國體護持總論
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憲法的條約

繰り返し述べるが、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印とは、いづれも、帝國憲法第十三條の講和大權の行使により締結された「獨立喪失條約」である。これを帝國憲法に從つて考察すれば、前記の獨立喪失條約の内容は、統治大權(第四條)を制限し、統帥大權(第十一條)及び編制大權(第十二條)を停止したことになる。そして、これらを制限し停止することを受諾する權限が講和大權といふことになる。このやうに解釋できるためには、各天皇大權の權限序列において、講和大權が、統治大權、統帥大權及び編制大權に優越し、統治大權を制限し、統帥大權及び編制大權を停止しうることが憲法上許容されることが肯定されなければならない。

戰爭の結果は、必ずしも勝利するとは限らず、國家滅亡の危機に遭遇することもありうる。大東亞戰爭はまさにそのやうな世界的な思想戰爭であつた。それゆゑ、講和大權とは、戰爭を終結させるための諸條件など、對手國と停戰講和に關する合意を行ふ權限であつて、その内容は、國家滅亡を回避するための廣範な權限を含むはずである。しかし、憲法改正手續によつては改變しえない規範國體(根本規範)をも完全否定した講和は、國家の同一性を損なひ、國家の滅亡を來すこととなるので、講和大權と雖もそのやうな權限まで授權されてゐない。ここに講和大權の限界が自づと存在するのである。しかし、講和大權は、國家緊急權として、規範國體(根本規範)以外の通常の憲法規範(統治技術的な規定など)については、規範國體を維持する必要がある場合に限つて、これを改廢又は追加すべき義務(帝國憲法改正義務)を負ふ内容の講和條約を締結する權限を含むものと考へられる。

しかし、講和大権の性質が一般的にはそのやうなものであるとしても、實際には、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ入口條約には、帝國憲法改正を義務づける條項がなかつた。つまり、我が國は、連合國が求めた國内政治の變革を受け入れる義務を負つたものの、それは規範國體と抵觸しない事項について、「帝國憲法改正以外の方法」によることを限度として認められるものであつて、決して帝國憲法改正義務まで負つたものではなかつた。この入口條約は、最終講和に至るまでの講和條約群の性質と内容を決定づける總論的な「基本條約」であるから、最終講和に至るまでにおいて、武装解除されて抗拒不能となつた敗戰國である我が國に對して事後的に帝國憲法改正義務を新たに負擔させるなどの不利益變更が許されないことは當然のことである。それゆゑ、我が國は、連合國に對して帝國憲法改正義務を負つてはゐないのであるが、國體護持のため、講和大權によつてポツダム宣言を受諾し、皇軍の完全武裝解除を受諾するなど根本規範に屬する統帥大權、編成大權、統治大權を否定することなく、その行使を制限ないしは停止する趣旨にて合意するに至つたのである。それゆゑ、このことから、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印は、講和大權の行使によつて、根本規範に屬する統帥大權、編成大權、統治大權の行使を暫定的に「制限」ないしは「停止」させる限度で許容されるのであり、將來において獨立し、制限・停止の障碍が喪失した場合には、根本規範の本來的な規範性は當然に復元される。あくまでも暫定的な制限、停止が許容されるのであつて、永久かつ完全に否定するデヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」でない限り、條約法條約を持ち出すまでもなく國際法上もありえない。それゆゑ、國際系の講和條約が恆久的に國内系の根本規範を直接に制限、停止ないしは廢止することを内容とするものであつても、それは、「先勝國の政治的要望書」にすぎない。國際系の規範と國内系の規範とは法體系が異なるため、國際系の規範(講和條約)によつて國内系の規範の直接の改廢は不可能である。國内系の規範をそのやうに改變することを要望し、あるいは緩やかに義務付ける程度の效力しか認められない。

なぜならば、後述するとほり、占領憲法の各條項の解釋においても、第四十一條についての政治的美稱説、第二十五條についての制度的保障論、さらに、第九條についての政治的マニフェスト論など、準則と原理の二分論などによつて、法規の持つ規範性について、強いものと弱いものとに區分されるのと同樣に、國際規範においてもその區分は肯定される。そして、直接に國内規範を改變するデヴェラティオ(デベラチオ)のやうな時代錯誤の講和條約が國際法上も認められるはずもないことからすると、國際系の規範のうち、武力によつて構築される内政干渉的な講和條約の規範性は弱いものと認識されるからである。このやうなものに、直接的な法的拘束力があると信じ込むこと自體が「奴隷道德」であり、さう信じ込ませることが「蚤の曲藝」に他ならない。

ただし、その講和條約が恆久的に國内系の憲法規範を否定する内容のものであるとしても、講和條約の性質上からすると、それが國内系の根本規範の場合は、根本規範の行使を暫定的に停止、制限する限度において、また、根本規範に屬しない他の憲法規範の場合は、そのやうな國内系の規範の定立を義務付ける「立法(義務)條約」としての限度で許容されることになるのであらう。

ここで、「許容」されるといふ意味は、國内系では「違憲」であるが、國際系では「合法」であるといふ状態が共存しうるといふことである。いづれは、講和條約が國内系に確定的に組み入れられて受容するか、あるいは講和條約を破棄又は改定して排斥するかして、この國内系と國際系との捻れ現象による相剋が解消されることになる。しかし、それまでは、國内系においては、その未編入の講和條約の國内的效力としての「憲法的慣習(法)」が生じることになる。これは、違憲であるが無效ではないといふ憲法的慣習であり、「違憲慣習」と呼んでもよい。「憲法的」(constitutional)といふのは、憲法そのものではないといふ意味であり、「慣習法」といふのは、適正な手續によつて成立する「法律」といふ意味ではなく、廣義の規範を意味する言葉である。

この憲法的慣習法については、國内系における正規の憲法改正ではないことから、既存の憲法規範の效力自體を否定するものではなく、既存の憲法規範の持つ復元力によつて、憲法的慣習(違憲慣習)を正規の憲法改正に昇格させない状態に留めてゐることになる。これは、國内系と國際系に跨つた「違憲合法論」の一種であると捉へることもできるし、獨立喪失條約(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)は、その意味で「憲法的條約」といふことができる。

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