國體護持總論
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竹島

「竹島(舊名・松島)」とは、東島(女島)と西島(男島)の二つの小島とその周邊に存在する總計三十七の岩礁からなるもので、周圍は斷崖絶壁をなし、東島の南端と頂上に僅かな平坦所がある程度で、湧き水はあるが飮料水や生活用水は雨水に賴らざるを得ず全島に一本の立木もないといふ状況で住環境を滿たさないが、周邊海域は漁場としての價値が高い。そして、その領有權は我が國にもかかはらず、現在、韓國が武裝部隊を常駐させて不法に侵略支配されてゐる島嶼である。現在、韓國と北朝鮮では竹島のことを「獨島」と呼ぶ。

また、現在、韓國が實效支配してゐる「鬱陵島」は、我が國では古では「竹島」、「磯竹島」と呼び、その名稱が錯綜してゐるので、現在の名稱である「竹島」(舊名・松島)と「鬱陵島」(舊名・竹島、磯竹島)として統一して表記することにする。

我が國は、竹島を韓國が不法占據してゐることに對して、この領有權問題の解決のために外交努力を盡くしてきた。特に、昭和二十九年九月二十五日、この問題を國際司法裁判所に付託することを韓國側に提案したが、韓國政府がこれに應じなかつたのである。このことは、韓國がその領有權原の薄弱さを自覺してゐることを示す事情ではあるが、この問題は、歴史的に見ても鬱陵島の領有權と關連するものであことから、鬱陵島と竹島の兩島の領有權原について一括して考察する必要がある。そこで、まづは、その前提として、兩島の歴史的な名稱の變遷との關係で、領有の對象となる島の特定から始めることにする。

韓國側が根據とする史料から檢討すると、まづ、韓半島の最古の史料である高麗時代の久安元年(1145+660)に書かれた『三國史記』の「卷四 智證麻于十三年夏六月條」に、「于山國征服、歳以土宜爲貢、于國國、在溟州東海島、或名鬱陵島」といふ記載がある。智證麻于十三年といふのは、皇紀千百七十二年(512+660)のことであつて、それによると、服從して朝貢してきた「于山國」といふ國が東海にあり、別名を鬱陵島といふのである。韓國側は、于山國が服從して朝貢してきたことを以て、于山國の支配する竹島(獨島)が韓國領になつたと主張するが、それは荒唐無稽に他ならない。六百三十三年も前のことを記述したものであり、そのどこにも現在の竹島の領有に關する記述がない。むしろ、それは鬱陵島の別名であることからして、人の住めない竹島(獨島)から朝貢に來るはずもないからである。

これと同樣に、『三國史記』から約百年後に書かれた『三國遺事』には「于陵島」、應永二十四年(1417++660)の『太宗實録』には「于山島」、享德元年(1452+660)の『高麗史地理志』(卷五十八)には「于山國」、「武陵」、「于陵」、享德三年の『世宗實録(地理志 江原道襄陽縣)』には「于山、武陵二島」といふ人の住む島の樣子が書かれてゐるのであり、それ以後に書かれた史料にも同樣に「于山島」、「鬱島」など樣々な島名が登場するが、いづれもこれらは竹島(獨島)には該當しない。特に、韓國側が引用する享祿三年(1530+660)に發行された『八道總圖』によれば、「鬱陵島」の西に「于山島」といふ鬱陵島と同じ程度の大きさの島の表示があり、これが竹島(獨島)であると韓國側は主張するが、竹島(獨島)は鬱陵島の南東にあり、しかも、鬱陵島の千分の三しかないので、これが竹島でないことは明らかである。最近では、この東西の位置關係を逆にした捏造地圖まで作成してプロパガンダを續けてゐるが、まさに噴飯ものである。

また、さらに、文政五年(1822+660)の『海左全圖』や明治三十三年(1900+660)の『大韓帝國敕令第四十一號』に「竹島」と表記されてゐるものがあるが、これは、鬱陵島の數キロ東方にある屬島であり、これが竹島(獨島)でないことは明らかである。

