國體護持總論
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占領基本法

ところで、占領憲法は、「GHQが作つた占領管理基本法」(小山常実)とする見解がある。これは、相對的無效説(相對的有效説)といふことになる。それ以外にも、占領管理のための「法律」であつたとする見解が舊無效論の論者には多い(井上孚磨、菅原裕など)。それによつて、疑問と不安を解消しようといふのである。いはゆる「法律説」である。

この法律説は、なにゆゑに「憲法」が「法律」に轉換するのかについての説明がなされてゐないが、確かに、占領憲法の制定手續は、法律の制定手續として見れば、形式上は酷似してゐる。このことから、假に、眞正護憲論(新無效論)のやうに、帝國憲法第七十六條第一項に基づいて立論されたものであつたとしても、その詳細な根據付けの檢討はひとまづ置くとして、果たして、そのやうな考へが「法の正義」に適ふのであらうか。

前章でも述べたとほり、そもそも、法の正義といふものは、「實質的正義」と「形式的正義」に分類されるといふ。そして、實質的正義とは、本來、價値が絶對視、絶對化されるといふ保障がなければ成り立ちうるものではなく、現代社會における價値の多樣化に伴つて一義的に定まらない事象が擴大し、今後もさらに相對化することは必至である。しかし、その中でも比較的爭ひのない歴史的かつ傳統的な普遍性のある規範を抽出して、實質的正義の概念を維持してゐるといふのが實状である。

このやうに、實質的正義の絶對性が搖らぐ一方で、形式的正義の役割は益々重要となつてゐる。この形式的正義といふのは、「自己の權利は主張しながら、他者の權利を尊重しない者」を「惡」とする法理であり、他者を差別的に扱ふ「エゴイスト(二重基準の者)」を惡とするものであるとされ、「等しきものは等しく扱へ」「各人に各人の權利を分配せよ(Ius suum unicuique tribuit)」といふローマ時代から言ひ傳へられてきた人類の知惠であつて、現代においては、「クリーンハンズの原則(汚れた手で法廷に入ることは出來ない)(自ら法を守る者だけが法の尊重を求めることができる)」や「禁反言(エストッペル)の原則(自己の行爲に矛盾した態度をとることは許されない)」などとして根付いてゐると言はれてゐる。

しかし、これは、現在のところ、あくまでも「法の支配」が妥當する國内系の領域に限られ、國際系には適用がない。國際系では、「法の支配」がある程度は尊重されるとしても、今でも「力の支配」によるものであり、體系理念を異にするのである。

國内系では、刑法典によつて、殺人罪等の重大犯罪については、屬地主義と屬人主義の雙方が適用され、本國人も外國人も處罰されるのに對し、國際系では、大量殺人を招く戰爭自體が合法であり、しかも、戰勝國の國際法違反の大量殺人は處罰されない。これらは別體系による結果の相違であり、國内系と國際系とを混同し、あるいは同列に論ずることはできないのである。

さうであれば、占領憲法は、國内系の規範であることから、實質的正義(内容の正當)においても手續的正義(手續の公正)においても、正統憲法の授權の内容と手續を逸脱してゐることを理由として、憲法としてはもとより法律としても無效であるといふ結論に到達することになる。つまり、内容においても、帝國憲法の改正の限界を超えて改變するものであり、手續においても、帝國憲法第七十三條の手續を外形的に履踐したとしても、天皇の改正發議權を侵害し、占領軍の強制によるものであつて、非獨立の占領下といふ國家の異常な變局時に改正したものは帝國憲法第七十五條に違反するので、内容と手續の雙方において「法の支配」(國體の支配)に違反して無效であるといふことである。

ましてや、「法律論議をするまでもなく事實關係からして無效」(小山常実)であるとして、帝國議會の「審議」自體が事實として實質的に「不存在」であるから無效であると判斷することもできるのである。憲法の改正も法律の制定も共に帝國議會の審議が必要なのであるから、その審議それ自體が不存在であれば、それは憲法の改正の審議としても、法律の制定の審議としても不存在なのであつて、いづれの規範としても無效のはずである。ところが、「法律説」は、それを「GHQが作つた占領管理基本法」とするのである。つまり、我が國の帝國議會が法律として審議して制定したのではなく、それを「GHQが作つた」とまで評價するのであれば、嚴密には「法律」ではないことになる。そして、これは、「GHQが作り、我が國がそれを承諾した規範」、すなはち、「講和條約」といふことになるのではないのか。にもかかはらず、占領憲法を法律として轉換させる根據は一體どこにあるといふのか。

そもそも、國内系の憲法として無效なものが、その憲法の下位にある同じく國内系の法律として有效となるはずはない。憲法の破壞を目的とした憲法改正行爲が無效であれば、憲法の破壞を目的とした法律制定行爲もまた憲法違反であるから無效である。占領憲法が帝國憲法の改正として無效であるといふことは、帝國憲法以下の「國内系」の法體系から排除されることを意味するので、「憲法」は勿論のこと「法律」として認められることもあり得ない。帝國憲法第七十六條第一項には、「法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ效力ヲ有ス」とあり、それが「日本國憲法」といふ「憲法」といふ名稱を用ゐたものであつても、帝國憲法と矛盾しないものであれば、それが法律としての制定手續に基づいてゐる限り、帝國憲法に基づいて成立した「法律」として遵由すべき效力があるが、占領憲法は帝國憲法を否定するために生まれたものであり、そのやうな違法(違憲)な目的で制定された國内系の法律が、法律として許容されることはありえないのである。また、その結果、内容においても、帝國憲法を否定し、これと矛盾するものであるから、目的と手續・内容のすべてにおいて不正義なものを「法律」として認めてその效力を認めることはできないのである。

