國體護持總論
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著書紹介

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靖國問題について

占領憲法第二十條と靖國神社、護國神社の關係は、今までの誤魔化しにも似た小手先の解釋論では通用しなくなつてきた。平成九年四月二日の愛媛玉串料訴訟最高裁判決は、國體的見地からは絶對に承服できないことではあるが、占領憲法を有效とする見地からは殘念ながら承認せざるを得ない。神道彈壓・靖國否定の神道指令を前提として占領憲法第二十條と第八十九條が生まれたといふ沿革があるにもかかはらず、最高裁判所としては、よく今まで憲法解釋をねじ曲げてまで國體護持のために頑張つてくれたが遂に力盡きるときが來てしまつたと、その努力を勞つてやるべきであらう。この判決を批判する人々は、占領憲法第九條で黑い烏(自衞隊)を白い(非軍隊)としたのと同樣の詭辯をもつて占領憲法第二十條についての特異な解釋論を展開し、さらに、占領憲法を無效であると主張する勇氣もないのに、單に、占領憲法だとか、押し付け憲法だとかいふ揶揄にも似た批判を徒に展開する。しかし、占領憲法を憲法として有效であるとする限り、そんな批判は誠にもつて見苦しい限りである。無效を主張することもせず、負け犬の遠吠へのやうに、占領憲法の成立過程にケチをつけ悔し紛れに揶揄することは、法の支配や法治主義の理念からして許されるものではない。成立過程に問題があつても、結果的に憲法として有效と判斷するのであれば、占領憲法を輕んじて嚴格な解釋をしないのは、却つて臣民の遵法心を低下させ道義を退廢させる。嚴格な解釋を行へば、臣民の感覺からして、占領憲法を前提とする限り、自衞隊を「軍隊」でないと言ひ切ることはできないし、「宗教法人靖國神社」として存在してゐるのに、「神道は宗教にあらず」と言ひ切ることもできない。

ところで、靖國神社などへの閣僚の「公式參拜」を認めるべきか否かといふ議論があるが、このことについては、戰前の國家神道との關係で問題が提起されてゐる。國家神道については後述するとして、「參拜」には、本來的な信仰に基づく參拜(以下「信仰參拜」といふ。)と、信仰に基づかない儀禮的行爲などの動機に基づく參拜(以下「儀禮參拜」といふ。)の二種類があるのに、どうもこれらが混同して議論されてゐるやうである。

信仰參拜は、公式も非公式もなく、あくまでも私的な行爲である。信仰參拜には「正式參拜」と「略式參拜」の區別はあつても、「公式參拜」なるものがあるのではない。公式參拜が問題とされてゐるのは、主に儀禮參拜である。英靈は、信仰參拜の對象となることは勿論であるが、國家に殉じた英靈に對し、國家が行ふべき儀禮として參拜する義務があることは當然のことであり、その意味では、儀禮參拜としての公式參拜は認められるが、それを信仰參拜まで求めることは許されない。それでは國家神道となる。儀禮參拜は、その回數や程度、費用支出などを儀禮の限度で確定し、これを國家機關の主要な公務員に義務付けるづけることは、信教の自由の侵害とはならない。また、公式參拜に關してそれ以上に重要なことは、天皇陛下の御親拜を復活させることである。これこそが眞に「公式(皇式)」なものである。

ところが、これらのことは占領憲法下では不可能である。やはり、これを占領憲法を憲法としては無效であると認識しなければ根本解決には至らない。そうすれば、靖國の變質と弱體を狙ふ靖國神社國營論といふ新たな國家神道論から解放されることになるであらう。その意味では、昭和四十九年に、靖國神社國家護持法案が廢案になつたことは喜ばしいことである。英靈を否定する占領憲法の下では、靖國神社の國家護持とは、實質的には靖國の解體へと進んで行くことになるからである。

ところで、靖國神社では、大東亞戰爭終結時に責任を負つて自決された方々や東京裁判その他の軍事裁判で處刑された千餘名の方々を「昭和殉難者」として合祀されてゐる。それゆゑ、靖國の祭神たる英靈は、必ずしも軍人、軍屬に限られてゐない。それゆゑに、明治元年六月に江戸城大廣間で行はれた招魂祭における賊軍排除の限定は、決して靖國の歴史と方向を決定付けるものではなかつたはずである。