このやうに、竹島の領有問題については、鬱陵島の歴史と密接なものがある。特に、支那との從屬關係を持たない韓民族の獨立國家である高麗を宗主國としてその屬國(附庸國)となつた于山國(鬱陵島)は、その高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の屬國と成り下がつた「李氏朝鮮」に對する抵抗があつたため、李氏朝鮮は、鬱陵島が高麗再興派や倭寇の根據地となる事を恐れてこの島への渡航を禁止し無人島化する政策(空島政策)を永享十年(1438+660)から明治十四年(1881+660)まで實施した。この渡航禁止と無人島政策は、それまで李氏朝鮮の有してゐた鬱陵島に對する領有權の放棄と認定しうる餘地があつた。

そして、我が國の鬱陵島との關はりは、大谷家文書や村川家文書などによると、江戸時代の初期、伯耆國(現・鳥取縣)米子の海運業者大谷甚吉が、航海中に暴風に遭つて鬱陵島に漂着したことから始まる。大谷甚吉と村川市兵衞は、新しい無人島の發見をしたとして、歸國後の元和四年(1618+660)に德川幕府に報告して鬱陵島(當時は、これを竹島、磯竹島と呼んだ)への渡航許可を受け、アシカ獵やアワビの採取、木材の伐採などのために、大谷家と村川家とが交替にて毎年渡島した。その渡島の航路は、隱岐島から竹島(舊名・松島)を經由して鬱陵島へ至るものであり、それが七十八年間も續いたとされ、竹島の渡航許可についても明暦二年(1656+660)に出された記録もあることから、遲くともその頃には鬱陵島と竹島の兩島に大谷家と村川家の經營基盤が建設され實效支配が確立してゐたことが明らかである。

そして、その間の元祿六年(1693+660)四月十七日、大谷家の獵師達が鬱陵島で漁をしてゐると、安龍福と朴於屯らが遭遇したことから、日本領である鬱陵島の領海侵犯者として二人を捕縛し、隱岐を經由して同月二十七日に米子(鳥取藩)に連行し、取調後に對馬を經由して二人を朝鮮に送還した。

この一連の經緯が原因となり、翌年から日朝間において對馬藩を通じた外交交渉として鬱陵島の領有紛爭が起こつた(竹島一件)。これを「竹島一件」といふのは、あくまでも、その當時「竹島」と呼稱してゐた「鬱陵島」の領有紛爭事件といふ意味で、現在であれば「鬱陵島一件」と呼稱することになる。

德川幕府は、元祿九年(1696+660)一月二十八日、その解決のための方策として、鳥取藩主に對し鬱陵島への渡海を禁止した。ところが、對馬藩が德川幕府の鬱陵島渡海制禁を李氏朝側に傳達する翌年一月までの間である、元祿九年五月末に、先の領海侵犯者の安龍福が隱岐島及び米子に密航してきた。そして、安龍福の密航の顛末が三十二年後の享保十三年(1728+660)に編纂された『肅宗實録』(卷三十、二十二年九月戊寅)には、安龍福が鳥取藩に竹島が朝鮮の領有であることを認めさせたとする記述があり、これに基づいて竹島が韓國の領有であつたとする主張がある。しかし、そもそも鳥取藩が德川幕府を差し置いてそのやうなことができるはずがないし、鳥取藩は對馬藩を經由して行ふところ、鳥取藩主と對馬藩主は參勤交代で江戸に在住してゐるのに城代家老でそのやうな處分ができるはずもなく、安龍福の證言が荒唐無稽の虚言であることは自明のことである。そもそも、鎖國政策の李氏朝鮮においては、國禁を破つた者は死罪であることから、安龍福としては、死罪を免れるために鬱龍島の朝鮮領有を認めさせたと嘘の證言をして自己の功勞を認めさせて助命してもらふ必要があつたし、現に、これによつて安龍福は流罪となるのである。

