による民主主義革命がGHQの命令で崩壞したのである。この「二・一ゼネストの崩壞」は、まさに「國民主權の不存在」を證明したことになる。

しかして、ポツダム宣言受諾の昭和二十年八月十四日から占領憲法が公布された昭和二十一年十一月三日までの間のいづれかの時点で「國民主權」による「革命」があつたとする「革命有效説」などは完全に破綻してをり、すべてはフィクションであり「賣國的憲法業者」の戲言に過ぎないことを證明してゐる。

ところが、宮澤理論とその亞流理論は、その後も脈々と生き續けた。他方、野坂理論は、二・一ゼネストの中止と五十年問題といふ二つの政治問題によつて衰退した。兩者の明暗に明確な相違が生まれた原因は、宮澤理論が憲法論であり、戰後社會の主流となる敗戰利得者の利權を一貫として支へ續けてきた理論であつたのに對し、野坂理論には、政治勢力として微弱な日本共産黨の政治論であるといふ限定と限界があり、しかも、五十年問題によつて結果的には武裝革命方針へと轉換してその理論は抹殺され、昭和三十年七月の日本共産黨第六回全國協議會(六全協)において武裝革命方針を放棄して再評價されるまでの間は長く否定され續けてきたといふ事情によるものである。日本共産黨は、當初はGHQを解放軍として評價する程度に敗戰利得者であつたが、その後はレッドパージなどによつて敗戰利得者の地位を喪失してしまつたといふ事情もある。


では、このやうな前提のもとで、まづ、「二・一ゼネスト問題」について考へてみると、この二・一ゼネストに至る過程は、その時期的には占領憲法制定に至る過程と殆ど重なり合つてゐる。政府・議會レベルにおいてGHQとの交渉により占領憲法が制定に向けて進展して行く状況があり、これと竝行して、國民レベルにおいて二・一ゼネストへと國民勞働運動が擴大して行く状況があつた。この二つの状況は、まさに同時進行で推移して行つたのである。そして、一足先に占領憲法が制定され、その施行まで約三箇月と迫つた昭和二十二年二月一日の前日にマッカーサーの中止命令が發令されるまでの社會の樣相は、まさに國民主權論に基づく「占領下平和革命」といふ政治理論に裏付けされたものであつた。

二・一ゼネストの計畫は、全國勞働組合共同闘爭委員會や全官公廳勞組擴大共闘委員會(伊井彌四郎議長)によつて自主的になされたものであり、政府やGHQの關與はなかつた。むしろ、吉田首相が昭和二十二年元旦にラジオ放送で、勞働爭議を行ふ者を「不逞の輩」と發言したことに反發して、その倒閣運動がさらに發展した性質のものである。つまり、この二・一ゼネストの性質は、同年一月六日に、日本共産黨第二回全國協議會において、德田球一が「ゼネストを敢行せんとする全官公勞働大衆諸君の闘爭こそは、民族的危機をますます深めた吉田亡國内閣を打倒し、民主人民政權を樹立する全人民闘爭への口火である。」と吠えたことに示されてゐる。

もし、この時點で國民主權が認められてゐたのであれば、二・一ゼネストは、占領憲法で保障された結社の自由と勞働爭議權に基づくもので、まさに「占領下における平和革命を指向する自發的な國民主權の具體的な發現形態」といふべきものであつた。さうであれば、國民主權の絶對最高性からして、これを強權的に中止させうる權力は理論上存在し得ないはずである。ところが、これが存在したといふことは、憲法論としての八月革命説による國民主權論の破綻であり、かつ、政治論としての占領下平和革命論の敗北を意味するものであつた。

つまり、二・一ゼネストがGHQの中止命令によつて中止させられたといふことは、皮肉なことに、國民主權を認めたはずのGHQによつて、その國民主權が否定されたことを意味する。占領統治は間接統治が原則であつたが、この中止命令は直接統治方式によるものであつて、この事實は、占領憲法の掲げる國民主權よりも上位の權力としてGHQ權力があつたといふことを意味し、占領憲法の掲げる國民主權が實效性を伴はない畫餠であつたことが暴露された瞬間であつた。


