國體護持總論
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占領憲法制定への道

我が國が、沖繩戰を死力戰として戰ひ、本土決戰まで覺悟せねばならなかつたのは、從來までの近代戰爭における講和條件が、領土の割讓や賠償金負擔、それに軍備の縮小までであつたのに、昭和十六年八月の『英米共同宣言(大西洋憲章)』では「敗戰國の武裝解除」まで求めてゐたためであつた。完全武裝解除は將來における自衞權の完全放棄となり、國體の護持が危うく、國家滅亡に至る驚天動地の要求であるとの我が政府の判斷は當時としては當然のことである。從つて、その延長線上のポツダム宣言を直ちに受諾することはできず、最終的にこれを受諾するまでに愼重な討議や檢討のため然るべき日數を要したとして、それを單なる逡巡であるとして非難することできない。つまり、來るべき講和條件の受諾において、國家の滅亡を回避するための讓歩を少しでも得るために、沖繩戰を戰ひ拔き、その強い抵抗を示し、もつて讓歩を求め、それでも讓歩が得られないときは本土決戰といふ決死の覺悟をしてでも國家滅亡を回避せねばならなかつた政府の苦惱と沖繩縣民の痛みは、沖繩防衞軍の大田實司令官の「沖繩縣民かく戰へり。縣民に對し後世特別の御高配を賜はらんことを」との最後の言葉に凝縮されてゐる。

それでもなほ、昭和二十年七月二十六日のボツダム宣言は、右の英米共同宣言(大西洋憲章)と同十八年の米英中共同宣言(カイロ宣言)とを繼承し、「日本軍の無條件降伏」と「日本軍の完全武裝解除」を條件とするものであつた。このまま受諾すれば沖繩の犧牲が無駄になつてしまふとの我が政府の逡巡に對し、問答無用で敢行されたのが昭和二十年八月六日と九日の廣島・長崎の原爆投下であつた。

かくして、我が國はポツダム宣言を受諾した。

ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印は、帝國憲法第十三條の講和大權に基づいて締結された講和條約の總論的な入口條約であつて、その各論的な取り決めが連合國側でいふ保障占領期間を經て具體的に確定したのが桑港條約であつた。

桑港條約第一條には、「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。連合國は、日本國及びその領水に對する日本國民の完全な主權を承認する。」とあり、桑港條約が效力を生ずる日まで、我が國と連合國とは「戰爭状態」にあつたことが確認された。つまり、その間になされたGHQの我が國になした行爲は、いづれも戰爭の繼續としてなされたものであつて、その間において連合國が築いた最大の橋頭堡は、極東國際軍事裁判(東京裁判)の斷行と占領憲法の制定であり、さらに占領政策全般の要諦となつたのは、『ポツダム緊急敕令』(昭和二十年敕令第五百四十二號『ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件』)であつた。

ポツダム宣言第十項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」とあり、その前段が東京裁判斷行の、後段が占領憲法制定のそれぞれの根據とされた。しかし、これらはいづれも連合國側の恣意的な解釋であり、前段の「一切の戰爭犯罪人」の中に、國際法において確立されてゐた罪刑法定主義に違反し、新たに事後法を制定して遡及的に處罰するといふ國際法無視の東京裁判を容認する解釋などは成り立ちえない。また、後段の「一切の障碍」の中に帝國憲法を含ましめるといふのも到底成り立ち得ない牽強付會の解釋であつた。

ところが、GHQは、占領開始後間もなくこれらに着手した。その經緯の詳細は、第二章で述べたが、その概要を示すと次のとほりである。

昭和二十年九月四日に第八十八回帝國議會が開催され、同月二十日、占領政策の要諦となる『ポツダム緊急敕令』が公布され、同年十月十一日に、マッカーサーが幣原喜重郎首相に帝國憲法の改正を嚴命し、幣原はこれに屈服して受け入れたことが嚆矢となり、このことから我が本土政府は占領憲法制定への道を歩み出すのである。同月十三日に國務大臣松本蒸治を中心とする憲法問題調査委員會を設置することを閣議決定し、同月二十五日に同委員會が發足され、その後『憲法改正要綱』(松本案)が作成される。また、これと平行して、同年十一月二十七日開催の第八十九回帝國議會においてポツダム緊急敕令の承諾議決がなされ、同年十二月十七日、衆議院議員選擧法の改正(婦人參政、大選擧區制など)がなされていつた。そして、本土政府は、松本案をまとめ、これを翌昭和二十一年二月八日にGHQに提出して發表する豫定のところ、發表前の同月一日に毎日新聞が松本案を素つ破拔いてその内容をスクープとして發表したため、國策に重大な惡影響を及ぼした。この松本案は、天皇が統治權の總攬者であること、 議會の議決事項の範圍を擴充し大權事項をある程度削減すること、國務大臣の責任を國務の全般に及ばしめること、臣民の自由および權利の保護を擴大することの所謂「松本四原則」をもとに作成されたものであるが、これが素つ破拔かれて報道されたことから、これを知つたマッカーサーは即座に民政局に對してGHQ草案の作成を指示した。本土政府は、豫定通り同月八日に松本案をGHQに提出したが、GHQは、同月十三日にこの松本案を拒否すると同時に、占領憲法の原案となつた『GHQ草案(マッカーサー草案)』を強制し、「これを最大限に考慮し」て日本側に新たな案を作成するように命じたのである。しかし、本土政府は、我が國の國情からして、松本案以外に道はないとの結論に至り、同月十八日に松本案の補充説明書をGHQに提示し松本案の再度の受け入れを願つたが、GHQは、にべもなく峻拒し、あまつさへ、GHQ草案を受け入れなければ、天皇の地位を保障できなくなることや、言論統制下にある新聞社を使つて直接に國民にGHQ草案を公表するなどと強迫した。本土政府は、その後、同年三月二日に修正案(三月二日案)を提出するが、GHQはこれも拒否し、これ以上は待てないとして、「最終案」を作成のための共同研究會を開催することを嚴命した。本土政府は、ついにGHQに脅從して、同月六日、共同研究會で決定した「最終案」の字句に若干の修正を加へただけの『憲法改正草案大綱』をGHQの指示により天皇の敕語を添へさせて國民に發表し、同年四月十七日、この憲法改正草案大綱を口語體にした『憲法改正草案』が内閣で作成され、これが占領憲法案となつた。

そして、同年四月十日には第二十二回總選擧が實施され、同年五月三日に極東國際軍事裁判が開廷される中での同年六月二十日に第九十回帝國議會で憲法改正案を衆議院に提出され、同年八月二十四日に衆議院で修正の後に可決され、貴族院へ送付。同月二十六日には貴族院での審議が開始し、同年十月六日に貴族院で修正のち可決、再度衆議院へ送付されて翌七日に衆議院で貴族院送付案を可決、樞密院の審議へ入つた後、同年十一月三日に占領憲法が公布され、翌昭和二十二年五月三日に占領憲法を施行するといふ手續がなされてきたのであつた。

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