ところで、『肅宗實録』の記載を檢討すると、これまで指摘したものの外にも不自然で矛盾した記述が枚擧に暇がなく、安龍福が命乞ひのため必死に虚言を弄して事實を捏造したことが窺へるが、さらに、これに韓國側の捏造解釋が加はる。その一例を擧げるとかうである。「松島即子(于)山島」とあり、これが于山島=松島(竹島)韓國領有説の根據とするのであるが、その前にある「倭言吾等本住松島」について、韓國では、これを「倭人はかう言つた。吾らは、本より松島に往く」と解釋するのである。しかし、これは明らかに「住」と「往」とを意圖的にすり替へてゐる。人偏と行人偏とでは文字も意味も異なる。この原文ではあくまでも「住松島」であつて「往松島」ではない。「松島に住んでゐる。」と倭人は言つたと證言してゐることになる。竹島(松島)は人が住めるところではない。それゆゑ、ここでいふ「松島」とは「竹島(獨島)」ではありえない。そもそも、鬱陵島の歸屬を巡つて紛爭があるときに、人の住めない竹島の歸屬について議論することはありえないのである。

このやうに見てくると、鬱陵島の領有問題と竹島の領有問題とは、同時進行的に關連はあるものの、人の住める環境の鬱陵島と、さうでない竹島とでは、その當時では關心が大きく異なつたはずである。

まづ、鬱陵島に關しては、日韓兩國が鎖國政策であるものの、我が國では鬱陵島と竹島に對して渡航許可を出して領有してきたのに對し、李氏朝鮮は、そのやうな許可はしてゐない。李氏朝鮮の渡航禁止と無人島(空島)政策は、領有權放棄と解釋される餘地があり、そのことは、德川幕府が元祿九年(1696+660)に鳥取藩主に對して出した鬱陵島への渡海禁止についても同樣である。そして、幕末になると、吉田松陰、桂小五郎、村田蔵六、久坂玄瑞、高杉晋作と坂本龍馬が鬱陵島(当時・竹島)の開拓計画を練つたことがあつた。特に、坂本龍馬は、大洲藩から借用した蒸気船「いろは丸」で、大坂へ航行した後、下関經由で鬱陵島に回航する豫定であつたが、慶應三年四月二十三日、瀬戸内海の讃岐の箱の岬沖で、紀州藩の明光丸と衝突する海難事故のために沈没したことから実現しなかつた経緯があつた。

從つて、これらを客觀かつ公平に見て、この時點で、鬱陵島は日朝の「歸屬係爭地(領有競合地)」であり、そのままの状態で、日韓併合から桑港條約へと進むのである。

日韓併合によつて我が國の領有となつた韓半島の領域(濟州島、巨文島、韓半島)は、大韓帝國の單獨領有から我が國へと割讓され、鬱陵島については、「歸屬係爭地(領有競合地)」のまま我が國に割讓されたので、それを原状回復するために、連合國の「裁定による割讓」として、桑港條約第二條により「濟州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮」を韓半島の獨立國家に歸屬させることとなつたのである。つまり、鬱陵島については、そのまま原状回復すれば再び「歸屬係爭地(領有競合地)」となることから、これに代へて、韓半島の獨立國家に確定的に歸屬させたといふことである。

さて、竹島については、これまで述べてきた經緯を前提とするものの、その領有問題の法的樣相は異なる。つまり、竹島の領有權原に關しては、およそ次の三つの爭點に要約できる。第一に、いづれが「先占」したか、第二に、我が國が明治三十八年になした竹島編入の有效性について、そして、第三に、連合國の「竹島處分」の解釋について、の三つである。

まづ、第一の「先占」であるが、これについては、「發見」も含めて、これまで詳細に述べてきたとほり、我が國に排他的な單獨の領有權原の根據が存在することは明らかである。