次に、「五十年問題」であるが、これは、昭和二十五年一月六日にスターリンの率ゐるコミンフォルム機關紙『恆久平和と人民民主主義のために』が「日本の情勢について」と題する論評を掲載し、野坂參三の「平和革命論」を批判したことに始まる。その論評の要旨は、「野坂の『理論』が、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明らかである。本質上野坂の『理論』は、反民主的な反社會主義的な理論である。それは、日本の帝國主義的占領者と日本の獨立の敵にとつてのみ有利である。したがつて、野坂の『理論』は、また同時に、反愛國的な理論であり、反日本的な理論である。」といふものであつた。

しかし、「占領下平和革命論」(野坂理論)は、まさに國民主權論に基づく八月革命説(宮澤理論)を生んだ母體であり、宮澤理論のやうな憲法理論の世界に留まることなく、現實政治の持つダイナミズムの世界において實現しようとする指導的理論であつた。その指導的理論の發現が二・一ゼネストへの道であり、コミンテルン日本支部として發足した日本共産黨が初めて自主獨自路線へと轉換しようとする胎動であつた。これがマッカーサーの二・一ゼネスト中止命令(直接命令)によつて二・一ゼネストは流産し、さらに、五十年問題により、コミンテルンの後身であるコミンフォルムの論評(スターリンの直接命令)によつて自主獨立路線の試みが完全に挫折したのである。


このやうに、これら二つの政治問題は、「國民主權」なるものが法的にも政治的にも「幻想」であつたことを物語つてゐる。二・一ゼネストの共闘委員會はGHQ(マッカーサー)にねじ伏せられて中止され、日本共産黨はソ連(スターリン)に盲從させられて野坂理論を放棄した。

さうであるなら、六全協(昭和三十年七月)で野坂理論を再評價した日本共産黨が、GHQの強制によつて制定されただけで國民主權の手續によつて制定されたものではない占領憲法を有效であるとして肯定するのは論理矛盾となる。つまり、占領憲法は、GHQによる二・一ゼネスト中止命令によつて國民主權の實效性を維持しえなかつたことになるからである。しかも、日本共産黨は、ソ連の命令によつて野坂理論による自主路線を流産させ、ソ連に完全に從屬することとなり、再びソ連共産黨日本支部となり、武裝革命路線を墨守した。これは、日本共産黨が占領憲法を最高法規とは認めてゐないことでもある。日本共産黨にとつての最高法規はソ連(スターリン)の意志である。つまり、日本共産黨は、占領憲法よりも高次の規範として、コミンフォルムの命令があることを認識してゐたことになる。それゆゑ、占領憲法の保障する結社の自由が侵害されたことに對して、被害者意識を持てないのである。また、占領憲法の側から見れば、我が國にある結社の一つである日本共産黨が外國勢力によつてその結社の自由を侵害され、露骨な内政干渉により國民主權を蔑ろにされたことを黙認してきたのであつて、その意味でも、占領憲法は何らの實效性も發揮できなかつた。

從つて、現在において、日本共産黨が占領憲法を最高法規であるとすることは論理矛盾も甚だしいのである。このことは、昭和十四年に、野坂がソ連共産黨に同志の山本懸蔵らにスパイ疑惑があると虚僞の密告をし、山本らをスターリンの大肅清の犠牲にさせて銃殺刑に追ひ込んだことが發覺して、野坂が死亡する前年の平成四年に野坂が日本共産黨から除名されたこととも微妙に關連してくる。つまり、日本共産黨にとつての最高規範は、スターリンの意志であつて、帝國憲法でも、ましてやその改正法であると僞裝された占領憲法でもないことを意味する。そして、武裝闘爭を主導した歴史のある日本共産黨が、今では臆面もなく暴力で自由意思を抑圧することが許されないと主張してゐる。この矛盾に勝るとも劣らないのが占領憲法の容認である。占領憲法はまさに暴力で自由意思を抑圧して制定されたのであるから、日本共産黨を含めた左翼陣營こそ占領憲法の無效を主張しなければ、その理論的破綻は必至となるのである。

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