しかし、鳥羽・伏見の戰ひに始まる戊辰戰爭では會津は賊軍とされた。禁門の變では長州は逆賊であり、薩摩と會津は皇御軍であつた。この區分によれば、靖國神社や山口縣護國神社などでは逆賊も御祭神となつてゐるが、他藩の逆賊は決して御祭神とはなつてゐない。このやうに狹矮な大義名分論による官賊差別を靖國が堅持し續ける限りは、日本人の魂を搖さぶるだけの力と根據を持ち得ない。皇道と武士道の忠義のために一命を捧げた「憂國の忠魂」に官賊の區別はなく、官賊差別は有害無益である。日清・日露以後の戰爭においても、敵將や敵兵の亡骸に花を手向ける武士道精神と怨親平等の理念が、どうして邦人殉難者にも發揮されないのであらうか。會津の白虎隊など戊辰戰爭の全殉難者や、明治黎明期における神風連の亂、秋月の亂、萩の亂、西南戰爭などの憂國の全殉難者を靖國に合祀してこそ、日本精神の神髄に回歸できるのである。

これが實現し得ないのは、まさに「薩長史觀」による弊害であるが、まだ問題がある。この「官賊差別」と同樣に、否、それ以上に「官民差別」がある。國難に軍民、官民と臣民との區別はない。ましてや大東亞戰爭は、臣民の總力戰であつて、「銃後の守り」こそが戰爭の主力部隊であつたといへる。その銃後の守りが都市空襲や原爆で多大の被害を蒙つたのであつて、全てが殉難者であることに變はりはない。

東京裁判史觀やコミンテルン史觀からの脱却を唱へる者は、これらの歴史觀の源泉である占領憲法からの脱却として無效論を唱へなければ畫龍點睛を缺くことになり、さらに、明治維新における「薩長史觀」からの脱却をはからねばならないのである。薩摩、長州、會津などが歴史的和睦を行ひ、舊幕府、奥羽越列藩、西南戰爭などの殉國者の全てを靖國において合祀し、福島縣護國神社や鹿兒島縣護國神社、山口縣護國神社を初め全國の護國神社と靖國神社に普遍性が甦るとき、それが眞正日本の再生への第一歩となるはずである。

ともあれ、靖國神社は、嘉永六年から大東亞戰爭終結までの約百年間だけに限られた「防人」を祭神とする神社であり、しかも、その間における全ての「防人」が祭神ではないといふやうに、歴史的普遍性のないものであつて、眞に我が悠久の歴史における全ての防人を祀る神社とはなつてゐない。もし、靖國が不朽に防人を祀る神社となるためには、これまでの薩長史觀の呪縛から解放し、發展的に一旦は廢社した上で新たに「防人神社」として再創建されることを願ふばかりである。

しかし、このやうに、また、次に述べるやうな樣々な問題があるとしても、靖國は、少なくとも大東亞戰爭の英靈の多くを祀つた中核的神社であることに變はりはない。その靖國に我が國の首相が儀禮參拜することについては、眞正護憲論(新無效論)であれば何の問題もないのである。

占領憲法は「憲法」ではなく、東京裁判(極東国際軍事裁判)も本質的には「裁判」ではない。あくまでも講和の條件である。桑港條約が發效する昭和二十七年四月二十八日までは「戰爭状態」であつて、その間に東京裁判と稱する「政治の戰爭」によつて敵國に殺害された者の死は「戰死」である。「戰爭」には、事實面と法律面とがあり、事實面の戰爭(戰闘行爲)は、昭和二十年九月二日までに原則として終了し、法律面の戰爭(講和行爲)は、昭和二十七年四月二十八日に終了したのである。戰爭状態が終はるまでに、講和條件である東京裁判などの軍事法廷といふ名の「戰場」で法廷闘爭といふ法的戰闘の結果によつて處刑されたすべての戦犯死は例外なく「戦死」である。これは「公務死」ではなく、明らかに「戰死」なのである。それゆゑ、A級戰犯などの昭和殉難者は戦死者として靖國神社に合祀されることは當然のことである。

それゆゑ、一旦合祀された後の分祀が可能か否かとは關はりなく、A級戰犯の分祀を求める外國の内政干渉とこれに呼應する勢力に屈してまで分祀する必要はなく、これを峻拒して國家の矜恃を保つた靖國神社の對應を評價したい。

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