次に、第二の「竹島編入」であるが、これは、明治三十八年一月二十八日、政府が閣議決定で竹島の島根縣への編入を行ひ、同年二月二十二日に島根縣が『島根縣告示第四十號』により、竹島の島根縣編入を公示したことがどのやうな意味を持つかといふことである。

これを國際法的に無效であるとする韓國側の論據は、①明治十年三月二十日の内務省通達に「竹嶋外一嶋」、すなはち「鬱陵島外一島」を朝鮮の領土とするとして「外一島」が「竹島」に該當すること、②明治三十三年十月二十五日の大韓帝國敕令第四十一號により「鬱陵全島と竹島、石島」を大韓帝國の領土とするとしたこと、③「竹島編入」は、日韓併合に至る經緯の中で祕密裏に強制的になされたものであること、などである。

しかし、①の「外一島」も②の「竹島、石島」も、いづれも他の文獻との比較檢討からして、これらは鬱陵島の沖數キロ以内の屬島であり、「竹島」ではない。殘るは、③であるが、これはまづ、祕密裏になされたものではない。告示がなされ新聞報道などで告知されてゐる。また、確かに、竹島編入は、明治三十七年の第一次日韓協約後になされてはゐるが、この協約といふのは、政府が大韓帝國政府に顧問を派遣し大韓帝國の財政と外交の監督をするといふ内容であつて、この時點では大韓帝國は明らかに獨立國であつた。この協約も任意に締結された條約であり、大韓帝國は竹島編入に異議を唱へることのできる立場にあつたが、それを一度も唱へたこともなく、それについて何らの強制も存在しない。現に、大韓帝國の朴齊純外相は、竹島編入後の明治三十八年十月に、同年八月十二日に我が國が大韓帝國を保護下に置く權利を承認して成立した第二次日英同盟第三條を非難して、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議してゐることからしても、竹島編入に對して異議を唱へることは當然に可能であつたが、その措置をなさなかつた。

そもそも、竹島編入は、これまで我が國が實效支配してきたことを承認するものであつて、それまで日本人以外の者が一度たりとも竹島を支配した事實はないのである。それゆゑ、江戸時代から竹島編入まで、そしてその後に至るまで、我が國は竹島を實效支配し、その支配態樣においても「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」をなしてきたのであるから、これが竹島の領有權原となつてゐることは明らかである。

最後に、第三の、連合國の「竹島處分」の解釋についてであるが、これに關連する紛爭の發端は、GHQの『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』(SCAPIN677)による領土の範圍及び『日本の漁業及び捕鯨業に認可された區域に關する覺書』(SCAPIN1033)による日本漁船の活動可能領域(マッカーサー・ライン)から竹島が除外されてゐることを根據として、我が國が非獨立の占領下で武裝解除がされ武力による排除ができない状態であることを奇貨として、昭和二十七年一月十八日に韓國大統領李承晩が海洋主權宣言を行ひ、漁船立入禁止線(いはゆる李承晩ライン)を設定して竹島が韓國の支配下にあると一方的に宣言したことで始まつた。

韓國側は、これらを根據とし、桑港條約には竹島を我が國が領有するとは明記してゐないことにより、竹島の領有權原が韓國にあるとする。

しかし、前掲GHQ『覺書(SCAPIN677)』には、「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八條に述べられている諸諸島の最終的決定に關する連合國の政策を示すものと解釋されてはならない」とあり、同覺書(SCAPIN1033)には「この認可は、關係地域またはその他どの地域に關しても、日本の管轄權、國際境界線または漁業權についての最終決定に關する連合國側の政策の表明ではない」とあつて、これらの處分が最終的なものではないことが明記されてゐる。現に、小笠原諸島や奄美諸島、琉球諸島もマッカーサー・ラインの外に置かれてゐたが、すべて我が國に返還されてゐるのである。