尤も、占領憲法が帝國憲法と矛盾しないのであれば、直接的に、帝國憲法の改正法としての「憲法」として認められることになるのであつて、「日本國憲法といふ名の占領統治基本法」(占領基本法)として有效であるか否かを檢討する餘地もあり得ない。それゆゑ、占領憲法が憲法としては無效だが「占領基本法」としては有效であるとする見解は、あたかも、舊日本社會黨が自衞隊の存在を違憲であるが合法であるとした「違憲合法論」の論理矛盾と同樣の誤謬を犯すものであつて認められないことになる。

確かに、占領憲法は、その制定手續においては、帝國議會の審議を經たものである。しかも、それは帝國憲法第七十三條に基づく改正手續の形式を踐んでゐると僞裝(假裝)してゐることから、少なくとも形式上は「凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」とする帝國憲法第三十七條の法律制定手續を履踐してゐることになる。しかし、繰り返し述べるが、帝國憲法の内容と手續に違反し、違憲の目的を以て制定され、規範國體の内容にも違反して無效のものが、帝國議會の審議を經て「法律」として成立しうる外形的な手續を滿たしてゐるとしても、それが有效であるはずはない。憲法として確定的に無效(絶對無效)であるものが、その下位法令である占領基本法として現在もなほ有效であるとすることは幻想に過ぎないのである。うべなるかな、憲法が自らを否定することを法律に授權したとでも云ふのか。憲法を否定する目的で制定した法律が有效となる道は國内系ではありえない。親の仇は子にとつても仇である。

この點において、講和條約の場合は、全くその樣相を異にする。そもそも、講和大權に基づく講和條約は、帝國議會の「議決」は勿論、事前事後の承認を經る必要がない。講和大權は大權事項であるから、帝國議會の關與を許さないのであり、天皇を補弼する政府がその委任を受けて締結することで足りる。帝國議會の審議と議決を經たのは、この正體が講和條約(東京條約、占領憲法條約)であることが悟られまいとしてなされた「壮大なる茶番劇」に過ぎないのである。つまり、帝國議會の衆貴兩院議員と政府官僚たちなどをエキストラとして、これに法外なギャラを我が國の國家豫算から支払はせて總動員させ、マッカーサー監督の演出によつて完成した「占領憲法物語」といふスペクタル作品に他ならない。

ところで、講和條約の特殊性からして、帝國憲法の根本規範を侵害しない限度で「遵由ノ效力」があるので、一般の憲法條項に牴觸してでも締結しうる。そして、その講和條約を支配する規範は、國内系の「法の支配」ではなく、國際系の「力の支配」に基づく。それゆゑに、その實質において、占領憲法は、まさに講和條約に等しいものであつた。ただし、それが直ちに國内法秩序に編入されるものでないことは前に述べたとほりである。

我が國は、恫喝によつて、敕許も得ない違敕の安政の假條約を締結したが、これを德川幕府から國家承繼した明治政府は、後に述べる『條約法に關するウィーン條約(條約法條約)』の規定のやうに、これが恫喝によるもので無效であるとは主張せず、國際系の「力の支配」に從つて、富國強兵政策とともに外交努力を重ねて、不平等條約を解消するに至つたのである。ここでは、これらが違敕の條約であつたとする國内系の認識に基づいて排除せねばならないとする國家意志と、力の支配によつて國際法的に締結された條約として受け入れざるを得ないとする國際系の認識とを峻別してゐたのである。にもかかはらず、我が國は、當時の國際政治状況の中で、極東委員會の占領憲法に對する干渉も存在した事情も踏まへれば、占領憲法を國際系の規範として位置づけされるといふ國際政治の實相を無視し、專らこれが國内系の規範であるとする引き籠もりの判斷に陥つてしまつたのである。その引き籠もり現象は、およそ國際系の觀點を缺落させた見解に蔓延してをり、有效論のみならず、舊無効論でも、この法律説や後に述べる非常大權説などにも見られるのである。

すべてを國内系として認識し處理しようとする法律説は、違敕の安政假條約をも無效であつたとするのであらうか。そして、これと同じ論理で、入口條約も恫喝によるもので無效であるとするのか。もし、これらの國際系の講和條約が無效なら、どうしてそのまま國内系の法律として有效なのか。これらは、國際系と國内系の論理が倒錯したことによる矛盾であることは明らかである。この法律説は、國内系しか認識できず、國際系と國内系の區別ができない、まさに井の中の蛙の論理に他ならない。

今、我々に必要なことは、「憲法體系」と「講和(條約)體系」との相違、つまり「國内系」と「國際系」とを峻別して認識し判斷し、この占領憲法の問題を國内問題に限定することなく、國際問題であるとする視座に立つて、「然諾を重ずる」武士道精神を以て國際社會に對峙した明治政府の襟度と氣概を甦らせ、占領憲法問題の國際的解決のために前進せねばならないのである。

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