また、昭和二十四年十一月十四日にアメリカ駐日政治顧問ウイリアム・シーボルトがバターワース國務次官補に充てた電報において、「リアンクール岩(竹島)の再考を勸告する。これらの島への日本の主張は古く、正當なものと思はれる。安全保障の考慮がこの地に氣象及びレーダー局を想定するかもしれない。・・・朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の處分に關し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第三條において日本に屬するものとして明記されることを提案する。この島に對する日本の領土主張は古く、正當と思はれ、かつ、それを朝鮮沖合の島といふのは困難である。また、アメリカの利害に關係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に氣象及びレーダー局を設置することが考へられるかもしれない。」との指摘してゐる。

そして、その趣旨に基づき、桑港條約第三條には、「日本國は、朝鮮の獨立を承認して、濟州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する」と規定してゐるのみで、竹島は含まれていないとして、韓國政府はアメリカに對し、昭和二十六年七月十九日、ヤン・ユンチャ駐米大使を以て、日韓併合前から朝鮮の一部であつた竹島に關するすべての權利を昭和二十年八月九日に放棄したことを確認すると書き換へるやうに要望する意見書を提出したが、アメリカは、最終的には、「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に關しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱はれたことが決してなく、千九百五年ごろから日本の島根縣隱岐支廳の管轄下にあります。かつて朝鮮によつて領土主張がなされたとは思はれません。・・・」と回答してその要求を拒絶し、桑港條約の最終案が確定した。

つまり、桑港條約第三條において、我が國が放棄した領域に竹島が含まれてゐないのは、以上の判斷による連合國の「裁定」によるものであり、その後に韓國が「非平和的」手段を用ゐて不法に實效支配を開始し、現在までそれを繼續してゐるとしても、我が政府が韓國政府に對し、竹島の領域主權を主張し續け、さらに、韓國による實效支配の態樣がさらに強化されることに對しても抗議し續けてゐる限り、竹島に對する韓國の領有權原が永久に形成されることはあり得ない。それは、千島全島と南樺太に對するソ連(共和制ロシア)の不法支配の繼續と同じことである。

このやうにして、竹島が我が國の領土であることは明らかであるが、前述したとほり、これについても「固有の領土論」を持ち出すことは、領土問題における敗北を意味する。つまり、「固有」といふのは、どこまで遡るのか、有利に援用できる面もあるが、結局のところ、遡れば遡るほど帰属未定地となつて固有の領土を失ふ論理に陥る。領土問題については、時效の論理だけでは不十分であり、國際條約を根據に領土論を展開すべきなのである。

もし、固有の領土論を展開するとすれば、鬱陵島や濟州島も韓國の領土ではないことや、對馬が我が國の領土でないまでも結論付けることもできるのである。つまり、鬱陵島は、前述のとほり、高麗國とは別の于山國といふ國であり、濟州島も耽羅國といふ國であつたし、對馬も對馬國といふ國であつたからである。濟州島について附言すれば、濟州島の耽羅國の創世神話を記した『高麗史』によると、こんな話がある。濟州島の中央に聳える漢拏山(ハルラサン)の北麓から創世の三神が三姓穴(サムソンピョル)といふ穴から湧出し、專ら狩獵生活をしてゐたところ、東海の濱に大きな箱が漂流し、その中から、青衣を纏つた三人の處女、それに牛馬と五穀の種が出てきた。その箱の從者は、日本國王の使者として、濟州島の三神に妻が居ないのを憂ひて三處女を遣はしたと告げるなり、雲に乘つて立ち去つた。その後、三神は三處女をそれぞれ妻とし、祭祀を守り、五穀の種を播き、牛馬を放牧して農耕牧畜による國家の基礎を築いたといふのである。これは、我が國の人々が濟州島に移住し、狩獵生活から農耕生活へと導いたことを示してをり、耽羅國(濟州島)は我が國の屬國であるとの解釋も可能となる。このやうに、自國に有利にも不利にもなる不確かな歴史解釋だけを根據に、固有の領土論を展開して領土問題を語ることは避けなければならないといふことである。

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